高岡市指定史跡 赤丸城跡
赤丸城の概要
殿様池と呼ばれる井戸
殿様池と呼ばれる井戸
赤丸城は、富山県高岡市福岡町舞谷にある山城です。高岡市指定史跡に指定されています。
この城は標高172mの城ヶ平山上に築かれていて、遺構としては曲輪跡、堀切、土塁、井戸、畝状竪堀群などが残っています。
主郭は山頂部にあり、大きさは50m×20mほどです。主郭の西側にも2段の副郭があり、井戸跡もあります。井戸は現在も水があり、生きている井戸です。主郭の北側にも曲輪があり、堀切で遮られています。こちらが虎口になるようです。
城の防御力は地形が険しいためにかなりのもので、攻め落とすのは容易ではありません。
この赤丸城は、戦国期には中山氏の城でした。中山氏は、赤丸周辺から氷見市にかけて所領を持っていました。中山氏の家譜から南北朝時代からの家柄で浅井城を本城としていたと考えられています。となれば赤丸城は、出城もしくは詰城であったと考えるのが妥当でしょう。本城とするには、この城はちょっと険しすぎて不便だと思われます。
戦国期には、佐々成政に属していたと思われますが、1585年に佐々成政が秀吉の討伐を受けて降伏し、越中から去った際に、中山氏も当地を去ったと考えられます。
この赤丸城も中山氏が退去して程なく廃城になったと考えるのが妥当でしょう。佐々成政が越中を去った後は、この周辺は前田氏の所領となっていることと、この城の戦略的価値も消滅したと考えられるので前田氏が引き続きこの城を使用する必然性はないことと、実際にも前田氏がこの城を使用し続けたという形跡も見あたらないことから廃城は1585年頃と思われます。
また城の虎口が改修された形跡があること、畝状竪堀群など高度な技術を使用していることから佐々成政が改修したと思われます。あるいはそれ以前に上杉謙信がこのあたりを攻めていることから上杉氏に降って、その支配下にあったとすれば、その際に改修したのだという可能性も考えられます。
赤丸城の登城口は、2箇所ありこぶし荘側から登る道と八幡社から登る道がありますが、こぶし荘側から登る道は険しく、途中がなぜか荒れていて、山歩きに慣れていない初心者にはきついと思います。ただし、こちらの方は道順が示されています。八幡社側から登ると標識がないので注意が必要です。もっとも八幡社からの登城口さえ間違えなければ一本道なので迷うことはないでしょう。
八幡社側からの登城道もかなりの急勾配ですが、それでもこぶし荘側からの登城道よりはまだ登りやすいかなというところです。
また城のすぐそばの斜面には、城ヶ平横穴古墳がありこれも併せて訪問すると良いでしょう。
さて、この城を我が軍が攻めるにはどうしたらよいかですが、東側から攻め入るのは地形が険しすぎて困難です。攻めるのは北側からか南側からでしょう。南側の尾根にはいくつもの堀切があり、畝状竪堀群もあってやはり攻めるのは容易ではないので、北側から攻めるのが良策でしょう。西側から侵入するのも良さそうですがこちらもあまりに急なために困難です。

登城口に設置された説明板 城ヶ平横穴古墳の説明板
登城口に設置された説明板 城ヶ平横穴古墳の説明板
登城口 かなり急峻な登城道です
登城口 かなり急峻な登城道です
横穴古墳・殿様池とありますが・・・ 登城道はかなり急な上に少々荒れています
横穴古墳・殿様池とありますが・・・ 登城道はかなり急な上に少々荒れています
狭く急な登城道を登っていきます 登城道の途中に看板がありました
狭く急な登城道を登っていきます 登城道の途中に看板がありました
道順を示す標識があちこちにあります 横穴古墳がありました
道順を示す標識があちこちにあります 横穴古墳がありました
いくつも横穴がありますね ここから人骨などが発見されています
いくつも横穴がありますね ここから人骨などが発見されています
城ヶ平横穴古墳を示す標識 城への登城道は狭くて急です
城ヶ平横穴古墳を示す標識 城への登城道は狭くて急です
もうすぐ頂上です 堀切があります
もうすぐ頂上です 堀切があります
赤丸城主郭はきれいに削平されています 南側との尾根の間に堀切があります
赤丸城主郭はきれいに削平されています 南側との尾根の間に堀切があります
井戸はかなりの深さで水もあります 西の副郭
井戸はかなりの深さで水もあります 西の副郭
副郭は一段低くなっています 井戸跡は殿様池と呼ばれています
副郭は一段低くなっています 井戸跡は殿様池と呼ばれています
主郭の南側には腰曲輪があります 井戸は副郭にあります
主郭の南側には腰曲輪があります 井戸は副郭にあります
主郭の西側は急峻な崖です 曲輪は比較的削平されています
主郭の西側は急峻な崖です 曲輪は比較的削平されています
副郭から主郭へは段差があります 主郭から副郭側をみる
副郭から主郭へは段差があります 主郭から副郭側をみる
主郭からの眺望はそこそこか 山城としては曲輪の面積は大きい方です
主郭からの眺望はそこそこか 山城としては曲輪の面積は大きい方です
南側の尾根との土橋 明確な堀切が残っています
南側の尾根との土橋 明確な堀切が残っています
尾根の向こうには鴨城があります 東側の斜面は急峻過ぎてここから攻めるのは困難です
尾根の向こうには鴨城があります 東側の斜面は急峻過ぎてここから攻めるのは困難です
南側の尾根伝いに行くと堀切がさらに2つあります 深い堀切は通過が困難なほどです
南側の尾根伝いに行くと堀切がさらに2つあります 深い堀切は通過が困難なほどです
これだけの深い堀切があるとここからの侵入は困難です 堀切の両岸は切岸になっています
これだけの深い堀切があるとここからの侵入は困難です 堀切の両岸は切岸になっています
八幡社の左側が登城口です 上り口は結構な急勾配です
八幡社の左側が登城口です 上り口は結構な急勾配です
塹壕のような登城道です どんどん登っていきます
塹壕のような登城道です どんどん登っていきます
少し開けてきました この鉄塔が目印です
少し開けてきました この鉄塔が目印です
鉄塔を過ぎると急勾配になります 狭く急な登城道を登ります
鉄塔を過ぎると急勾配になります 狭く急な登城道を登ります
途中に堀切がありました ここが最も急な箇所です
途中に堀切がありました ここが最も急な箇所です
土塁があり通路が曲げられています ここにも堀切が
土塁があり通路が曲げられています ここにも堀切が
頂上までもう少しです 北の副郭
頂上までもう少しです 北の副郭
主郭に入りました 西の副郭
主郭に入りました 西の副郭
赤丸城跡
住所 富山県高岡市福岡町舞谷 形式 連郭式山城 (標高172m/比高150m)
遺構 曲輪、土塁、堀切、井戸、切岸 築城者 中山氏
施設 遊歩道、案内板 城主 中山氏
駐車場 八幡社付近 築城年 天正年間以前
文化財 高岡市指定史跡 廃城年 1585年頃
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