富山県史跡 阿尾城跡
阿尾城の概要
阿尾城石碑
阿尾城石碑
阿尾城は、富山県氷見市阿尾城ヶ崎にある平山城です。あるいは海城・崖端城とも言えるかもしれません。
現在は富山県史跡に指定されています。
阿尾城は富山湾に面した標高20~40mの独立丘陵上にあります。海側は断崖絶壁でここからはとても攻めることはできないので攻め込めるのは西側からだけです。ここもかなり急坂ですので、もしここを攻めようとしてもかなりの被害が予想されます。
築城時期は不明ですが、発掘された出土遺物からは15世紀後半頃には既に城として利用されていたと思われます。
天正・文禄年間(1573~1596)頃には菊地武勝・安信父子が居城しています。
この菊池氏は、肥後の名族菊池氏の出自ですが、肥後の菊池宗家は戦国時代に大友氏によって滅亡しています。
阿尾城主の菊地氏は、当初は上杉謙信が能登を支配した際にはそれに従ったと思われますが、織田信長が勢力を伸ばしてくるとその配下の佐々成政に従い、1584年(天正12)には佐々成政と羽柴秀吉が対立すると秀吉配下の前田利家へ寝返り、城を明け渡しています。そして阿尾城代として有名な前田慶次郎が入り、佐々軍の攻撃を受けることもありましたが、なんとか防ぎきっています。阿尾城は慶長初め(1597年頃)には廃城となり、菊池氏の子孫は前田家家臣となり1500石を与えられています。
三の丸にある神輿会資料館
三の丸にある神輿会資料館
阿尾城の遺構としては、曲輪として、本丸、二の丸、三の丸が現存しています。また土塁、空堀も残っています。
また現在は榊葉乎布神社が西側の郭にあり(郭名は不明)、実際には城の唯一のウィークポイントである西側を守る郭なので防衛上最も重要な郭であると思われます。また白峰社が二の丸の上部にあります。
本丸には当時は櫓があったと考えられていて、海上の監視を行っていたと思われますが、現在は展望台がありやはり海上を望むことができます。この城の特徴として本丸が海上に突き出た崖上にあり、他の郭とはやや離れていて二の丸とつなぐ通路が極めて狭く急な土橋だけということです。本丸と二の丸の間に空堀らしい窪みがあります。
またこの城は、各郭がみな狭いためあまり大規模な建築物を建てることができないので、あまり多数の兵が篭ることはできないと思われます。もっとも菊池氏はさほどの兵力を持っていたとも思えません。おそらく数百名の兵力しかなかったのではないかと思われます。後の氷見合戦では菊池勢は千名を動員していますが、これが最大動員であったと思われますが、むしろ菊池氏の支配地域から考えると少々過大ではないかとさえ思います。
阿尾城では戦国時代に大きな戦いが起こっています。阿尾城の合戦、あるいは氷見合戦とも呼ばれています。
阿尾城本丸跡
阿尾城本丸跡
1584年(天正12年)、末森城の戦いの後、前田利家は佐々成政の勢力をそぐため、同年11月8日に佐々成政の重臣である阿尾城主菊池武勝に和睦交渉をひそかに持ちかけています。菊池武勝は、前田家家臣の富田景政との秘密交渉で前田氏に寝返ることを決意して、翌年の4月14日、前田利家は六千の兵を率いて阿尾城へ向かっています。菊池父子は城門を開き、城からやや離れた所で五十騎ばかりを従えて前田軍を出迎えています。このとき、先陣に村井長頼、第五陣に慶次郎、後方に防衛役として利家自ら出馬して次々と阿尾城に入城しました。守山城の神保氏張からの急使により菊池氏の裏切りを知った佐々成政は、烈火のごとく怒り、直ちに富山城から阿尾城へとかけつけています。しかしすでに城内には前田勢が入っていてとても攻めることはできず、空しく富山城へ引き揚げています。
ほとんど戦うことなく阿尾城を手に入れた前田利家は阿尾城代に前田慶次郎を任命し、片山延高、高畠定良ら兵千余騎を残し金沢へ引き上げ、また村井長頼は高窪城に一撃を加えて金沢へ戻っています。しかし佐々成政ともあろう者が重臣の内応に気づかないとはぬかりましたね。
佐々成政は、阿尾城を取り戻すべく神保氏張に阿尾城攻撃を命じ、6月24日には神保氏張、氏則の父子は五千の兵を率いて氷
二の丸上部にある白峰社
二の丸上部にある白峰社
見へ進撃してきました。これを見た阿尾城将前田慶次郎以下、片山延高、高畠定良、菊池武勝、その子安信らは二千の兵を率いて迎撃しました。この戦いは双方一進一退の大激戦となり、兵力で劣勢であった前田軍がついに総崩れになろうとしたとき、折よく三百の兵を率いて前線の巡視に来た村井長頼がこれを見て加勢し、神保軍は日ごろから長頼の勇名を聞いていたので、あわてて後退を始めています。村井勢はそこにつけ入って、敵首百余も得て凱歌をあげています。
しかし神保氏張も相変わらず戦が下手ですね。末森城の戦いといい、今石動城攻めといい兵力で勝っている戦いですら勝てないのですから。
実は、神保氏張が出撃した後、留守の守山城内にて内応者による謀反が発生していて、父の神保氏重が討たれています。この頃になると前田氏の調略が進んでいて佐々軍の内部がかなりぐらついていたようです。神保氏張は、引き返して謀反人を討っています。
神保氏張は佐々成政の客将で家老なのですが、どうもやることなすこと裏目に出て、大きい戦には勝ったためしがないようです。さらに阿尾城の合戦では嫡男の神保氏則を失っていて、散々な結果となっています。結局、神保軍は阿尾城を奪回することができずに撤退していますので、阿尾城の戦いは前田軍が勝利したといえます。
本丸跡からの眺望
本丸跡からの眺望
また阿尾城代の前田慶次郎(利益)ですが、漫画の影響からかかなりの有名人です。しかし実は一次史料がほとんどないので実際のところは良く分かっていません。利家の兄である前田利久の養子で滝川氏の出身であることは間違いないようですが、本来ならば前田家を継ぐのはこの利益であったはずなのです。ところが信長は利久が病弱であることを理由に利家に跡を継がせて、利久、利益親子は居城である荒子城を追い出されてしまいます。その後、利家は信長・秀吉の下で国持大名に出世していますのである意味信長の見方は正しかったといえます。利久、利益親子は再び利家に使えるようになり、利益は各地で利家に従い、戦功を挙げています。ところが利久が病没した後、利益は前田家から単身出奔しています。その後は、京都で芸能人活動を始めていますが、上杉家に仕えるようになり直江兼続の与力となっています。あの関ヶ原の役に際しては、長谷堂城の戦いに出陣して撤退するときに殿として最上軍の追撃を撃退して戦功を立てています。直江兼続は、関ヶ原での敗報を聞いて自害しようとしたといわれていますが、利益に諌められて撤退を決断しています。
それにしても直江兼続も最上軍の数倍の兵力で攻めているのに城を落とせなかったというのは誰かさんと似て戦が下手ですね。新発田重家の新潟城攻めでも自軍の陣営が崩壊するほどの大敗を喫していますし・・・天地人のようにかっこよくはないのです。
阿尾城全景
阿尾城全景
関ヶ原戦後は、上杉家は出羽米沢30万石に減転封されていますが、利益もそれに従い米沢に入っています。
利益は米沢で隠棲しながら兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど悠々自適の生活を送ったと言われています。ちなみに直江兼続が所有していた「史記」は現在では国宝に指定されていますが、こちらに注釈を入れていたかについては不明です。 利益は、慶長17年(1612年)6月4日に米沢の堂森で没したとされています。
さてこの阿尾城跡を実際に訪れてみると、断崖絶壁の上に城があるような印象を受けます。
平山城と分類されていますが、実際に訪れると山城と表現したいくらいです。あるいは海城という表現もあり得るかもしれません。
この城を攻める場合は、現在の入口となっている鳥居から攻め入るしかありませんが、ここは狭く急な通路でここを駆け上ろうとすると守備側から反撃されて、なかなか突破できないでしょう。他からも同時に攻め上れれば良いですが、そそり立つ絶壁を登るのはちょっと無理な感じです。ですから実際にこの城が攻め落とされたという歴史がないのは納得できます。また城内に入れたとしても本丸への通路も極めて狭く堀切も途中にあって、本丸に立て籠もられるとやっかいですが、城自体は大規模なものではないので兵糧攻めにすればそのうち降伏するかな。とにかく攻めるには力攻めするしかない城ですし、多大な犠牲を払って奪ってもそれに見合う利益があるのかとなると・・・という見方もできます。

阿尾城案内板 阿尾城入口
阿尾城案内板 阿尾城入口
阿尾城駐車場にはトイレがあります 阿尾城入口の鳥居
阿尾城駐車場にはトイレがあります 阿尾城入口の鳥居
上り道は舗装してありますがすごく急です 道が折り返してまた上りです
上り道は舗装してありますがすごく急です 道が折り返してまた上りです
三の丸に水飲み場がありました 白峰社への近道は急な階段です
三の丸に水飲み場がありました 白峰社への近道は急な階段です
三の丸から見た榊葉乎布神社 三の丸の入口に狛犬
三の丸から見た榊葉乎布神社 三の丸の入口に狛犬
三の丸から榊葉乎布神社への通路には灯籠が 榊葉乎布神社は独立した曲輪にあります
三の丸から榊葉乎布神社への通路には灯籠が 榊葉乎布神社は独立した曲輪にあります
榊葉乎布神社から見た三の丸全景 榊葉乎布神社社殿
榊葉乎布神社から見た三の丸全景 榊葉乎布神社社殿
ここには当時は櫓でもあったのでしょうか 灯籠が並んでいます
ここには当時は櫓でもあったのでしょうか 灯籠が並んでいます
三の丸からの見晴らしはかなりのものです 神輿会資料館
三の丸からの見晴らしはかなりのものです 神輿会資料館
三の丸全景と榊葉乎布神社 白峰社社殿
三の丸全景と榊葉乎布神社 白峰社社殿
二の丸にある休憩舎 二の丸から氷見漁港方面を見る
二の丸にある休憩舎 二の丸から氷見漁港方面を見る
阿尾城説明板 阿尾城二の丸跡
阿尾城説明板 阿尾城二の丸跡
比美乃江大橋 阿尾城二の丸跡
比美乃江大橋 阿尾城二の丸跡
二の丸から見た榊葉乎布神社 二の丸から見た白峰社
二の丸から見た榊葉乎布神社 二の丸から見た白峰社
二の丸全景 白峰社から見た二の丸全景
二の丸全景 白峰社から見た二の丸全景
白峰社の鳥居 白峰社社殿
白峰社の鳥居 白峰社社殿
白峰社の裏手から本丸へ向かう 階段を上ります
白峰社の裏手から本丸へ向かう 階段を上ります
階段の途中の踊り場ですが何があったのか 階段は狭く急になります
階段の途中の踊り場ですが何があったのか 階段は狭く急になります
旧白峰社本殿跡 以前はここに白峰社本殿があったことを示す
旧白峰社本殿跡 以前はここに白峰社本殿があったことを示す
伝本丸跡への案内板 今度は尾根伝いに下り道になります
伝本丸跡への案内板 今度は尾根伝いに下り道になります
伝本丸跡への通路は狭く険しい 阿尾城空堀跡
伝本丸跡への通路は狭く険しい 阿尾城空堀跡
土橋と堀切 阿尾城本丸跡
土橋と堀切 土橋状の通路のそばは深い崖
土橋状の通路は極めて狭い 阿尾城本丸跡
土橋状の通路は極めて狭い 阿尾城本丸跡
展望台から見た本丸 阿尾城本丸跡は削平が不十分
展望台から見た本丸 阿尾城本丸跡は削平が不十分
本丸跡の広さはそこそこあります 唐島
本丸跡の広さはそこそこあります 唐島
ここから建設中の新湊大橋も見えます 比美乃江大橋
ここから建設中の新湊大橋も見えます 比美乃江大橋
阿尾城本丸からの眺望 三の丸跡から見た榊葉乎布神社
阿尾城本丸からの眺望 三の丸跡から見た榊葉乎布神社
桜に包まれた榊葉乎布神社 桜が咲く二の丸跡
桜に包まれた榊葉乎布神社 桜が咲く二の丸跡
本丸跡の展望台 本丸跡の削平は極めて不十分です
本丸跡の展望台 本丸跡の削平は極めて不十分です
本丸への通路はけっこう険しい 本丸跡からの氷見市街の眺望
本丸への通路はけっこう険しい 本丸跡からの氷見市街の眺望
阿尾城跡
住所 富山県氷見市阿尾城ヶ崎 形式 連郭式平山城 (標高38m/比高30m)
遺構 曲輪、土塁、空堀 築城者 不明
施設 石碑 案内板 トイレ 展望台 城主 菊池武勝 前田慶次郎
駐車場 無料 築城年 15世紀後半以前
文化財 県指定史跡 廃城年 慶長2年 (1597年)頃
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史跡 阿尾城跡マップ
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