国特別史跡・特別名勝 一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡の概要
朝倉氏館の正門である唐門
朝倉氏館の正門である唐門
一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡です。
戦国大名朝倉氏が一乗谷に築いた居館と山城および城下町からなる巨大な遺跡です。
一乗谷全域278haが国特別史跡に指定されています。また、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、義景館跡庭園の4つの庭園は国特別名勝に指定されています。また遺跡からの出土品のうち2343点が国の重要文化財指定を受けています。
一乗谷は福井市の東南約10kmにあり、足羽川支流一乗谷川下流沿いにある東西約500m、南北約3kmの谷間に朝倉氏によって築かれた城下町と館跡および背後の一乗城山(標高473m)に築かれた一乗谷城が一乗谷朝倉氏遺跡となっています。
一乗谷は、東西南の3方を山に囲まれ、北は足羽川が流れる天然の要害でした。さらに周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、この一乗谷全体が広大な要塞群であったと考えられます。
また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通る交通の要衝でもあり、さらに北陸道との連絡路として朝倉街道が整備されています。
一乗谷の南北に上城戸および下城戸を設けて敵の侵入を防ぎ、その間の長さ約1.7kmの城戸ノ内に、道路が計画的に整備されて、その道路に面して朝倉館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋が立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していたのです。
この一乗谷がいつ頃から城下町を形成していたのかという問題ですが、「朝倉始末記」には1471年(文明3年)に朝倉氏7代目の朝倉敏景が黒丸館から本拠を一乗谷に移したと記されていますが、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの記述では、朝倉氏は南北朝時代には、すでに一乗谷を本拠にしていたと考えられます。応仁の乱が発生した文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方がいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが一乗谷に避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花したのです。
1499年(明応8年)には室町幕府第10代将軍であった足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪していますが、これも朝倉氏が栄えていたことを示すと考えられます。
復元町並
復元町並
このように一乗谷が繁栄し京文化華やかなことから北ノ京とも呼ばれていました。朝倉氏10代朝倉孝景の頃には全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超える城下町として繁栄していました。
しかし加賀国が一向一揆衆が支配するようになり、それが越前国にまで侵攻してくる事態になると、朝倉氏は一向一揆衆との戦いに明け暮れるようになります。
1506年(永正3年)、越前国九頭竜川にて朝倉宗滴を総大将とする朝倉氏と北陸一向宗との間に九頭竜川の戦いが起こっています。これは越前吉崎を朝倉氏に奪われた一向一揆衆が朝倉氏打倒のために起こした戦いでしたが、朝倉軍が一向一揆衆を撃退しています。この際には一向一揆衆は30万とも言われる大軍で、朝倉軍は1万6千でしたが、夜半に渡河を決行し奇襲をかけた朝倉軍が一向一揆衆を打ち破っています。この頃は朝倉軍は信長を思わせるような見事な戦いぶりを見せていたようです。
朝倉氏最後の当主である朝倉義景は1548年に家督を継いでいますが、朝倉宗滴の補佐を受けていました。1555年に宗滴が死去した後は、自ら政務を執っていました。1567年(永禄10年)11月21日には足利義秋を安養寺に迎えています。足利義秋改め義昭は、朝倉義景に歓待されるが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国してしまいます。
これが朝倉義景にとってはケチのつけ始めになってしまったようです。永禄10年(1567年)、朝倉家臣堀江景忠が一向一揆と通じて謀反を企てたため、朝倉義景は加賀一向一揆軍と交戦しつつ、山崎吉家・魚住景固に命じ堀江景忠に攻撃をしかけ、景忠を加賀を経て能登へと逃亡させています。永禄11年(1568年)、若狭守護武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を越前一乗谷に軟禁し、若狭をも支配下に置いています。しかし義景は、この頃から次第に政務を放棄して一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになったと言われています。嫡男阿君丸の急死が原因と言われています。
一方、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、やがて幕府政治の復活を目指す義昭と対立するようになり、義昭は信長討伐のため、義景にしきりに御内書を送るようになります。しかし信長は逆に将軍命令であるとして、義景に対して2度にわたって上洛を命じるのですが、当然ながら義景は拒否します。
復元された町家の内部
復元された町家の内部
そこで信長は朝倉氏討伐を決意し、永禄13年(1570年)4月、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなったのです。
しかし朝倉義景には勝算がありました。密かに浅井氏に密使を送って織田軍が越前に深入りしたところを背後から襲う作戦を立てていたわけです。織田徳川連合軍は、朝倉氏の支城である天筒山城と金ヶ崎城を落城させ、一乗谷に進撃しようとしましたが、浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退しています。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた池田勝正に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまいました。これにより織田氏と朝倉氏の激突はもはや避けられない事態となり、元亀元年(1570年)6月には織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が姉川で激突しています。これが世に言う姉川の戦いです。
ただし、織田、浅井氏はこの合戦を野村合戦、朝倉氏は三田村合戦と呼んでいて、姉川の戦いと呼んでいたのは実は徳川氏だけなのです。
織田・徳川連合軍は二万五千、朝倉・浅井は、一万三千という兵力を動員しています。ただし朝倉義景は自らは出陣せず、一族の景健を派遣しています。もっとも義景より、景健の方がよほど軍略に優れていたと思いますが。
朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて退却し、浅井軍も敗れ、姉川の戦いは敗戦に終わっています。
浅井軍の被害は甚大で長政が最も頼りにしていた重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら多数の将兵を失っています。朝倉勢も真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基といった豪傑を失っています。織田軍は、坂井政尚の嫡子である尚恒が戦死していて、その被害も決して小さいものではなかったようです。朝倉・浅井軍の戦死者は1800、織田・徳川軍の戦死者は800と言われています。
この姉川の戦いでは朝倉軍は全力出撃ではなく、不利になると早めに退却していてどうもイマイチ戦意がなかったようです。
ただし、巷で言われるほどの大損害を受けたというわけではなく余力を残しての退陣だったと思われます。そもそも朝倉義景自身も出陣していませんし、はっきり言ってやる気があったとは思えません。動員した兵力も八千程度と少ないですし。・・・と巷では言われているのですが、最
諏訪館跡庭園
諏訪館跡庭園
近の研究では、これは徳川家康に忖度した内容となっていて、実際の戦闘は少々違う展開だったようです。
具体的には、朝倉景健の偽兵の計により織田、徳川軍の主力がおびき出されている隙に、浅井軍が織田方の本陣に奇襲を掛けたということのようです。しかし織田軍が浅井軍の攻撃を凌いでいる間に主力が戻ってきて背後を衝いたので浅井軍は小谷城に撤退したということになります。浅井軍の被害が大きかったのは退却中に討たれたのでしょう。朝倉軍も殿の真柄勢が大きな被害を受けているようです。
つまり織田軍は朝倉景健の計略に苦戦させられたが辛うじて撃退したというわけです。これをさも、徳川軍の手柄のように喧伝しただけのようです。ま、事実なんてそんなものです。
同年9月には信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津に出兵している隙をついて、今度は義景が自ら出陣し浅井軍と共同して織田領の近江坂本に侵攻しています。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を討ち取っています。ほら、本気を出せばやれるではないですか。しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙しています。しかし信長が朝廷工作を行なったため、12月に信長と勅命講和することになります。
元亀3年(1572年)7月、信長が小谷城を包囲したため、義景はその支援に赴いています。この時は信長も義景が援軍に来たため、小谷城を攻めることはできず、両軍は睨み合いに終始しています。しかし織田軍に虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備された事により、これ以降の朝倉軍の軍事行動は著しく制限される事になります。
また、これらの砦の構築を阻害しなかった事による戦況の悪化と、それに伴う信長方の調略によって、陣中で前波吉継や富田長繁が織田軍に駆け込んで寝返るという事態が起こっています。しかしこの両名、はっきり言ってどうしようもない輩でこんなのはいない方が・・・。
義景館跡庭園
義景館跡庭園
同年10月にはいよいよ甲斐の武田信玄が上洛を目指して織田・徳川領に侵攻してきました。信長は義景と対峙していたため、本隊を武田軍に向けることができず、織田・徳川軍は次々と武田軍に諸城を奪われています。とうとう10月に信長が岐阜に撤退すると、それに乗じて義景は浅井勢と共同で打って出ますが、虎御前山に残っていた織田軍の抵抗にあい撤退しています。
この頃になると朝倉・浅井軍はかなり弱体化していたということでしょう。長い対陣による疲労と食糧の不足、寒気に苦しめられていた点、また統率の乱れと戦況の不利や配下の寝返りなど悪条件が重なっていたのです。
そのため義景は12月に部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられています(伊能文書)。しかし義景にとってはもはやこれ以上の対陣は実際にも不可能だったと思われます。むしろこの書状は信玄の側の焦りが見えると考えた方が妥当でしょう。
世間では義景の事を必要以上に悪く言う向きもありますが、実際にはそうとも言い切れない点もあるのです。
そして元亀4年(1573年)4月には朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げています。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になったのです。ここで浅井長政、朝倉義景の運命は風前の灯火となってしまった感があります。
天正元年(1573年)8月8日に信長は3万の大軍を率いて近江に侵攻します。これに対して義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするのですが、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否しています。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣しています。
隅櫓があった土塁
隅櫓があった土塁
しかし朝倉一族の主力部隊を欠いた陣容で装備も劣り、戦意も低い朝倉軍の出陣は悲壮感が漂うものだったでしょう。
この時点では既に朝倉義景の求心力は大幅に低下していて、配下の裏切りや命令拒否などが頻繁に起きていたのは、どうしてなのか。
特に問題なのは朝倉一族の重鎮である朝倉景鏡との軋轢でしょう。
一説によれば実は義景は六角氏からの養子であり、生え抜きの朝倉一族は義景と一線を画していたという話もあります。もしこれが事実なら、前述のような状況も説明がつくわけですが、実際にはどうなのか。
近江に入った朝倉軍主力は、小谷城の近くの田上山に陣取ったのですが、織田軍は小谷城と田上山の間に陣取って連絡が取れないようにしたのです。
8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻め、信長の電撃的な奇襲により、砦は陥落してしまいます。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になってしまったため、義景は越前への撤兵を決断します。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになります。この田部山の戦いで朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走します 。しかし信長の追撃は激しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまいます。 義景自身は命からがら疋壇城に逃げ込んだのですが、この戦いで斎藤龍興、河合吉統、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死してしまい、朝倉軍は壊滅してしまったのです。ここで美濃の元戦国大名で越前に亡命していた斎藤龍興の命運もついに尽きたわけです。
義景は朝倉景健の奮戦により刀根坂から撤退に成功し、疋壇城からさらに一乗谷を目指しましたが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまい、8月15日、義景は命からがら一乗谷に帰還したのです。しかし朝倉軍の壊滅を知って一乗谷の留守を守っていた将兵の大半はすでに逃走してしまっていました。
中の御殿跡
中の御殿跡
義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外には参集することはなかったのです。8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、大野郡東雲寺に逃れています。
8月17日には平泉寺に援軍を要請しますが、すでに信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じるどころか、東雲寺を逆に襲う始末であり、義景は8月19日、やむなく賢松寺に逃れています。ううむ、平泉寺はいつも肝心なところで寝返るタイプですね。一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、手当たり次第に放火しています。この猛火は、三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのです。
一乗谷は、義景が夜逃げ同然で逃亡したため大混乱となり、みんなが我先に逃亡してこの際にはほとんどゴーストタウンのようになったようです。もっともわずかな将兵が踏みとどまって織田軍を迎え撃ったとされています。
さて従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景でしたが、8月20日早朝、なんとその景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を襲撃しています。ここに至って義景は遂に壮烈な自害を遂げています。享年41。辞世の句は、「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」 「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」。
しかし景鏡もここに至っては保身のためにはやむを得なかったのか。まあ、信長の調略の手が回っていたのですが。
義景の死後、義景の母、高徳院や妻の小少将、嫡男愛王丸ら朝倉一族も信長によって全て惨殺され、かくして朝倉宗家は完全に滅亡しています。ただし、生き残った朝倉一族である朝倉景鏡や朝倉景健は信長に許されているので、朝倉氏が完全に消滅したわけではありません。ただし、朝倉景鏡は、天正2年(1574年)に越前一向一揆によって滅ぼされています。
朝倉館跡を囲む土塁
朝倉館跡を囲む土塁
朝倉景健は、越前一向一揆に降伏していますが、これが信長の怒りを買い、天正3年(1575年)、織田軍の越前再侵攻によって殺されています。
この件は景健が一向一揆衆に降伏して朝倉景鏡を攻撃したことで信長を完全に怒らせてしまったようです。まあ、これは信長の越前仕置きの甘さが原因とも言えますが。
さて、義景の首は信長によって、京都で獄門に曝されています。その後、浅井久政・浅井長政共々髑髏に箔濃(はくだみ)を施され、信長が家臣に披露したというのは有名な話ですが、杯にして酒を飲ませたというのは実は作り話です。
まあ、髑髏に箔濃というのも別に死者を冒涜するためではなく、信長としてはむしろ敬意を表したということなのでしょうが。
越前が信長支配となった後は、柴田勝家が北ノ庄を本拠としたため一乗谷は放棄されてしまい、田畑に埋もれてしまいましたが、現代になり発掘作業が進み、その全容が明らかになりつつあります。現在では当主館や武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋、庭園から道路に至るまで、戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘されています。また遺跡からは約5,000基の遺構が検出され、160万点を超える遺物が出土しています。
以前より、唐門が現存しており、また、山沿いには庭石の一部が露出していたので、ここに遺構があることは当初から知られていました。
まず1930年(昭和5年)には地上に出ていた庭園が国の名勝に指定されています。1967年(昭和42年) 文化庁の指導のもとに庭園の整備・調査が行われ、地下から見事な義景館跡庭園が発掘されています。1968年(昭和43年)より館跡にあった松雲院と足羽町支所をそれぞれ移転して、館跡を整備するための発掘調査が行われました。それで礎石や庭石が次々と発掘され、その保存状態が大変良いため、遺構を全面発掘することになったのです。
朝倉館跡を囲む水堀
朝倉館跡を囲む水堀
1971年(昭和46年)7月29日に山城跡を含めたこの一乗谷一帯約278haが国特別史跡に指定されました。
1972年(昭和47年)4月1日には福井県が朝倉氏遺跡調査研究所を設立し、史跡公園として本格的な発掘調査と環境整備を実施することになりました。
1981年(昭和56年)には発掘結果を保存展示する一乗谷朝倉氏遺跡資料館が遺跡の付近に開館しました。
1991年(平成3年)5月28日に諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園が国特別名勝の指定を受けています。
1995年(平成7年) 発掘調査に基づき、当時の町並が約200メートルにわたり復元されています。これでほぼ現在の姿になったわけです。
2007年(平成19年)6月、遺跡からの出土品のうち2,343点が国の重要文化財指定を受けています。これにより国特別史跡、国特別名勝、国重要文化財と三重の国指定を受けたことになります。
2008年(平成20年)3月13日 戦国時代のものとみられる目貫(めぬき)や笄(こうがい)など、刀装具の鋳型37点が出土したことを発表しています。
現在の目から見てこの一乗谷に一大城下町が築かれていたその全容を見ると朝倉氏が極めて優れた土木技術と文化を持っていたことが伺えますが、やはり山間に位置していて交通の便も必ずしも良いとは言えないし、狭い谷間に町を築いていたためにこれ以上町を拡張できないという制約があったと思われます。どちらかというと軍事上の都合を優先した本拠地と言えます。
しかし特別名勝に指定されている四つの庭園はいずれもすばらしいもので、朝倉氏の高度な文化を伺い知ることができます。
2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(37番)に選定され、2007年(平成19年)6月からは全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されていますのでふるってチャレンジしてください。

復元門 屋敷跡
復元門 屋敷跡
復元町並 復元井戸
復元町並 復元井戸
復元間口 復元屋敷
復元間口 復元屋敷
復元門 復元屋敷と井戸
復元門 復元屋敷と井戸
復元屋敷の庭 復元屋敷内部の人形
復元屋敷の庭 復元屋敷内部の人形
復元屋敷内部 復元町並
復元屋敷内部 復元町並
門の向こうは夢舞台 屋敷跡
門の向こうは夢舞台 屋敷跡
復元門 屋敷跡
復元門 屋敷跡
復元トイレ 井戸跡
復元トイレ 井戸跡
朝倉象棋 武家屋敷の説明板
朝倉象棋 武家屋敷の説明板
朝倉氏館と一乗谷川の石垣 低い石垣
朝倉氏館と一乗谷川の石垣 低い石垣
朝倉氏館の石垣と土塁 朝倉氏館会所跡
朝倉氏館の石垣と土塁 朝倉氏館会所跡
朝倉氏館花壇跡 朝倉氏館茶室跡
朝倉氏館花壇跡 朝倉氏館茶室跡
朝倉氏館湯殿跡 朝倉氏館は広い郭を持っています
朝倉氏館湯殿跡 朝倉氏館は広い郭を持っています
朝倉氏館台所跡 朝倉氏館井戸跡
朝倉氏館台所跡 朝倉氏館井戸跡
諏訪館跡庭園 中の御殿跡
諏訪館跡庭園 中の御殿跡
諏訪館跡庭園 南門跡
諏訪館跡庭園 南門跡
諏訪館跡庭園 道路跡
諏訪館跡庭園 道路跡
階段跡と石塁 中の御殿建物跡
階段跡と石塁 中の御殿建物跡
中の御殿跡 中の御殿建物跡
中の御殿跡 中の御殿建物跡
空堀跡 空堀跡
空堀跡 空堀跡
土塁と石塁 湯殿跡庭園
土塁と石塁 湯殿跡庭園
湯殿跡庭園 湯殿跡庭園には水がないのです
湯殿跡庭園 湯殿跡庭園には水がないのです
湯殿跡庭園 湯殿跡庭園から朝倉氏館を見る
湯殿跡庭園 湯殿跡庭園から朝倉氏館を見る
朝倉氏館 館跡庭園
朝倉氏館 館跡庭園
館跡庭園には水がありました 館跡庭園の水にはオタマジャクシが
館跡庭園には水がありました 館跡庭園の水にはオタマジャクシが
井戸の水にも実はオタマジャクシが 朝倉氏館の建物跡
井戸の水にも実はオタマジャクシが 朝倉氏館の建物跡
北門跡 朝倉氏館の北側は石塁が続いている
北門跡 朝倉氏館の北側は石塁が続いている
北門跡 朝倉義景公墓所
北門跡 朝倉義景公墓所
武者溜跡 南門跡
武者溜跡 南門跡
櫓跡土塁 館西側の水堀
櫓跡土塁 館西側の水堀
唐門 七間厩跡
唐門 七間厩跡
唐門裏 唐門表
唐門裏 唐門表
寺院と町屋群跡 寺院と町屋群跡道路跡
寺院と町屋群跡 寺院と町屋群跡道路跡
寺院と町屋群跡 井戸跡
寺院と町屋群跡 井戸跡
便所跡 寺院と町屋群跡には多数の井戸跡があります
便所跡 寺院と町屋群跡には多数の井戸跡があります
下城戸 下城戸の高い土塁
下城戸 下城戸の高い土塁
下城戸門跡 下城戸水堀
下城戸門跡 下城戸水堀
下城戸の土塁と水堀 下城戸門は桝形虎口
下城戸の土塁と水堀 下城戸門は桝形虎口
当時はここしか入口がなかったのでしょう 下城戸門も復元して欲しい
当時はここしか入口がなかったのでしょう 下城戸門も復元して欲しい
米津 米津の案内板
米津 米津の案内板
瓜割清水の案内板 瓜割清水
瓜割清水の案内板 瓜割清水

さて、朝倉氏遺跡の中でも山城部分はかなり急勾配の登山道を上る必要があり、探索がなかなか難しいのですが、今回は一乗城山への登城を敢行して、その山城を探索してみました。
本来、一乗城山への登城路は3つあり、安波賀から登る登城路、八幡神社から登る大手道、英林塚から登る搦手道とあるが最後の搦手道は福井水害の影響で現時点では通行不可となっていました。
登山道入口には、城山まで1.5kmの看板が
登山道入口には、城山まで1.5kmの看板が
今回は、馬出コースとも呼ばれている大手道から登城してみることにした。
八幡神社の前を通る山道を進むとしばらくして左に登山口とある看板があり、ここへ入ります。このあたりが馬出しとなります。
ここからは急勾配の山道が続きます。ここを登るにはかなりの覚悟がいると思ってください。
しばらくすると砂防堰堤が見えるがこのあたりが小見放城となります。と言っても城というよりも単なる監視所程度でしょうが。
さらに登っていくと摩崖仏と呼ばれる、崖にある石や岩に彫った仏像があるのですが実際には風化が激しくボロボロになっていて判別できなくなっています。さらに登り続けるが、やがて英林塚からの搦手道からとの合流点があります。ただし、こちらのコースは水害により通行不可となっています。しかしいつまで放置しているのか。再整備して通行できるようにして欲しいものですね。
合流点からも再び急勾配の崖のような登山道を登ると水飲み場となっていた不動清水があり、さらに進むと千畳敷と呼ばれている主郭に到着します。ここは城の中で最も広い削平地ですが、実際にはさほど広い曲輪とも言えません。ここに山上御殿と呼ばれる主殿があり、17個の礎石があるのですが、とても平時に使用できるような城ではなかったと思われます。
一乗谷城は、あまりにも急勾配の登城路で平時にここに常駐するのでは統治にも不便だし、冬季は積雪で動きが取れそうもないしそもそも多人数が立て籠もるような曲輪の広さがなく、近代戦向けではないと言えます。
摩崖仏らしいが・・・
摩崖仏らしいが・・・
つまり朝倉氏は平時は山麓にある居館に常駐し、緊急時には一乗城山に立て籠もるという形態であったと容易に推測できます。
このように山麓に居館、山上に詰めの城という形態は、戦国初期にはごく一般的なケースであり、武田氏、今川氏、織田氏も同様の形態で城館を構築していました。千畳敷のとなりには観音屋敷跡があり、土塁に囲まれています。さらにその隣には宿直跡と月見櫓跡がありますが、この宿直跡からの眺望は福井市内を一望できます。この曲輪もけっこう広く宿直といってもかなりの人数がいたのではないかと思われます。
千畳敷からさらに進むと、安波賀からの登山道との合流点があり、そこで折り返すような通路を進むと一の丸が現れます。一の丸といっても狭い削平地しかなく空堀がありますが、いったい何のための曲輪なのか首をひねります。大した建物があったわけではなさそうなので監視所程度かと思います。さらに進んで二の丸がありますが、ここもほとんど曲輪とは思えないほど小規模です。最後の三の丸は、一乗城山の頂上にあたる部分ですが、この手前に堀切があり、通過が困難となっていました。
一の丸~三の丸はいずれも小規模な曲輪で監視所程度の役目だったろうと推定され、城の中でまとまった広さの曲輪は、千畳敷と観音屋敷跡、宿直跡だけと言えます。
極めて大規模な山城なのに曲輪が狭く、大規模な軍勢を収容できそうもないというのは、朝倉氏の支配地域の広さを考えると、織田氏に滅ぼされるまで外敵に追い詰められ城に立て籠もるという状況になったことはなかったと言えます。
千畳敷は主郭にあたる広い曲輪です
千畳敷は主郭にあたる広い曲輪です
外敵に襲われて城に立て籠もらなくてはならない状況に陥る可能性があればもう少し城を拡張して整備してあったはずですが、そのような形跡は見受けられませんでした。
天正元年(1573年)8月に朝倉氏が織田氏に滅ぼされるまでは、朝倉氏は領国を奪われることなく維持してきたのですから、まあ当然とも言えますが、浅井氏の小谷城はこの一乗谷城よりも遙かに籠城戦に適した城郭となっていて、実際にも3年もの間、織田軍の攻撃に耐えています。朝倉氏にはまだ危機感がなかったのか、それとも朝倉氏にはそこまでの意欲がなかったのかはよくわかりません。いずれにしてもこの時に一乗谷城は一度も戦闘に使われることなく、廃城となっています。
しかしこれは後に武田氏がやはり織田氏によって滅ぼされたときと同様の経緯を辿っています。
つまり電撃的に織田軍が侵入し、戦うことなく居城を捨てて逃走したが、味方の裏切りもあって結局は滅ぼされているというパターンですね。
この城を籠城用に増築して、曲輪を拡げ、防御施設を拡充していれば、仮に織田軍に攻め込まれても、小谷城のようにそう簡単には落城しなかったのではないかと思えるだけに、朝倉義景が天正元年(1573年)8月に出陣したのはいかにも飛んで火にいる夏の虫になってしまったと言えます。
この一乗谷城は、極めて急勾配で登るのが難しい上に道が狭く大軍で攻め入るのは難しいだけに、千畳敷の手前で防御施設を築いていれば織田軍も攻めあぐんだでしょう。
もっとも当時の朝倉氏は、内紛と長期の戦闘による疲弊と経済的にも困窮していて余力がなかったのだと言えますので、実際には起こるべくして起こった滅亡劇であったということになります。

観音屋敷跡を囲む土塁 宿直跡
観音屋敷跡を囲む土塁 宿直跡
宿直跡の背後には月見櫓跡が 宿直跡への桝形虎口と背後には月見櫓跡
宿直跡の背後には月見櫓跡が 宿直跡への桝形虎口と背後には月見櫓跡
一の丸といっても主郭ではありません 一の丸には空堀がありました
一の丸といっても主郭ではありません 一の丸には空堀がありました
一の丸には空堀が巡らされています 一の丸からの竪堀
一の丸には空堀が巡らされています 一の丸からの竪堀
一の丸と二の丸の間にある堀切 二の丸
一の丸と二の丸の間にある堀切 二の丸
二の丸には特段の仕掛けはないようです 二の丸と三の丸の間の堀切
二の丸には特段の仕掛けはないようです 二の丸と三の丸の間の堀切
二の丸から三の丸へは尾根に登ります 二の丸と三の丸の間の堀切
二の丸から三の丸へは尾根に登ります 三の丸は尾根の上に当たります
三の丸の途中に大きな堀切があります 深い堀切です
三の丸の途中に大きな堀切があります 深い堀切です
一乗城山 また深い堀切です
一乗城山 また深い堀切です
一乗城山の標高は470m 三の丸の一番奥へは険しすぎて断念しました
一乗城山の標高は470m 三の丸の一番奥へは険しすぎて断念しました
一乗谷朝倉氏遺跡資料館
住 所 福井県福井市城戸ノ内町
電 話 0776-41-2330(朝倉氏遺跡保存協会) 0776-41-2301(資料館)
開館時間 復元町並・・・ 9:00~17:15(ただし入場は16:45まで)
資料館・・・・・ 9:00~17:00(ただし入場は16:30まで)
入場料
施設名 入場料 開館時間
復原町並 大人210円 70歳以上・身障者無料 共通券230円 9:00~17:00
朝倉氏遺跡資料館 一般100円 高校生以下・70歳以上・身障者無料
休館日 復元町並・・・12/28~1/4 資料館・・・・・12/29~1/2
駐車場 無料 4カ所あり
一乗谷朝倉氏遺跡
住所 福井県福井市城戸ノ内町 形式 山城(一乗谷城) 平城(朝倉館跡)
遺構 土塁 堀 唐門 建物跡 花壇跡 庭園跡(朝倉館跡)
曲輪 空堀 堀切 竪堀 土塁 伏兵穴跡(一乗谷城)
築城者 朝倉氏
再建造物 復元町並 復元門 城主 朝倉氏
施設 資料館 説明板 その他 築城年 南北朝時代
文化財 国特別史跡・特別名勝 国重要文化財 廃城年 天正3年(1575年)
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 国特別史跡・特別名勝 一乗谷朝倉氏遺跡マップ
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