国史跡 岐阜城
岐阜城の概要
岐阜城天守
岐阜城天守
岐阜城は岐阜県岐阜市天主閣にある山城です。当初は、稲葉山城と呼ばれていましたが、1567年(永禄10年)に織田信長が稲葉山城主であった斎藤龍興を追放して、この城を居城とし、岐阜城と改称しています。文献では、信長時代以前の当城が井口城、金華山城として登場しています。平成22年11月19日に、岐阜城跡が国史跡として答申を受けています。
1201年(建仁元年)に、二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが稲葉山城の始まりです。続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資が城主となって支配していましたが、二階堂行藤の死後、いったんは廃城となっています。その後、15世紀の中頃、美濃国守護代であった斎藤利永が、稲葉山城を修復して居城としています。
1525年(大永5年)、斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃し、この城周辺は長井氏の支配下となっています。
1533年(天文2年)に長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤道三)が後を継ぎ、城主となっています。
1539年(天文8年) 守護代になっていた斎藤利政(道三)が、金華山山頂に城作りを始める。
1542年(天文11年)、斎藤利政が美濃国守護土岐頼芸を追放し、美濃一国を支配するようになります。元々、土岐頼芸は長井氏に擁立されていたのですが、やがて対立するようになり、とうとう追放されてしまうのでした。
頼芸は、尾張国の織田信秀の助力でいったんは美濃に復帰するのですが、1547年(天文16年)に織田信秀が頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入り大敗してしまいます。
この戦いを加納口の戦いと呼んでいますが、織田軍は1万もの大軍を繰り出したのに約5千もの被害を出し一族の犬山城主織田信康まで失い、敗走しています。この時期ではほとんど考えられないほどの被害なのですが、いったい何があったのでしょうか。この大敗のため天文17年(1548年)に信秀と道三が和睦したことによって頼芸は後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放されて、各地を転々とするようになります。なお、この時の和睦で信秀の嫡男・織田信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)が縁組しています。
天下第一の門
天下第一の門
1554年(天文23年)には利政が、稲葉山城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号するようになります。
斎藤義龍は、道三の嫡子ではありましたが、両者の仲は良くなかったと伝えられています。実は義龍の実父は土岐頼芸という噂もありますが、信憑性に乏しく、後年の創作なのでしょう。しかしこんな噂が出るのにもやはり理由があります。
まず斎藤義龍の生母深芳野は頼芸の愛妾だったのに、享禄元年(1528年)に頼芸から道三に拝領されています。そして翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれているので確かに義龍が頼芸の子であるという可能性もあります。さらに道三と義龍の仲が険悪となっていることから、このような噂が出るのもやむを得ないかも知れません。
道三は家督を譲った嫡子の義龍を忌み嫌い、次第に弟の孫四郎や喜平次らを寵愛するようになります。道三はさらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとしたことから、とうとう両者の関係は最悪の事態を迎えてしまいます。弘治元年(1555年)、義龍は叔父の長井道利と共謀して、道三が寵愛する弟の孫四郎、喜平次らを日根野弘就に殺害させてしまい、両者の衝突は不可避なものとなります。
1556年(弘治2年) 道三と義龍が長良川の戦いで激突します。しかし道三が国主となるまでの経緯もあって家中の大半は義龍を支持し、義龍軍17500名に対し道三が動員できたのはわずか2700名しかなく、道三の勝ち目はほとんどないと言えます。
4月18日、初め道三は鶴山へと布陣しますが、20日に義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、北岸に移動します。道三は義龍が何段にも布陣している陣に切り込み、当初優勢に戦いを進めたがやはり兵力差は如何ともしがたく、娘婿の織田信長の援軍も間に合わず、とうとう道三は戦死してしまいます。信長は、道三が敗死したため撤退しています。
義龍は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、土岐氏時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての斎藤氏の基礎を築いています。後に剃髪して玄龍と号している。また、美濃進出を図る織田信長の軍勢と戦い、これを何度も退けています。
上格子門跡
上格子門跡
これらの経緯から、室町幕府第13代将軍・足利義輝にもその実力を認められて、永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559年)には幕府相伴衆に列せられています。義龍は、南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江の浅井久政と戦い、勢力拡大を目指しましたが、尾張の織田信長の侵攻が激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大には結果的に失敗しています。
義龍は、永禄4年(1561年)には左京大夫に任じられていますが、同年の5月11日に急死しています。享年35。
1561年(永禄4年)、義龍の急死により斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、稲葉山城主となっています。
龍興は父の代から続く尾張の織田信長の侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤長龍、明智光秀等)、祖父や父と較べると凡庸で、また評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより、家臣の信望を得ることができず、衰退を余儀なくされます。
永禄4年(1561年)の森部の戦いにおいては、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安などを失って、大損害を受けています。この際に信長に追放されていた前田利家が足立六兵衛を討ち取る大手柄をあげて帰参が認められています。
永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没しています。
龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の時代には敵対していた北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとしましたが、信長に機先を制されてしまい、長政は信長と同盟を結び、逆に浅井長政までもが美濃に侵攻するようになります。つまり斉藤氏は南近江の六角氏と同盟していて北近江の浅井氏とは仲が悪かったので、浅井氏としては同盟を結ぶのなら織田氏と結んだ方が良いと考えたと言うことでしょう。しかしこのときは義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退しています。
永禄6年(1563年)、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治の活躍もあって織田軍を破っています。これを新加納の戦いと呼びます。実は、ここまでは織田軍の度重なる美濃への侵攻も竹中重治の知略で良く防いできたのです。
しかし永禄7年(1564年)、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人である安藤守就によって居城の稲葉山城を占拠されてしまい、斎藤飛騨守は討ち取られています。龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走しています。これはなんとも情けないことになりましたね。
二の丸門跡
二の丸門跡
後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により、斎藤氏の衰退が表面化します。織田信長の小牧山城築城(永禄5年~)により圧力がかかった東美濃においては、遠山氏が織田氏の縁戚となるなど、そもそも織田氏の影響力が強い地域ではあったのですが、有力領主である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるようになります。永禄8年(1563年)には、織田家に降った加治田城主佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれています。この時、関城主であり、国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も織田家の武将となっていた斎藤長龍に破れ、中濃地方も信長の勢力圏に入ってしまいます。
永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが信長に内応した為、龍興はとうとう稲葉山城を信長によって落とされてしまい(稲葉山城の戦い)、城下の長良川を船で下り、伊勢長島へと逃亡することになります。当時19歳。
以降、龍興が再び大名として美濃に返り咲くことはなかったのです。龍興は、この後も一向一揆と結んで信長に対抗したり、三好三人衆と結託したり越前国の朝倉義景の元に奔ったりと反信長勢力に与しています。しかし天正元年(1573年)8月、朝倉義景が織田信長と対決するために近江に出陣すると、龍興もこれに従軍していますが、朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂で追撃を受けた際、戦死しています。享年26。
と、こう書けば斎藤龍興は暗愚な武将という印象しか残らないのですが、実は戦場に出ると信長は再三再四龍興に大敗していて龍興は戦には強い武将だったと言えます。しかし家中の統率に失敗して竹中半兵衛を怒らせて離反させたことが滅亡の遠因となっていることと信長が直接戦闘ではなく調略により、斉藤氏の家臣団をいつの間にか取り込んでいたことが滅亡への決定的な原因となっています。
同年、信長は本拠地を小牧山から稲葉山に移転して、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めています。この頃から信長は、「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになったといわれています。
二の丸門跡と題目塚
二の丸門跡と題目塚
永禄11年(1568年)9月7日、信長は将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始しています。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、12日に観音寺城が落城します(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆と三好氏の軍も崩壊します。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びています。当時、三好三人衆と対立していた松永久秀と三好義継は信長に臣従、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏しています。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められていますが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り固辞しています。
永禄12年(1569年)1月5日、信長が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃しています(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せていますが、実際には細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重、浅井長政、明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退しています。これを機に信長は義昭の為に普請奉行となり二条城を築城しています。
1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせています。この辺りから次第に二人の関係が悪化していくことになります。
同年8月、木下秀吉に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧しています。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏しています。信長は、機内を中心に確実に勢力を伸ばしている様子がわかります。
さらに尾張国の隣国である伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んでいます。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主としています。
そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって北畠具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲しています。しかし城は落とせず、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んでいます(大河内城の戦い)。
後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終えています。
二の丸門跡
題目塚説明板
元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍します。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受け、挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れています(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙し、浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は姉川の戦いで勝利しています。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を討ち取られています。
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還し、慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信与(信興)を自害に追い込んでいます。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和しています。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請し、正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱しています。この辺り、信長は朝倉義景に振り回されている感があります。
元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を降し、佐和山城を得ています。姉川の戦い以降、孤立していた磯野勢が抗戦を断念したわけですが、磯野員昌と浅井長政の離間策が成功したといえます。
二の丸門跡と題目塚
岐阜城跡図
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に殿軍が一揆勢の伏兵に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死するという大打撃を受けています。
同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。ただし、当時の比叡山は建物の大半が既に廃絶されていて焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみであるとされています。つまりかなりの誇張があるようで、全山丸焼けという話ではないようです。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始します。
元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こします。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していましたが、戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継・富田長繁・毛屋猪介・戸田与次郞らが信長に寝返っています。この頃になると、朝倉義景の統率力に陰りが出てきているようで、戦況の悪化と軍の疲労、食糧不足など兵站能力の低下など悪条件が重なり、苦しい状況となっていたようです。
10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は悪化する。
11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。城主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、運悪く病死してしまい、遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまいます。
また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死しています。ううむ、信長が最も恐れた信玄坊主にかかると家康では全く歯が立たないようです。
上格子門櫓跡
上格子門櫓跡
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍しています。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についています。まあ、義昭は戦経験も乏しいし、勝ち目が薄いと見限られたのでしょう。信長は上京を焼打ちして義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦しています。
そして4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退しています。これにより信長は危機を脱したといえましょう。
武田氏の西上作戦中止により信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡します。 加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させています。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵、山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。さらに敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。敗走する朝倉軍は刀禰坂の戦いでも敗れ、殿の朝倉景健の奮戦で義景は命からがら一乗谷城に退却しますが、朝倉景鏡のすすめで居城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と景鏡にまで裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、浅井久政や浅井福寿庵らが自刃しています。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、長政・赤尾清綱らも自害し、浅井氏は滅亡します。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた。
11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こしています。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好宗家は滅亡しています。
12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏しています。しかし弾正は信長に何度も降伏していますね。
信長は一度の反抗で降伏してもいきなり殺すということはあまりしていませんが、二度の謀反は許さないのが常です。でも弾正に関してはその法則が成り立ちません。
馬場跡
馬場跡
天正2年(1574年)1月、朝倉氏を滅ぼして織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊(前波吉継)が一乗谷で殺害されています。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退しています(岩村城の戦い)。
3月、信長は上洛して従三位参議に叙任されています。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承しています。
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにしています。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となります。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けて願証寺5世顕忍を始めとして門徒宗を多数討ち取っていますが、この時、激怒した一揆側の反撃で信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られていて、大損害を受けています。まあ、騙し討ちした報いですね。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領しています。
天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立します。
信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐国の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せています。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、武田軍に勝利する。この長篠の戦で武田軍は重臣の山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らを失い大打撃を受けています。これが武田氏滅亡の遠因となっていると言えましょう。
二の丸への階段
二の丸への階段
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていました。いわゆる一揆内一揆です。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国としています。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍しています。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐されています。 越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えています。
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられます、また、11月7日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任します。信長は右近衛大将就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式に倣った儀礼(陣座)を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものといえます。同日、嫡子の信忠は秋田城介に、次男の信雄は左近衛中将に任官しています。
1576年(天正4年) 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び、美濃、尾張の2ヶ国を譲っています。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されています。
同年1月、信長は自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始しています。
安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しています。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われていますが、当然ながら現存せず、詳細は不明です。
二の丸門城壁
二の丸門城壁
信長は岐阜城を信忠に任せて、自身は完成した安土城に移り住んでいます。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなります。
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀ら3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。しかし塙が本願寺勢側の雑賀衆の伏兵の襲撃に遭って、塙を含む1,000人以上が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は若江城に入って動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取っています(天王寺砦の戦い)。
その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれています(第一次木津川口の戦い)。
この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を攻め自刃させた(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握しています。
上格子門跡
上格子門跡
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻し、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊しています。
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職しています。この後は、信長は無位無官となります。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された尼子勝久、山中幸盛ら尼子氏再興軍は滅ぼされています(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗します。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。
天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされています。表向きの理由は信康の12か条の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたとされています。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ています。まあ、いくら信長でも同盟国の世子を処刑せよという権限はないし、下手をすると家康が叛く可能性もありますので、こう考える方が妥当でしょう。
岐阜城歴代城主 第11代 第12代
岐阜城歴代城主 第11代 第12代
また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、家老の柘植保重が植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。
天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いています。これにより信長の版図は東国にまで拡大しています。
4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去して、紀伊国鷺ノ森に撤退しています。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。
8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放しています。これなど、林佐渡や安藤伊賀の追放理由は言い掛かりに過ぎないのですが、信長もどういうつもりなのか・・・。
天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。
同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀十二人衆を倒して伊賀惣国一揆を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いています。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永も討伐されて滅ぼされています。3月23日には徳川軍が高天神城を奪回し、武田勝頼は重要拠点を失うことになり追い詰められています。
紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが果たせずにいました。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。
信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する。
この間、北条氏は徹底した情報封鎖により、織田軍の動きを察知し得ず、動き出すのが遅すぎてほとんど得るものがなかったようです。
岐阜城歴代城主 第17代 第18代
岐阜城歴代城主 第17代 第18代
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏し、さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降するに及んで、下伊那衆全体が寝返るという事態に発展します。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。
駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に侵入する。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。
唯一、武田軍が組織的に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られています。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られています。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検しています。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵しています。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させています。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に、南信濃は毛利秀頼に与えられています。
武田氏を滅ぼした信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。
二の丸門跡説明板
二の丸門跡説明板
それに伴い、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃し攻勢を強めています。(魚津城の戦い)
上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていました。
5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れています。そこで信長は明智光秀に接待役を命じています。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けます。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じています。5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留しています。
ところが1582年(天正10年)6月2日にあの本能寺の変が発生し、信長、信忠とも光秀に滅ぼされると、織田信孝の家臣であった斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る事態となります。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏しています。
同年6月27日、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城城主となり、信忠の嫡子三法師の後見となっています。その後、信孝は秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介しています。こうして信孝は織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、同年12月、三法師を擁し秀吉に対して挙兵しますが、同年12月20日には羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫った為、降伏しています。そして和睦の条件として三法師を秀吉側に引き渡しています。しかし1583年(天正11年) 4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵します。しかし秀吉の美濃返しと賤ヶ岳の戦いによって柴田勝家が敗れ、信孝は兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏しています。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったと言われています。ううむ、本能寺の変の際も信孝は逃亡兵が相次いで、何もできずに明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を殺害していますが、よほど人望がなかったのでしょうか。信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所です)に送られ、ここで自害しています。享年26。辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」・・・ですが、これはあまりにも露骨な辞世の句で本物かどうかは疑問ですね。
同年、池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となっています。しかし1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、岐阜城主には恒興の次男・池田輝政が就いています。
二の丸門跡
二の丸門跡
1591年(天正19年)4月、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となっています。
1592年(文禄元年)9月9日、豊臣秀勝が没すると、織田秀信(三法師、信長の嫡孫)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城主となっています。
1600年(慶長5年) 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につくことになります。しかし秀信は関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて、秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたのですが、輝政の説得で開城・降伏します。戦後処理の際に降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声もあったのですが、家中に秀信家臣の縁者も多かった福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されて高野山へと送られています。道中の警護は浅野家が務めています。なお岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘されています。
しかしその後は出家させられるも、高野山で迫害され、ついには1605年(慶長10年)には高野山から追放され、ほどなく死亡しています。秀信は岐阜城の最後の城主であったが、岐阜城主は斎藤道三以降、池田輝政を除き、悉く非業の死を遂げています。
1601年(慶長6年) 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させています。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたといわれています。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれています。これにより岐阜城は石垣などを除きほぼ消滅してしまったことになります。
閻魔堂
閻魔堂
しかし近代になり、1910年(明治43年)5月15日には復興天守が再建、落成しています。これは長良橋(初代)の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので、木造・亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)でした。
ところが1943年(昭和18年)2月17日 早朝に失火のため復興天守を焼失しています。なお建築から34年経ち、老朽化のため建替えの話も出始めていたといわれています。
そこで1955年(昭和30年)6月に再建期成同盟が発足しています。建設は市民、財界の浄財によるとの原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められています。1956年(昭和31年)7月25日には鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成しています。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工しました。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われています。
1973年(昭和48年) 大河ドラマ「国盗り物語」による観光ブームで、地理的展望がすばらしい観光地となり、同年の年間入場者数は43万7,209人を記録しています。
1975年(昭和50年)4月には隅櫓(岐阜城資料館)が完成しています。建設は創業30年を迎えた川島紡績(社長、川島精市)の全額寄付(総額6,000万円)によるもので、彦根城を参考に設計されています。1997年(平成9年)には大改修が行われています。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(39番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
二の丸跡
二の丸跡
信長時代の岐阜城は麓に天主と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層の華麗なものであったといわれています。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、発掘調査が行われています。
金華山山頂にも「天守」がありましたが、池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城へ移築されています。なお加納城の天守は1728年(享保13年)の落雷によって焼失しています。
この加納城の天守は独立式層塔型3重4階でしたので、多分岐阜城の天守もこの規模だったのでしょう。
さてこの岐阜城ですが、難攻不落の名城と思われる向きも多いことかと思われます。
確かに地形は険しく容易に敵の侵入を許さないと思われますが、何しろ各曲輪が狭いため、とても多数の兵員を収容できるような大規模な施設が造れるとは思えないことと、湧き水が出ないために井戸も雨水を溜める類のものなので、多数の兵員を収容することができないことから、籠城向けの城ではないと言えます。どちらかというと緊急時に少数精鋭で立て籠もるための城としては良いでしょうが、多数の兵員で戦うような近代的な戦には向いていなかったと言えます。そのため関ヶ原の戦いでも、織田秀信は城に籠城するよりも野戦で戦おうとしたのは岐阜城では籠城には向いていなかったからと言えましょう。
実際にも、岐阜城は斎藤道三以降でも竹中半兵衛に城を乗っ取られた事件、織田信長によって攻め落とされた稲葉山城の戦い
、本能寺の変の際に斎藤利堯が城を乗っ取った事件、さらに織田信孝に攻められて降伏、織田信孝が秀吉軍に攻められて降伏、さらに賤ヶ岳の戦いでも信雄に包囲されて降伏、関ヶ原の戦いでも開城と7度も落城しているのです。
ですから信長がこの城を居城としていたのはイマイチ理解できないのですが、信長としては岐阜城に籠城して敵を防ぐという思想は持っていなかったということと、あくまで城はランドマークであって、統治の象徴であるという考え方が強かったのではないかと思われます。
岐阜城遠景 岐阜城外堀西側
岐阜城遠景 金華山ロープウェーのりば
ロープウェーに乗り込みます 山頂駅に到着しました
ロープウェーに乗り込みます 山頂駅に到着しました
これより岐阜城主要部へ突入です 大金龍大神
これより岐阜城主要部へ突入です 大金龍大神
天下第一の門説明板 上格子門跡説明板
天下第一の門説明板 上格子門跡説明板
二の丸から見た天守 岐阜城本丸への通路
二の丸から見た天守 岐阜城本丸への通路
金銘水説明板 金銘水井戸
金銘水説明板 金銘水井戸
金華山ハイキングコース案内板 本丸への入口
金華山ハイキングコース案内板 本丸への入口
天守台石垣 本丸石垣
天守台石垣 本丸石垣
天守を下から見る 天守台石垣はけっこう乱雑な組み方です
天守を下から見る 天守台石垣はけっこう乱雑な組み方です
天守入口付近 お城時計
天守入口付近 お城時計
お城時計説明板 岐阜城の由来説明板
お城時計説明板 岐阜城の由来説明板
天守入口 岐阜城資料館
天守入口 岐阜城資料館
岐阜地方気象台金華山分室 岐阜城二の丸全景
岐阜地方気象台金華山分室 岐阜城二の丸全景
金華山御嶽神社 岐阜城本丸石垣
金華山御嶽神社 岐阜城本丸石垣
本丸も結構険しい地形です 岐阜城資料館説明板
本丸も結構険しい地形です 岐阜城資料館説明板
岐阜城資料館から見た天守 岐阜城本丸石垣
岐阜城資料館から見た天守 岐阜城本丸石垣
本丸井戸説明板 本丸井戸
本丸井戸説明板 本丸井戸
本丸井戸 本丸から二の丸への通路
本丸井戸 本丸から二の丸への通路
城壁とトイレ 二の丸橋
城壁とトイレ 二の丸橋
天守遠望 千成瓢箪説明板
天守遠望 千成瓢箪説明板
本丸から二の丸への通路は狭い 松風橋
本丸から二の丸への通路は狭い 松風橋
松風橋 城壁
松風橋 城壁
二の丸方面へ 七間櫓跡と土塀跡説明板
二の丸方面へ 七間櫓跡と土塀跡説明板
リス村 ロープウェー山頂駅
リス村 ロープウェー山頂駅
信長公居館跡発掘調査現場 加藤栄三・東一記念美術館
信長公居館跡発掘調査現場 加藤栄三・東一記念美術館
信長公居館跡発掘調査現場 信長公居館跡石垣
信長公居館跡発掘調査現場 信長公居館跡石垣
信長公居館跡発掘調査現場 信長公居館跡発掘調査現場
信長公居館跡発掘調査現場 信長公居館跡発掘調査現場
信長公居館跡石垣 信長公居館跡説明板
信長公居館跡石垣 信長公居館跡説明板
信長公居館跡堀跡 信長公居館跡桝形地形
信長公居館跡堀跡 信長公居館跡桝形地形
岐阜城資料館
住所 岐阜県岐阜市金華山天守閣18
電話 058-263-4853
開館時間 5月12日~10月16日:8:30~17:30
10月17日~3月15日:9:30~16:30
3月16日~5月11日:9:30~17:30
休館日 無休
入館料 大人〔16才以上〕200円、小人〔4才以上16才未満〕100円
※岐阜城天守閣入場料金を含む
※30名以上の団体割引有り
スタンプ 日本100名城スタンプ設置所(39番)
岐阜城跡
住所 岐阜県岐阜市金華山天守閣 城郭構造 連郭式山城
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切 天守構造 独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
再建造物 天守、隅櫓(資料館)、門   築城者 二階堂行政
施設 ロープウェー、資料館、レストラン、トイレ 城主 二階堂氏、斎藤氏、織田氏
駐車場 山麓に多数あり、ロープウエーで登城 築城年 1201年(建仁元年)
文化財 国史跡 廃城年 1600年(慶長5年)
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