岐阜県史跡 郡上八幡城
概 要
郡上八幡城復興天守
郡上八幡城復興天守
郡上八幡城は、岐阜県郡上市八幡町にある平山城です。現在は岐阜県史跡に指定されています。
この郡上八幡城は、永禄2年(1559年)に遠藤盛数が八幡山の上に砦を築いたことが始まりです。
遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、この郡上一円は東氏によって支配されていました。遠藤氏は、家伝によれば東氏を祖とするということで、実は同族です。東常慶は、郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山に東殿山城を構えていたのですが、永禄2年に遠藤盛数によって城を落とされ滅亡しています。
遠藤家に伝わる伝承によれば、常慶の嫡男常堯は素行が悪く、人望のない人物であったとされています。常堯は、遠藤胤縁に娘を妻にと申し込むのですが、胤縁は常堯を嫌って畑佐備後守に彼女を娶せてしまいます。常堯はこれを恨んで永禄2年(1559年)8月1日の「八朔の礼」に際し、常慶・常堯に祝辞を述べるために登城する胤縁を、常堯が配した長瀬大膳に命じて撃ち殺してしまうという大事件に発展します。胤縁暗殺の報告を木越城で受けた胤縁の弟・遠藤六郎左衛門尉盛数は、胤縁の子・遠藤新右衛門胤俊を伴い、東氏居城・赤谷山とは吉田川を挟んだ対岸・八幡山に砦を築いて東氏に反旗を翻し、赤谷山を攻めて8月24日、ついに赤谷山城を攻め落としています。これにより常堯の父で、盛数の舅でもあった東下野守常慶は自刃し、常堯は城を脱して舅・内ヶ島氏理を頼って飛騨国白川郷に逃れています。ううう、帰雲城か・・・嫌な予感ですね。
郡上八幡城本丸門
郡上八幡城本丸門
この後、東常堯は郡上郡北部に何度となく出兵して郡上郡の回復を目指すもついに果たせず、天正13年(1583年)11月29日におこった天正大地震によって、内ヶ島氏の居城・帰雲城が崩壊し、城の麓にあったといわれる内ヶ島家の館も山津波に襲われ、常堯は内ヶ島一族、住民など五百余名の命とともに死亡しています。享年不明・・・。
遠藤氏は、郡上一円を支配した後は、東殿山城を攻撃したときに陣営を張った八幡山に城を築いています。
実は、この盛数は山内一豊の妻として有名な千代の父なのです。 盛数は美濃の戦国大名斎藤氏に恭順し、斎藤義龍、斎藤龍興の下で尾張の織田信長と戦っていますが、永禄5年(1562年)に死去し、慶隆が13歳で家督を継いでいます。遠藤慶隆は岳父安藤守就、継父長井道利ら斎藤方とともに信長に抵抗しますが、斎藤龍興の居城稲葉山城が落ち、斎藤氏が追放されると降伏し、領地安堵の上で織田家に服従することになります。
慶隆は、本能寺の変の後は羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため、賤ヶ岳の戦いで柴田方についたのですが、柴田勝家が敗れ、織田信孝も自刃したために、秀吉に降伏しています。その後、慶隆は紀州平定、飛騨平定にも従軍し、小牧・長久手の戦いでも森長可の要請を受けて秀吉方に参陣し、600騎を率いて森長可と合流し三河国中入りの部隊の第二陣に参加しています。しかし、中入りの部隊は徳川家康との戦いに惨敗し、第二陣の大将であった森長可が討死の報が入ると慶隆は撤退を決意し、辛うじて逃げ延びたものの遠藤弥九郎・餌取伝次郎・日置主計・猪俣五平治・和田仁兵衛ら遠藤家に仕えた多くの家臣が身代わりとなって命を失う結果となっています。
郡上八幡城桜の丸隅櫓
郡上八幡城桜の丸隅櫓
この後、九州平定にも従軍していますが、秀吉の命により郡上八幡城主の座を失い加茂郡小原(7千5百石)へと減封されて郡上郡から追放されることになります。慶隆追放後は稲葉貞通が郡上八幡城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されています。その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは貞通は、当初は西軍に与して郡上八幡城に籠もっていますが、東軍方の遠藤慶隆、金森可重らに城を攻撃されて落城しています。その後、貞通は東軍について本戦では加藤貞泰隊に従って活躍しています。
戦後には、郡上八幡城攻略の功績などから再び遠藤慶隆が郡上八幡城主の座に返り咲き、郡上八幡藩2万7000石の初代藩主となっています。遠藤氏は5代藩主常久まで郡上八幡城主となり、郡上八幡藩主の座にありましたが、元禄6年(1693年)3月晦日(異説では3月20日、4月晦日などもある)、常久が7歳の幼少で死去しています。ところが常久の死因は重臣・池田主馬の毒殺であったのです。なんと池田は常久を毒殺して自分の子を藩主に擁立しようと陰謀を企てたらしいのですが、他の重臣が真実を知って猛反対し、この一連の騒動も幕府に露見して遠藤氏は取り潰し寸前となっています。しかし藩祖遠藤慶隆の功績などが考慮されて、特別に遠藤家とは無縁の将軍・徳川綱吉の側室瑞春院(お伝の方)の妹と旗本白須正休の長男が親族の戸田氏成の養子として、遠藤家に入り遠藤胤親と名乗り三上藩1万石で後を継ぐことで存続を許されています。
入れ替わりの郡上八幡藩主として常陸笠間藩第2代藩主の井上正任が就任しています。
郡上八幡城松の丸隅櫓
郡上八幡城松の丸隅櫓
しかし、井上氏も次の正岑の代に丹波国亀山藩主に転封となり、入れ替わりに金森頼時が郡上八幡藩主として入っています。
この頼時の代は治世的には安定していたものの、次の金森頼錦の時期にたいへんな事件が発生します。
頼錦は延享4年(1747年)奏者番に任じられています。この奏者番の役職は、幕閣の出世コースのスタートであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要でした。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとしました。しかしこれは遠藤氏以来の検見法を先代の頼時の時代に定免法に改正しているのに、再び検見法に戻そうというのではうまくいくとは思えません。この結果、検見法改正に反対する百姓によって郡上一揆が勃発することになります。
さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱します。
このため幕府は、郡上八幡藩に対する本格的な調査を開始します。宝暦8年(1758年)7月20日、老中酒井忠寄は寺社奉行阿部正右を長とする 五人の詮議掛を任命し、郡上藩を詮議しました。翌日から12月25日まで、ほとんど毎日取り調べが行なわれ、老中、若年寄、三奉行など幕府役人から郡上藩主金森頼錦、藩役人、そして美濃国郡上郡、越前国大野郡石徹白村の村人数百人に及ぶ大事となりました。
郡上八幡城坂虎口門
郡上八幡城坂虎口門
この結果、老中・本多正珍は免職、若年寄・本多忠央は領地没収、美濃郡代代官・青木次郎九郎は免職、郡上藩藩主・金森頼錦 は領地没収・改易となり盛岡藩預かり、郡上藩の役人も、死罪、追放、遠島などが言い渡されています。
農民への判決も死罪を含む厳しいものでしたが、幕閣にまで罪が及ぶ大事となったということは農民側の勝利であったと解釈できるでしょう。頼錦は幕命によって改易されて、盛岡藩の南部利雄に預けられ、宝暦13年(1763年)6月6日死去。享年51。法号は覚樹院殿芳山青藍大居士。
また嫡子出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、出雲守頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵、六男武九郎頼興、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしでした。
六男の金森頼興は、明和3年(1766年)赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続しています。
頼錦が没すると盛岡の法泉寺に葬られていますが、金森家再興の翌年寛政元年(1789年)に頼興は遺骨を引き取り火葬の上、京の大徳寺の金森家墓所に改葬した。なお、金森可重の五男・重勝を祖とする分家の金森左京家は3000石の石高のまま、宗家改易後は越前国南条郡白崎に領地を移され寄合の旗本として存続しています。
金森家改易により、郡上藩は青山幸道が丹後国宮津藩から入っています。
以下青山氏7代の青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となっています。廃城の翌年、石垣のみを残し城は取り壊されています。
現在の天守は、大垣城(当時)を参考に昭和8年(1933年)に再建されています。模擬天守としては全国的にも珍しい木造です。
石垣が岐阜県史跡に、模擬天守が郡上市有形文化財に指定されています。天守内部は歴史資料館などとして利用されています。
また、隅櫓が2棟、本丸門、坂虎口門が復興されています。しかしいずれも当時の構造とは異なります。
現存する遺構としては、石垣ということになりますが、このような山城で総石垣の城というのも珍しいでしょう。

城山公園案内図 本丸への登城口
城山公園案内図 本丸への登城口
首洗い井戸 郡上八幡城案内図
首洗い井戸 郡上八幡城案内図
石垣跡 野面積みです
石垣跡 野面積みです
桜の丸 桜の丸隅櫓
桜の丸 桜の丸隅櫓
桜の丸への石段 腰曲輪
桜の丸への石段 腰曲輪
桜の丸隅櫓 力石説明板
桜の丸隅櫓 力石説明板
力石 七家老石碑
力石 七家老石碑
力石 腰曲輪
郡上八幡城天守 腰曲輪
岐阜県史跡「八幡城跡」 天守と隅櫓
岐阜県史跡「八幡城跡」 天守と隅櫓
隅櫓と城壁 城壁
隅櫓と城壁 城壁
郡上八幡市街 正門は復元されたものです
郡上八幡市街 正門は復元されたものです
桜の丸城壁と隅櫓、門 天守
桜の丸城壁と隅櫓、門 天守
人柱「およし」の祠説明板 人柱「およし」の祠
人柱「およし」の祠説明板 人柱「およし」の祠
天守への入口 桜の丸から見た正門裏門
天守への入口 桜の丸から見た正門裏門
桜の丸全景 天守から見た桜の丸
桜の丸全景 天守から見た桜の丸
天守入口には旗印がありました 天守内部には他城の写真が
天守入口には旗印がありました 天守内部には他城の写真が
郡上八幡市街 橋が架かっているのは空堀の上を跨いでいます
郡上八幡市街 天守内部には山内一豊の妻千代が
小田原城の写真がありました こちらには高知城の写真が
小田原城の写真がありました こちらには高知城の写真が
天守から見た隅櫓と門、市街 天守最上階となる5階
天守から見た隅櫓と門、市街 天守最上階となる5階
郡上八幡総合スポーツセンター 日本一の刻印がある木
郡上八幡総合スポーツセンター 日本一の刻印がある木
遠藤氏と山内氏の家紋 各城の写真が展示されていました
遠藤氏と山内氏の家紋 各城の写真が展示されていました
清洲城に天守? 越前大野城はこの前行きましたよ
清洲城に天守? 越前大野城はこの前行きましたよ
天守は昭和8年に木造で復興されました 城壁の裏側はこんなです
天守は昭和8年に木造で復興されました 城壁の裏側はこんなです
城壁には銃眼があります 東殿山城の案内板
城壁には銃眼があります 東殿山城の案内板
東殿山城遠景 南側の腰曲輪からの眺望
東殿山城遠景 南側の腰曲輪からの眺望
天守、門、城壁、石垣、櫓の勢揃いです 売店で入場券を販売しています
天守、門、城壁、石垣、櫓の勢揃いです 売店で入場券を販売しています
復元された門は白く美しい 正門への大手道は石段です
復元された門は白く美しい 正門への大手道は石段です
天守は4層5階とかなりのものです 凌霜隊の碑
天守は4層5階とかなりのものです 凌霜隊の碑
松の丸隅櫓は2層2階です 郡上八幡城天守への入口
松の丸隅櫓は2層2階です 松の丸にある休憩所
松の丸の隅櫓と城壁 松の丸から見た天守
松の丸の隅櫓と城壁 松の丸から見た天守
松の丸から見た天守 松の丸の城壁
松の丸から見た天守 松の丸の城壁
隅櫓内部に入れないのが残念 桜の丸隅櫓と城壁、石垣
隅櫓内部に入れないのが残念 桜の丸隅櫓と城壁、石垣
天守と隅櫓 本丸西側から見た天守
天守と隅櫓 本丸西側から見た天守
天守は大垣城をモデルにしたものです 本丸から南西側へ降りる石段
天守は大垣城をモデルにしたものです 本丸から南西側へ降りる石段
石垣と石段 こんな山城で総石垣とはすごいですね
石垣と石段 こんな山城で総石垣とはすごいですね
案内板 石垣の隅は防御上の急所に当ります
案内板 石垣の隅は防御上の急所に当ります
石垣と石段 本丸への入口
石垣と石段 本丸への入口
駐車場への道路 遙か下から天守を望む
駐車場への道路 遙か下から天守を望む
西側から天守を見る 石垣が連なっています
西側から天守を見る 石垣が連なっています
駐車場は空堀跡なのです 望遠レンズで天守を捉える
駐車場は空堀跡なのです 望遠レンズで天守を捉える
郡上八幡城歴史資料館
所在地 〒912-0087 岐阜県郡上市八幡町柳町一の平
電話 0575-67-1819
開館時間
3~5月、9~10月 9:00~17:00
 6~8月 8:00~18:00
11~2月 9:00~16:30
休館日 12/20~1/10
入館料 大人300円 小人150円 団体(30人以上) 大人250円 小人100円
郡上八幡城
住所 岐阜県郡上市八幡町 形式 平山城 (標高350m) 天守:4層5階木造(昭和8年再建) 
遺構 石垣 築城者 遠藤盛数
再建造物 模擬天守、櫓、門、城壁   城主 遠藤氏、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏
駐車場 駐車スペースあり 築城年 永禄2年(1559年)
文化財 県指定史跡(城跡)  市指定文化財(天守) 廃城年 明治4年(1871年)
 スライドショー
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