世界遺産・国宝・国特別史跡 姫路城
姫路城の概要
姫路城天守
姫路城天守
姫路城は、兵庫県姫路市本町68(播磨国飾東郡姫路)にあり姫山および鷺山に築かれた平山城です。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存していて、極めて貴重な遺構であることから、ユネスコの世界遺産に指定されています。
また国特別史跡、国宝、国重要文化財の指定を受けています。日本で現存する城の中では近世城郭の代表的な遺構であり、最大の遺構といえます。
この城の歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まったと考えられています。姫路城の最初の築城者は南北朝時代の1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範と言われていますが、一方でこの頃の姫路城は実際には砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという説もあり、まだはっきりとはしていません。まあ、城の規模については見解の相違という見方もできる程度の話ともいえますし、実際にも赤松氏が今の姫路城のような巨大な城を最初から築いたとは思えませんので、後者の説が誤りであると断言できるものではなく、むしろ妥当な説と考えてもいいでしょう。もちろん後者の説と前者の説は別に矛盾するものではありません。 戦国時代後期には羽柴秀吉が居城していて、あの備中高松城攻めの後、この城に帰還した秀吉が光秀討伐の兵を起こしたのもこの地でのことです。江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城しています。徳川幕府もこの姫路城を重要視していて、姫路藩が代替わりで幼君を抱えるようになると、すぐに国替えして有力大名をここへ入城させるという措置を何度か執っています。
姫路城水濠と石垣
姫路城水濠と石垣
明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していました。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられています。太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの焼失を免れています。
現在でも天守を始めとして多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が国重要文化財に指定されています。
また1993年(平成5年)には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
現存天守は、江戸時代以前に建造された天守が現存する国内12城の一つであり、いわゆる「国宝四城」(国宝指定の天守を持つ城のことを指し、姫路城・松本城・彦根城・犬山城をいう)の一つでもあります。
さらに1956年(昭和31年)11月26日には、国特別史跡に指定されています。
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称しています。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも呼ばれていました。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもあります。
姫路城は別名「白鷺城」とも呼ばれていますが、その由来はいくつかの説が挙げられています。
1)姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
2)白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
3)ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
4)黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から。

姫路城大手門
姫路城大手門
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがありますが、日本の城郭の異称は音読みするのが普通です。
ただし例外もあり岡山城の別名「烏城」は「うじょう」と呼びますが、もう一つの「烏城」である松本城は「からすじょう」と呼びます。
他にも「出世城」(羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから)、「不戦の城」(築城されてから一度も外敵との戦闘を行なわなかったことから)という別名があります。

室町時代の1441年(嘉吉元年)に発生した嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、播磨国に山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏と対立し、細川方についた赤松氏が播磨を奪還しています。
16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭して、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入っています。黒田重隆はあの黒田如水の祖父に当たり、この重隆によって居館程度の規模であった姫路城が拡張されて、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えるのが妥当でしょう。
1573年(天正元年)まで黒田氏が代々城代を勤めていて、重隆の子職隆、また孫の孝高(官兵衛、如水)が在城しています。
1576年(天正4年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立していて、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落してしまいますが小寺氏の被官だった黒田氏は早くから秀吉によしみを通じていて、城代であった黒田孝高はそのまま秀吉に仕えています。
姫路城三の丸跡
姫路城三の丸跡
1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言しています。
というわけで、秀吉は同年4月から翌年3月にかけて城の大改修を行って、姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに3層の天守を建築しています。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備しています。この際に姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るように道路を付け替えています。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、これにより一気に天下人への地位を駆け上っていくことになります。秀吉は1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動して、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが、秀長も1585年(天正13年)には大和郡山城へ移動していて、代わって木下家定が姫路城に入っています。
関ヶ原の合戦以降、1601年(慶長6年)には木下家定が備中足守に2万5,000石で転封になり、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で播磨国52万石で姫路城に入城しています。
池田輝政は徳川家康の意を受けて1601年(慶長6年)から城の大改修を行ない、8年掛けて現在に見られる広大な城郭を築いています。普請奉行は池田家筆頭家老となった伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛です。このような巨大な城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する目的で改修させた城であるため、城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する大名が頻繁に交替しているわけです。
三の丸跡から姫路城西の丸を望む
三の丸跡から姫路城西の丸を望む
この時点では、豊臣家は未だ大坂城に健在であり、いつ戦が起きても不思議ではないという情勢なので、姫路城は極めて重要な拠点であったと言えます。しかし池田氏ももともとは秀吉とは親しい家柄なのにこんな危ない所に置いていいのかな・・・。
実は輝政が52万石という大封を与えられたのは、一つには輝政の後妻が家康の愛娘督姫(北条氏直未亡人)であった縁によるでしょうが、輝政の嫡男利隆は前妻との間の息子であったこともあり、さらに督姫の生んだ次男忠継には備前岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられていてとんでもない厚遇を受けていたりします。さらに輝政の弟長吉は兄と別に因幡鳥取6万石を領していたので、池田氏は合計で92万石を領する大大名となっていて、徳川氏一門以上の扱いを受けていたことになります。
1613年(慶長18年) に輝政が没すると、利隆が姫路藩を継いでいますが、次男忠継の夭折後岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となっています。ううむ、これというのも先妻の産んだ子だからか・・・。さらに1617年(元和3年)、利隆が若くして没すると、その嫡男光政が幼かったため幼君には要衝姫路城を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封されています。これが国替えの第一弾というわけですか。
そして姫路城には伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城しています。本田忠政は、徳川四天王の一人本多忠勝の子で徳川氏の重臣の一人です。さらに、忠政の甥政勝が5万石で龍野藩に入っています。
大坂の陣の後、豊臣秀頼の妻で将軍徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚した忠刻が、父とは別に播磨国内10万石を領して、要衝播磨は譜代の名門本多氏の総計30万石によって固められています。
姫路城大天守
姫路城大天守
1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備されて、今に残る姫路城の全容がほぼ完成しています。
ところが忠刻は父に先立って1626年(寛永3年)5月7日に病没していて(享年31歳)、忠刻の弟で播磨国竜野藩主であった政朝が姫路15万石を継ぎ、残りの10万石は忠政の三男・忠義の4万石と忠政の外孫・小笠原長次の6万石に分割されています。
姫路藩主は、この後は親藩および譜代大名が務めていますが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わっています。
1749年(寛延2年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が定着しますが、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫しています。
姫路城は実は江戸時代にもたびたび修理が行なわれています。つまり天守があまりに巨大なためその重量で礎石が耐えられずに沈下してしまうのでそれを防ぐ工事が行われているのですが、当時の技術ではこれはなかなか難しいものであったようです。また柱や梁などの変形も激しく、これを補強する工事も行われていたのですが、技術的にも財政的にも困難なことでした。
1639年(寛永16年)、政朝の跡を継いだ政勝は大和郡山15万石に転封され、代わって大和郡山から家康の外孫松平忠明が入封するが1644年(寛永21年)に没し、嫡子松平忠弘が幼いことから1648年(正保5年)に奥平松平家は出羽山形15万石に転封となっ
姫路城帯廓櫓と石垣
姫路城帯廓櫓と石垣
ています。以後、15万石をもって譜代・親藩の名門が姫路を領し、播磨が要衝である故をもって幼君が出れば転出することが繰り返されています。1648年(慶安元年)には山形より越前松平家の松平直基が入城する途上で死去したため、幼君である松平直矩が跡を継ぎましたが、例によって越後村上に転封され、1649年(慶安2年)には陸奥白河より榊原忠次が入っています。
しかし1667年(寛文7年)には跡を継いだ幼君榊原政倫が越後村上に転封され、越後村上より再び越前松平家の松平直矩が入っていますが1682年(天和2年)には豊後日田に転封されています。同年、陸奥福島より再び本多家の本多忠国が姫路に入っていますが、その跡を継いだ幼君本多忠孝が1704年(宝永元年)に越後村上に転封され、越後村上から再び榊原家から榊原政邦が姫路城に入っています。1741年(寛保元年)には、幼君榊原政永が越後高田へ転封となり、越前松平家の松平明矩が再び姫路へ入っています。しかしその跡を継いだ松平朝矩が幼君だったので例によって1749年(寛延2年)に上野前橋15万石へ転封となり、入れ替わりに酒井忠恭が上野前橋から播磨姫路へ転封となっています。
実は、上野前橋15万石は、土地が余り豊かではなく、前橋城も城郭の破壊が進んでいて、酒井家は財政的にも苦しんでいました。それに比べると播磨姫路15万石は土地が豊かだったので、家老の本多光彬や江戸用人の犬塚又内らが播磨姫路への移封計画を企図し、酒井忠恭もそれに乗って計画が実施されようとしていました。ところが、同じ家老の河合定恒は「前橋城は神君家康公より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、以後、
姫路城お天守の庭
姫路城お天守の庭
本多、犬塚らの国替え工作は河合を頭越しに秘密裏に行われています。しかし、この計画は結果的には失敗に終わりました。というのは姫路では1748年(寛延元年)の夏には大旱魃が起きたのに姫路藩主の松平氏は年貢徴収の税率を緩和するような措置を執らなかったため(ううむ・・・暗君だな)、領民は大いに不満を持っていました。しかも姫路藩主の松平明矩が同年11月16日に死去し、松平氏が他国に転封するという噂がのぼると(これまでの例からも当然の心配でしょう)、借金踏み倒しを恐れた領民たちは同年12月21日に寛延の百姓一揆を起こし、翌年になっても騒ぎは収まらず、そのさなかの1749年(寛延2年) 1月15日には、上野前橋の酒井氏と播磨姫路の松平朝矩の領地替の命令が出されています。一揆は同年2月にはようやく収拾しましたが、この混乱が尾を引き、忠恭の転封は5月22日にずれ込み、藩士の移住はさらに遅れ、しかも7月3日には姫路藩領内が台風に襲われて、死者・行方不明者を400人以上も出し、8月にも再び台風が襲い、3000人余が死亡するなどの大被害を受け、酒井氏はますます財政が悪化しています。これでは何をしたのかわかりませんね。そして大事件が発生します。なんと移封後の1751年(宝暦元年)7月10日には、河合定恒は、本多光彬、犬塚又内の両名を惨殺し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自身も切腹するという結末となっています。しかしこれは河合定恒の乱心として処理されたようで、いずれの家も存続しています。
酒井忠恭は、姫路入封後に検地を行い毎年の租率が決定し、また大庄屋の数を半減して財政の緊縮化を図っていますが入封早々に大洪水に見舞われ、領内は大きな被害を受けています。しかし忠恭は直ちに領内を検分して、住民の救済を最優先していま
姫路城菱の門
姫路城菱の門
す。このほかにも酒井忠恭は産業面や教育面にも意を注ぎ、名君という評価を受けています。さすがに老中筆頭だっただけのことはあり、その内政能力は高く評価できましょう。もっとも老中としてはあまり功績は残していないのですが。
そもそも姫路移封計画も前橋城が浸水で危険になったことと財政的に破綻しそうになったためそれを打開するための苦肉の策であり、別に悪心あってのことではなかったのです。ただし、惨殺された光彬、又内の両名は今回の策謀ではあちこちで賄賂攻勢を掛けて工作を成功させているので、最終的にはこのような最期を遂げたといえましょう。
姫路藩酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家で、徳川氏の重臣の家柄です。この酒井家のもとで姫路藩はようやく頻繁な転封がなくなって藩主家が安定しています。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きをなすことになり、10代藩主酒井忠邦のときに明治維新を迎えています。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いの際に姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し、将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲されています。岡山藩主は元城主の池田氏の子孫であり、池田茂政の率いる岡山藩部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行なっています。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中しています。両軍の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上して攻撃を中止させています。この
姫路城いの門
姫路城いの門
間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順することになり、姫路城を舞台とした攻防戦は回避されています。
1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され、廃藩置県により姫路藩は姫路県となり、飾磨地方の諸県と合併して飾磨県となりますが、1876年に飾磨県は廃止されて兵庫県に合併されています。華族に列した藩主家は1887年に伯爵を受爵し、隠居の忠績と忠惇にも1889年に男爵が授けられています。
1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却されています。
姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清一郎が23円50銭で落札しました。城の古鉄または瓦を売るのが目的であったといわれています。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も放棄されています。その後1927年(昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったとのことですが、他社が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べていて、また同記事で明治7年に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしています。
たいていの城跡は陣地として好適な場所であったことから、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置されています。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数
姫路城ろの門
姫路城ろの門
多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失しています。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置されています。
明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになっています。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出しています。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残っています。しかし必要な予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないもので不十分でした。しかしこれによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)には、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われています。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年(大正8年)にも陸軍省が西の丸を修理しています。後に第10連隊は岡山へ移転していますが第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えています。
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となっています。ただし実際の管理は姫路市が行っています。さらに1931年(昭和6年)1月には大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定されています。(現在の重要文化財に相当する)
姫路城お菊井戸
姫路城お菊井戸
昭和の大修理は、1934年(昭和9年)6月20日に西の丸渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始されています。第1期工事は1935年から1950年3月まで行なわれる計画でした。この際に全ての建物を一度解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられています。先に天守以外の建物を手がけることとしたが、1944年(昭和19年)太平洋戦争での日本の戦局悪化により中断を余儀なくされています。さらに空襲を受けたものの焼失を免れ、1950年(昭和25年)に大修理(第2期)は再開される。この工事は1956年3月末まで行なわれ、1955年(昭和30年)までに天守以外の修理を完了しました。1956年(昭和31年)より天守大修理に着手することとなります。この際には天守全体に巨大な素屋根を掛けた上で解体・修復工事が行われました。これによって構造物に書き込まれていた様々な文書が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられています。この際に天守の基礎は礎石を撤去し、新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築されています。礎石のままでは天守の重量を支えきれないための措置です。このとき、羽柴秀吉が城主だったころ築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見されています。
天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐っていることが判明し再利用は不可能であると判断され、ただちにこれに替わる巨木探しが始まっています。まず兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本が腐っている疑いがあって保留されています
姫路城りの門
姫路城りの門
。1959年(昭和34年)になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見されました。ところがこれは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう1本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さゆえに折れてしまうというトラブルが続きました。ううむ祟られているのか。
そこで窮余の策として2本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用されることとなりました。そもそも修理以前の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのでした。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれました。天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されています。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていません。
天守の修理は1964年(昭和39年)に完了しました。
天守の工事費は約5億3,000万円となっています。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当します。
これらの「昭和の大修理」により「50年は保つ」といわれていましたが、大修理から45年が経過して漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が予定されています。
2009年(平成21年)度着工、2014年(平成26年)度竣工予定となっています。事業費は28億円(素屋根工事費12億6千万円・補修工事費15億4千万円)と見積もられています。昭和の大修理のような大規模解体修理ではないため工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部と周辺の公開は続けられます。
姫路城帯郭櫓 姫路城ちの門
姫路城帯郭櫓 姫路城ちの門
姫路城備前門 姫路城備前丸から天守をみる
姫路城備前門 姫路城備前丸から天守をみる
姫路城天守1階 姫路城天守内部の釘隠
姫路城天守1階 姫路城天守内部の釘隠
姫路城天守内部の武具掛けと鉄砲 姫路城天守内部の4階登り階段
姫路城天守内部の武具掛けと鉄砲 姫路城天守内部の4階登り階段
姫路城天守6階から西の丸を望む 姫路城天守内部の石打棚
姫路城天守6階から西の丸を望む 姫路城天守内部の石打棚
姫路城水五門 姫路城水三門
姫路城水五門 姫路城水三門
姫路城水一門 姫路城にの門
姫路城水一門 姫路城にの門
姫路城はの門 西の丸から姫路城天守を望む
姫路城はの門 西の丸から姫路城天守を望む
姫路城西の丸化粧櫓 姫路城西の丸百間廊下
姫路城西の丸化粧櫓 姫路城西の丸百間廊下
姫路城西の丸渡櫓内部 姫路城西の丸化粧櫓の千姫
姫路城西の丸渡櫓内部 姫路城西の丸化粧櫓の千姫
姫路城西の丸渡櫓 姫路城西の丸化粧櫓
姫路城西の丸渡櫓 姫路城西の丸化粧櫓
所在地 その他
住所 兵庫県姫路市本町68番地
電話 079-285-1146(姫路城管理事務所) FAX: 079-222-6050
開館時間 9時~16時(閉門は17時)※夏季は1時間延長
休館日 12/29・30
入館料 大人: 600円、満5歳~中学生: 200円
団体料金: 30人以上=1割引、100人以上=2割引、300人以上=3割引
※毎年1月1日は無料で入城できます。
姫路城・好古園共通券:大人:720円、小・中学生:280円
姫路城・博物館・美術館共通券:大人:800円、高校・大学生:720円、小・中学生 :320円
休館日 12/29・30
駐車場 大手前公園地下駐車場:最初の60分以内300円、以後30分増すごとに150円
大手前パーキング:特大型60分650円、大型60分550円、中型60分450円、小型(軽自動車)350円
イーグレ地下駐車場:最初の60分以内300円、以後30分増すごとに150円
大手門駐車場:普通車等3時間以内500円、3時間を超えて1日以内800円、車高2.6m以上一日一回2,000円
姫路城
住所 兵庫県姫路市本町 形式 梯郭式平山城 天守:連立式望楼型5重6階地下1階
遺構 現存天守 櫓 門 塀 石垣 堀 土塁 庭園 築城者 赤松貞範
駐車場 有料駐車場あり 城主 赤松氏 黒田氏 羽柴氏 池田氏 本多氏 酒井氏
文化財 国宝 国重要文化財 国特別史跡
ユネスコ世界遺産
築城年 1346年(南朝:正平元年 北朝:貞和2年)
廃城年 明治4年(1871年)
 スライドショー
スライドショーの使い方

 3つのボタンで画像を移動できます。
 
 最初・・・最初の画面に戻ります。

 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。

 次へ・・・次の画像に移動します。
 
 拡大・・・拡大画像を表示します。
               
世界遺産・国宝・国特別史跡 姫路城マップ
電子国土ポータルへのリンクです