国史跡 広島城跡
広島城跡の概要
復元された広島城天守
復元された広島城天守
広島城は、広島県広島市中区基町にある輪郭式平城です。
別名、鯉城(りじょう)とも呼ばれています。
昭和28年に国史跡に指定されています。
この広島城は、広島湾に流れ込む太田川河口のデルタ地帯に築かれています。
戦国時代、広島がある安芸国は、毛利氏が支配していましたが、毛利氏は出雲の尼子氏、周防の大内氏に挟まれて苦しい立場に置かれていました。
毛利氏当主の毛利元就は、その知謀と軍略により、次第に勢力を伸ばし、安芸武田氏を滅ぼして、安芸国では最大の勢力となりました。毛利元就の時代は、吉田郡山城を本拠としていましたが、この城は完全な中世山城で、防御には有利でしたが、統治や商業地としては不向きでした。
毛利氏は、大内義隆を謀殺して周防国を乗っ取った陶晴賢を弘治元年(1555年)に厳島の戦いで滅ぼし、さらに永禄9年(1566年)11月には尼子義久を降伏させて、尼子氏をも滅ぼして、中国地方を制覇する事に成功しました。
毛利元就の時代から広島に城を築く構想はあったともいわれていますが、それを実現したのは、元就の孫である輝元の時代でした。毛利輝元は、祖父元就が元亀2年(1571年)6月14日に死去したことにより、名実ともに毛利氏当主となりましたが、毛利氏はその後西へ進出してきた織田信長と激しい抗争を続けていました。
復元された表御門
復元された表御門
天正10年(1582年)4月、織田家家臣の羽柴秀吉が毛利氏重臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を包囲攻撃します。ところが攻防戦の最中の同年6月2日、京都にて本能寺の変が勃発し、明智光秀の謀反により織田信長は討たれてしまいます。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけています。
戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾することになり、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して果てましたが、毛利氏は秀吉と和睦することで危機を脱しました。
秀吉が天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、天下人になっても、毛利氏は秀吉とは良好な関係を続けていたので、織豊政権下でも毛利氏は重鎮として重きを置くようになります。輝元は、天正17年(1589年)に当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、二宮就辰らの指揮の下、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始します。広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となっています。何しろ、場所が河口近くで砂州なので地盤が悪く、基礎工事がしっかりしてないと、後で天守が傾いたりします。
城の構造は大坂城を参考とし、近世城郭として築城されています。縄張りは聚楽第に範を取っているといわれています。聚楽第型の城の特徴は広い方形の曲輪ですが、広島城の本丸はまさにそれに該当します。天守は、大坂城のものよりも大きいと言われるくらいの巨大な建造物なので、重量により沈み込みが気になりますが、もちろんそのあたりの事は考えられていて、石垣の重量を分散させるような構造になっています。
復元された太鼓櫓
復元された太鼓櫓
この築城は、以前から構想があったと言われていますが、輝元は秀吉が築いた大阪城や聚楽第を実際に目の当たりにして、吉田郡山城では今後の統治にはあまりにも不都合だと感じて、海岸に近く水運に便が良い広島の地に築城することを決意したのだと思われます。輝元は、天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城を廃して、まだ工事中であった広島城に入っています。この時点では、まだ本丸が完成しただけで、未完成の部分がかなりあったようです。文禄2年(1593年) には石垣が完成、慶長4年(1599年) にようやく落成したとする記録が残されています。
しかし、翌慶長5年(1600年)9月15日に、関ヶ原の合戦が発生します。毛利輝元は合戦時には西軍の総帥として大坂城にあり、秀元を名代として関ヶ原の戦場に3万の大軍とともに派遣していましたが、重臣の吉川広家が徳川家康に内通していて、結局は毛利軍は戦闘に参加することなく西軍は敗れています。そして輝元は、三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去しています。
この関ヶ原の戦いでは、元々西軍に勝ち目なしと判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていました。関ヶ原本戦では吉川広家が毛利軍は戦いに参加させないようにしたのは事実です。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、毛利輝元が西軍の総帥であったと判断してその責任を問い、毛利輝元を改易した上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとしました。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元が隠居し、その子秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の改易は避けられたのです。
復元された平櫓
復元された平櫓
しかし、所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封されて、せっかく築いた広島城を去ることになったのです。
この結果は、毛利輝元の優柔不断さが招いたと考えることもできますが、そればかりではなく、毛利氏政権の体制が集団指導体制であったことが原因と言えます。つまり、毛利輝元は毛利氏当主ではあるが、吉川広家は分家筋であり、必ずしも毛利氏家臣という立場ではなく、吉川氏当主としての立場もあります。また毛利秀元も同様に穂井田氏からの養子であり、穂井田氏当主としての立場があるわけで、それぞれが毛利氏を一応は盟主として仰いではいるが、それぞれの立場で考えての行動も行っているため、東軍と西軍のどちらにつくかという重要な局面で態度を明らかにできず、後手に回ってしまったため、戦闘に参加していないのに責任を問われるという結果になってしまったわけです。
吉川広家が西軍に勝ち目はないと考えた件についても、毛利軍が徳川軍を背後から襲えば勝ち目がないとは言えなかったし、戦はどちらに転ぶかわからなかったはずです。
もっとも西軍が勝ったとしても、毛利氏がどういう立場になるのかは容易に判断ができないところもあり、吉川広家としては戦に参加せず東軍が勝っても、毛利氏が責任を問われなければ良いと考えていたのです。しかし毛利輝元や安国寺恵瓊は西軍が勝てると思っていたから西軍に参加したわけですし、秀元も血気盛んで勝つつもりで戦場に来たはずですから、毛利氏家中の意思統一が図られていなかったことがこの結果を招いたと言えます。
太鼓櫓にある太鼓
太鼓櫓にある太鼓
関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされています。これは家康が輝元に西軍総大将としての責任を問い、隠居として、周防・長門2カ国は秀就を宛名として与えたためですが、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩主の座にあったといえます。
慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門萩城を築城しこれを居城としています。
一方、安芸国には東軍に参加した福島正則が安芸広島及び備後鞆で49万8,200石の大封を受けて、広島城に入城します。
慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行っています。
家臣への知行割も事実上の給米制とし検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷き、また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復しています。
正則は、慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れてはいなかった。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を求めた際には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させています。
正則自身は病と称して会見には同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えています。
御門橋
御門橋
この会見直後に加藤清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧の大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出ています。しかし隠居が許されなかった正則は大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まっています。しかしこれを知った幕府からは従軍も許されず、江戸留守居役を命じられています。
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、正則が台風による水害で破壊された広島城を幕府に無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われます。正則は2ヶ月も前から届けを出していたのですが、幕府からは正式な許可が出ていなかったのです。そもそも修理といっても雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけというのですが。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの今度は「破却が不十分である」と咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡・越後国魚沼郡、4万5,000石に減封されてしまいます。
これはどう考えても過酷すぎる理不尽な処分ですが、要するに過激な武将である正則への統制策とする解釈が一般的ですが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いに巻き込まれたという説もあります。
つまり本多正純が正則から受け取っていた届出を土井利勝らが正純の信頼を失墜させるため故意に放置していたというものです。
表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓
表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓
後々の本多正純の末路を考えると、こちらの説も充分に説得力があります。
しかし私見では、むしろ伊奈図書昭綱の事件が原因となっていると思います。要するに関ヶ原の戦い直後の事件で、その時点では功績が大きい福島正則が理不尽な要求をしても受け入れるしかなかった徳川氏が後で意趣返しをしたのだと考えます。
秀忠の性格からしてむしろこれが決定的な理由だと考えた方が納得できます。最終的に改易を強行したのは第2代将軍・徳川秀忠であり、利勝や正純ら幕府首脳は正則の改易が諸大名の反抗に繋がることを恐れ、むしろ処分に消極的でした。まあ、この秀忠は実は極めて陰険な政策を採っていますし、幕閣の功臣を平気で切り捨てるようなことをしでかしてくれています。
福島正則が広島を去り、代わりに広島城に入ったのは、紀伊和歌山から加増転封された浅野長晟でした。
浅野家も福島正則と同様に豊臣恩顧の大名で、徳川家からはある意味煙たい存在ですが、長晟の正室は徳川家康の三女である振姫ということで徳川家とは姻戚関係にありました。
浅野長晟が安芸国広島42万石に加増移封されて、新たに広島城主となり、以後明治維新まで浅野家が安芸国を支配することになります。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩は、この浅野家の分家筋に当たります。
元治元年(1864年)第一次長州征討の際、この広島城が徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となっています。
裏御門跡
裏御門跡
明治4年(1871年) 7月14日、廃藩置県により、広島県が成立すると県庁が広島城本丸に設置されました。12月には、軍隊の施設(鎮西鎮台第一分営)が本丸に設置されたため、県庁は三の丸へ移転しました。
明治6年(1873) 1月には、第一分営が第五軍管広島鎮台と改称され、また 3月には三の丸へ兵営が建設されたため、県庁は、城外へ移転しました。広島城が基地化される中、城内の江戸時代以前の建物は、解体されたり、火災で焼失したりと次第に少なくなりました。
その後、城内には、明治8年(1875年) 4月には歩兵第十一連隊が設置され、6月には練兵場が設けられるなど、軍事施設の増設が進みました。明治19年(1886年)には、広島鎮台は第五師団と改称され、明治21年(1888)に師団司令部が置かれました。
明治27年(1894)8月、日清戦争が始まると、同年 9月15日には、明治天皇と共に大本営が広島城内に移り、10月15日には広島で臨時帝国議会が召集されています。
明治44年(1911年)11月には、外堀の大半が埋め立てられています。
大正15年(1926年)10月に大本営跡が史跡指定されています。さらに昭和6年(1931年)には天守が国宝に指定されています。
中御門跡
中御門跡
この時点で現存していた建物は、大天守と東走櫓・裏御門の一部・中御門・表御門・二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓などがありました。しかし、昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾の投下で、広島城天守は倒壊し、門や櫓は焼失してしまい、すべての建造物が失われてしまいました。
戦後になり、昭和26年(1951年)には広島国体にあわせて木造仮設天守閣が作られています。これは簡易なもので国体終了後には解体されています。昭和28年(1953年)3月31日には国の史跡に指定されています。
1954年(昭和29年)安芸郡府中町所在の多家神社宝蔵が広島県の重要文化財に指定されています。三の丸にあった稲荷社が明治7年(1874年)同社に移築されたもので、現存する広島城の建造物としては唯一のものです。
昭和33年(1958年)3月26日には大天守が鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元されています。現在の天守がこれです。同年4月には博覧会の会場としてオープンしています。博覧会終了後の同年6月1日には「広島城郷土館」が天守内に設置されています。1989年(平成元年)にはこれを改装し展示物の入れ替えを行ってリニューアルして、博物館「広島城」として開館しています。
1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が木造で復元されています。
2006年(平成18年)4月6日には、広島城が日本100名城(73番)に選定されています。2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。

発掘された広島城外堀の石垣 広島城天守
発掘された広島城外堀の石垣 広島城天守
桜の池跡 広島城天守正面入口
桜の池跡 広島城天守正面入口
武家屋敷式台 武家屋敷
武家屋敷式台 武家屋敷
武家屋敷 商家
武家屋敷 商家
商家 体験コーナー
商家 体験コーナー
天守台から移設した礎石 広島城本丸北側の石垣
天守台から移設した礎石 広島城本丸北側の石垣
広島城本丸の石垣 堀・・・ではなく本丸北側の帯曲輪なのです
広島城本丸の石垣 堀・・・ではなく本丸北側の帯曲輪なのです
広島大本営跡 広島護国神社
広島大本営跡 広島護国神社
平櫓内部 平櫓廊下
平櫓内部 平櫓廊下
太鼓櫓模型 平櫓模型
太鼓櫓模型 平櫓模型
平櫓内部 多聞櫓内部
平櫓内部 多聞櫓内部
多聞櫓と太鼓櫓 太鼓櫓
多聞櫓と太鼓櫓 太鼓櫓
太鼓櫓内部 多聞櫓内部
太鼓櫓内部 多聞櫓内部
山城模型 山城模型
山城模型 山城模型
鳥籠山城跡模型 表御門
鳥籠山城跡模型 表御門
表御門と御門橋 本丸南西端の櫓台跡と堀
表御門と御門橋 本丸南西端の櫓台跡と堀
裏御門跡石垣 裏御門跡石垣
裏御門跡石垣 裏御門跡石垣
裏御門跡石垣と内堀 本丸北東端の櫓台跡と内堀
裏御門跡石垣と内堀 本丸北東端の櫓台跡と内堀
本丸石垣と内堀 二の丸被爆石垣石
本丸石垣と内堀 二の丸被爆石垣石
表御門と城壁 中御門跡と馬屋跡
表御門と城壁 中御門跡と馬屋跡
多聞櫓と番所跡 馬屋跡
多聞櫓と番所跡 馬屋跡
広島城天守 本丸北東側の石垣と内堀
広島城天守 本丸北東側の石垣と内堀
広島城跡
住所 広島県広島市中区基町 城郭構造 輪郭式平城
遺構 曲輪、石垣、水堀、広島大本営跡 天守構造 複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存)
外観復元(SRC造・1958年再) 
再建造物 大天守、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓 築城者 毛利輝元
施設 広島護国神社、博物館、売店、トイレ、案内板 城主 毛利輝元、福島正則、浅野氏
駐車場 広島中央駐車場 基町パーキング  築城年 1589年(天正17年)
文化財 国史跡 廃城年 1874年(明治7年)
博物館「広島城」
住所 広島県広島市中区基町21-1
電話 082-221-7512 FAX 082-221-7519 
開館時間 9:00~18:00(入場は17:30まで)
休館日 年末年始(12月29日~ 1月2日)
観覧料
個人 団体
(30名以上)
大人 360円 280円
小人 180円 100円
小人は小中高生・中等教育学校生及び15歳以上で18歳
に達する日以後の最初の3月31日までの間にある人
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