砺波市指定史跡 隠尾城跡
隠尾城の概要
隠尾城本丸
隠尾城本丸
隠尾城跡は、富山県砺波市庄川町隠尾にある居館跡です。砺波市指定史跡に指定されています。
隠尾城は鉢伏山の南中腹にある隠尾集落に築かれています。と言っても現在では隠尾集落は廃村となっています。
隠尾城は集落南端の高台にあり、本丸は南北29m、東西21m、主郭の北側を除く三方が急峻な地形で北側は道路との間が一段低くなっており、これが堀跡となっていて一部水堀になっています。
主郭は中央が一段高く、東側に一段の削平地があります。主郭には城主の悲運を泣き続けたという伝説の「啼石(なきいし)」と呼ばれる石があります。
西側は南側に土塁があり、南の崖下には籠城用の湧き水跡が残っているといわれていますが、現地では確認できませんでした。と言うのも北側以外の三方は本当に急峻な地形で降りるのは困難なのですね。小規模な館跡なのですが、周りの切岸は急な斜面となっていて登るのも困難です。
この隠尾城の築城年代はイマイチ定かではありませんが、南部氏によって築かれたと考えられています。
南部氏は南部遠江守宗継の弟宗治が足利直義に仕えていて、直義滅亡後に鉢伏山城を居城として代々続いていたと考えられます。直義が急死したのは文和元年(1352年)ですので、ここでは築城時期は、南北朝時代であり1352年以降と考えておきましょう。鉢伏山城は現在では遺構も残っていませんが、土まんじゅうなど無数の塚が発見されたと言われています。なお鉢伏山は、現在では夢の平スキー場となっています。
隠尾城説明板
隠尾城説明板
戦国期になり、永禄3年(1560年)、椎名氏はかねてより神保氏に圧迫を受けていて危機に陥ったため、長尾景虎(上杉謙信)に援軍を頼み、長尾軍は越中に攻め込んで、神保氏を攻撃しています。神保長職は、富山城から増山城へ逃れていますが、長尾軍の攻撃に神保長職は五箇山に敗走しています。この際に隠尾城主南部源左衛門尚吉も長尾軍と戦っていますが、尚吉はあえなく敗死しています。子の源右衛門は一時飛騨国へ逃れていましたが後に戻り城跡の近くに住んだといわれています。
ということで、隠尾城は永禄3年(1560年)に落城と同時に廃城となったと考えるのが妥当でしょう。
この時の様子は「隠尾村南部氏元祖南部次郎左衛門尉宗治は、この鉢伏山に築城(詰城)数代居城たりしが、中興の祖南部左衛門尉尚吉の代に至り越後国長尾景虎が近国に武威を振るいて越中増山城主と合戦、遂に増山城を攻略し、景虎それより隠尾城を攻めんと広谷道より大軍攻め寄せたり。この時、尚吉は広谷の要害に迎撃せんと防戦したるも寄せ手の大軍ますます猖獗を極め、戦い我れに利なきを悟り、家臣小原作蔵に命じて子息源右衛門を山中に隠れせしめ、尚吉自ら城に火を放ちて孤軍奮闘、遂に壮烈なる討死せし処なり。この時紀元二千二百十八年三月なり。永慰世霊の為此地に建立す」と、庄川町誌に記述されています。
隠尾集落は平成に廃村となりましたが、その起源は古く『南部家譜』によると、南部遠江守宗継の舎弟・南部次郎左衛門尉宗治が足利直義に仕え、文和元年(1352年)に直義が急死した後、郎党を伴い越中の鉢伏山山麓に逃れ館を構えたのが始まりと言われています。長尾勢に破れた尚吉の息子源右衛門主従は飛騨国金森出雲守に内縁があり、助けを求めて一時飛騨で過ごし、越中の戦乱も静まった後に隠尾に戻り、城跡の脇に館を構えたと言われます。・・・と言われていますが、飛騨国金森出雲守というのは、金森可重のことですし、金森可重が飛騨国を統治したのは慶長13年(1608年)のことなのですが・・・。あるいはこれが金森長近のことだとしても飛騨国を統治したのは天正13年(1585年)のことですので、年代が食い違っていますね。天正13年(1585年)は越中国が秀吉の討伐を受けている時期ですが・・・。ともかく源右衛門は百姓となって九左衛門と名のり、南部氏はその後も代々里山役人となって現代に至る由緒深い家柄です。ところがこの隠尾集落も廃村となってしまっていて、城跡のそばにあるはずの南部家屋敷も、今は朽ち果ててしまっていました。南部氏はいずこに行ってしまったのでしょうか・・・。

隠尾集落への入口には隠尾八幡宮がありました 隠尾八幡宮
隠尾集落への入口には隠尾八幡宮がありました 隠尾八幡宮
これは南部家屋敷跡の残骸です 登城道はかなり急な塹壕
これは南部家屋敷跡の残骸です 隠尾城主郭の案内板が見えました
隠尾館跡とあります 隠尾館跡は砺波市指定文化財となっています
隠尾館跡とあります 隠尾館跡は砺波市指定文化財となっています
ここが堀跡です 主郭はこの土塁上にあります
ここが堀跡です 主郭はこの土塁上にあります
主郭の北側 主郭内部
主郭の北側 主郭内部
これが啼石ですか・・・ 不可思議な石です
これが啼石ですか・・・ 不可思議な石です
水堀が主郭の北側を守っています 主郭の東側には削平地があります
水堀が主郭の北側を守っています 主郭の東側には削平地があります
主郭の南側は断崖です 南部家屋敷跡
主郭の南側は断崖です 南部家屋敷跡
隠尾城跡
住所 富山県砺波市庄川町隠尾 形式 丘城 (標高332m/比高10m)
遺構 曲輪、土塁、堀、切岸 築城者 南部次郎左衛門尉宗治
施設 案内板 城主 南部氏
駐車場 とくになし 築城年 文和元年(1352年)以降
文化財 砺波市指定史跡 廃城年 永禄3年(1560年)
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