富山城下町遺跡・蟹江家
概 要
町屋敷地・武家屋敷地完堀状況
町屋敷地・武家屋敷地完堀状況
富山市中心市街地では、ユウタウン総曲輪建設に先立ち、町屋敷地、武家屋敷地、三の丸外堀の発掘調査を嫉視しました。
その結果、江戸時代後期の城下町での武家の生活ぶりや古絵図に描かれていない町屋敷地の土地利用が判明しました。
■調査のあらまし
今回の2014年度分の調査区は、富山城三ノ丸の南側から城下町にかけての一角で、北側から順に、三ノ丸士塁・外堀・武家屋敷・背割下水・町屋敷(商家)になります。
調査区の西方約5mのところに大手門がありました。外堀と大手門は富山藩期に新たに築造され、平成20年度には大手門石垣の一部が見つかり、位置が確定できました。
調査では、江戸時代後期から幕末(約200~100年前)を主体とした遺構・遺物が見つかりました。遺構には、藩政期富山城の外堀跡・士塁の墓礎・背割下水・井戸・廃棄士坑・溝などがあります。
出士遺物には、かわらけ、伊万里・唐津・越中瀬戸・瀬戸美濃などの陶磁器、曲物・漆器椀・下駄・箸・桶型の井戸枠、煙管・かんざし・銭などがあります。
■町屋敷地と背割下水の調査
今回の調査区のうち、町屋敷地の範囲は、背割下水から平和通りまでの間です。町屋敷地と武家屋敷地を分ける背割下水は、幅約2mで、江戸後期に築かれた背割下水の上に、明治期の背割下水を築いています。
背割下水の構造は、過去に調査されたものと同様で、江戸期には、両側に15~30cm大の玉石を積んでおり、底面には石を敷いていません。近代には底面にも平らな石を敷き詰めるようになりました。
古絵図には、今回の調査区内で背割下水が屈曲して描かれています。しかし、調査では屈曲した痕跡は見つかりませんでした。
この他に廃棄士坑・井戸があります。調査区東側の廃棄士坑からは、刷毛や漆塗りの桶、下駄などが出士し、この区域が漆塗りに関係する仕事場の可能性があります。これまで古絵図では不明だった町屋敷の士地利用が特定できる資料になります。
背割下水の下層で見つかった井戸は、背割下水より古く、17世紀代と考えられます。井戸枠の製材を打割(ノミやクサビを打ち込んで木を割る方法)で行っており、調査区内の他の井戸枠の製材が鋸引きであるのに比べて特徴的で、時代により製材方法に違いがあったと考えられます。
武家屋敷地の調査について
武家屋敷の範囲は、背割下水から現在の総曲輪通りまでの間です。
古絵図によれば、寛文期から幕末まで一貫して蟹江家が屋敷を構えていました。
蟹江家は蟹江主水が馬廻頭、螺江監物が家老を務めた重臣で、大手門の周辺はいわゆる番方と呼ばれる城域を警護する武家で固められていました。
石室の発掘状況
石室の発掘状況
遺構は、屋敷地の南側部分にあたる背割下水付近と調査区東側で、廃棄士坑・井戸・溝などが見つかりました。
廃棄士坑は、大きさが直径4~6m、深さが1~1.9mと巨大で、陶磁器や木製品が大量に出士しました。
井戸は少なくとも4基あり、幅10cmほどの板を組み合わせた桶状の井戸枠が主に使われていました。
これらは重複しており何度も作り変えられたことがわかります。
出土した木製品には、墨打ちや加工痕が残る木材があり、屋敷の敷地内で職人に屋敷や家具などの修繕を行わせていたと考えられます。
それにしても、蟹江家屋敷地と町屋敷地で出土した陶器を見比べてみると、明らかに町屋敷地からの出土品の方が質が高いのは、どうしてか。
この屋敷の主である、蟹江家は富山藩の家老の家柄でしたが、蟹江監物一件と呼ばれる事件が天保5年(1834)10月に発生しています。この際に、家老蟹江監物を筆頭に、22名におよぶ家臣団の大処分が発表されています。蟹江監物は、役儀指除け・隠居700石減知となっています。 この一件は、財政難対策の一つとして実施した藩札発行をめぐる利権争いの中で起こったもので、十分の藩札を発行しようとする藩財政当局に対して、反対派の策動があったとみられます。この詮議にあたったのが家老の近藤丹後や御公事方奉行の近藤主馬でしたが、彼らもまた財政再建失敗の責任をとり、同九年正月に失脚することになります。ううむ、人を呪わば穴二つか・・・。
蟹江氏家系図
蟹江氏家系図
そもそも富山藩は十万石といわれていますが、領有総高は寛文四(一六六四)年で十三万六千石余、俸禄を引いた実収総米二万八千石であり、中期頃には三万石程でした。明治二年には四万六千石程に夫銀・小物成を加えて四万七千石程になっています。
収納米の内から二万石程を大坂に廻して現金化していました。
新田開発に力を入れ、寛文四年から明治三年までに約二万石以上増加しています。
並行して家臣団の整理縮小に努め、明治二年までに一万石程を減らすことに成功しています。
立藩当初から人件費が財政を圧迫し、収入増とリストラを続けながら、幕末まで耐えてきたわけですが、しかしながら財政支出は拡大する一方であり、京・金沢・富山領内からの借財が嵩んだ結果、延宝三(一六七五)年の段階で約十二万石にもなっています。
そのため家中から借知し、領民に上納を求めて補おうとするものの、幕府から普請手伝いが命ぜられ、元禄十四(一七〇一)年に銀札の発行を余儀なくされています。
宝暦十三(一七六三)年に日光東照宮の普請手伝いで十一万両が必要になり、町・郡に割当て、大坂でも調達に腐心し、加賀藩に五万両を依頼して二万両のみ融通できています。
元禄十六年には大坂廻米が不足し、五千両の調達を十村へ指示する。このような状態であるため、債務者への返済が履行されず、明和八(一七七一)年と安永九年(一七八〇)には訴えられる羽目になっています。
収入の増加を図るため、明和三(一七六六)年に人別銭を導入し一人一日一銭ずつ納めさせますが、天保二(一八三一)年の大火で城下八千三百戸余が焼失し、城も炎上しています。その後の復興策で借財が三十万両に膨れ上がり、翌年から財政再建を企図します。
しかし預り手形・藩札の操作は銭札発行を巡る疑獄事件に発展し、家老蟹江監物らが失脚することになったわけです。
藩札の発行といっても、何ら裏付けのない発行であることは明らかで、信用力も低下しているこの段階での藩札発行は無謀との誹りは免れません・・・と言ってしまえば簡単ですが、蟹江監物としてみれば背に腹は代えられずといったところでしょうか。
蟹江家は、この蟹江監物一件により失脚して俸禄も半減されているので、生活が苦しくなり、高価なものは売却してしまったから、良い物は残っていないということも考えられます。
また他にも、蟹江家では敷地内に家庭菜園を持っていたことも判明していますので、質素な自給自足的な生活をしていたと考えられます。いずれにしても、10万石の大名の家老である蟹江家でこの有様ですから、他の家臣団の生活はもっと苦しかったのではないでしょうか。このことからも富山藩の財政が破綻していたということが伺えます。
■三ノ丸外堀の調査
外堀とその北側の士塁基底部を確認し、士塁法面から堀底までの様子がわかりました。
堀の深さは現地表面から約5mです。法面勾配(傾き〉は約40度で、旧総曲輪小学校調査区で見つかった堀とほぼ同じ構造です。
法面が崩落しないように、法面の途中を平らにして、10cm~20cm大の礫を約40cmの厚さで敷いています。
士塁基底部は、高さ1.75mで、幅3.7m分が残っていました。士塁が崩れないように砂や礫を混ぜて士を固める作業を繰り返して築かれています。士塁本来の大きさは、高さ4.5m、基底部の幅10m以上の規模が推定されます。
調査の結果、外堀と士塁基底部の構造を確認し、古絵図のとおり外堀の北側に士塁があったことが裏付けられました。

三の丸外堀の発掘状況 井戸 調査範囲
三の丸外堀の発掘状況 井戸 調査範囲

背割下水発掘状況 井戸の配置図
背割下水発掘状況 井戸の配置図
井戸の発掘状況 調査地と富山城
井戸の発掘状況 調査地と富山城
今回の調査区は、大手門周辺です 富山城下町古絵図
今回の調査区は、大手門周辺です 富山城下町古絵図
富山城下町古絵図 蟹江家屋敷地で発掘された井戸
富山城下町古絵図 蟹江家屋敷地で発掘された井戸
墨書・刻印のある井戸枠 打割で製材された井戸枠
墨書・刻印のある井戸枠 打割で製材された井戸枠
発掘された井戸 桶の蓋
発掘された井戸 桶の蓋
蟹江家屋敷地で発掘された井戸 漆塗り用の刷毛
出土品 漆塗り用の刷毛
下駄 町屋敷地からの出土品
下駄 町屋敷地からの出土品
出土品 灯明皿
出土品 灯明皿
磁器 椀 皿 皿 椀
磁器 椀 皿 皿 椀
壺 越中瀬戸 皿 中国系磁器
壺 越中瀬戸 皿 中国系磁器
焙烙 擂鉢 在地系磁器
焙烙    擂鉢 在地系磁器
皿 椀 肥前系磁器
椀 肥前系磁器
皿 越中瀬戸 椀 瀬戸・美濃
皿 越中瀬戸 椀 瀬戸・美濃
椀 椀 蓋
椀 蓋
猪口 皿
猪口
皿 手づくね
手づくね
椀 椀
椀 しゃもじ 下駄
しゃもじ 下駄
硯 寛永通宝 寛永通宝 飾金具 天秤皿
硯 寛永通宝 寛永通宝 飾金具 天秤皿
鍬先 井戸
鍬先 井戸
おはぐろ 煙管吸口 寛永通宝
おはぐろ 煙管吸口 寛永通宝
柄 毛抜き 蓋
柄 毛抜き
盃 漆塗椀
漆塗椀
蟹江家関連年表
蟹江家当主名 年代 できごと 富山藩主名
蟹江與兵衛 天正年間 加藤清正に従って九州肥後へ向かう→八代城代となる
宗久 寛永 9(1632)年 加藤氏改易により、浪人となる
寛永 10(1633)年 前田利常に2000石で召し抱えられる→前田利次付となる
寛永 16(1639)年 富山藩成立
寛永 17(1640)年 前田利次が富山城に入城する
→この前後に宗久、利房親子も富山へ 初代 前田利次
利房 寛永 20(1643)年以降 分割相続により、1400石を相続する物頭役となる
基直 承応 元(1652)年 1400石を相続し、火消役となる
寛文 5(1665)年 馬廻組頭となる 2代 前田正甫
天和 2(1682)年 越後高田城請取に参加する 3代 前田利興
基榮 正徳 5(1715)年 1400石を相続し、馬廻組・火消役となる
享保 9(1724)年 馬廻組頭となる
享保 10(1725)年 小姓組頭となる
享保 19(1734)年 元堯が基榮の養子となる 4代 前田利隆
元堯 享保 20(1735)年 基榮の1400石のうち3分の1を受け継ぐ馬廻組となる
元文 3(1738)年 前田利隆から基榮の本高である1400石を与えられる
宝暦 4(1754)年 馬廻組頭・寺社奉行・奏者役となる 5代 前田利幸
宝暦 6(1756)年 側用人・寄合所加判となる
宝暦 13(1763)年 日光東照宮修繕の御手伝普請→副奉行となる 6代 前田利與
安永 6(1777)年 前田利久が藩主となる→天明7年(1787年)に死去 7代 前田利久
天明 8(1788)年 家老となる 8代 前田利謙
富元 寛政 3(1791)年 1400石を相続し、先手頭・火消役となる
寛政 9(1797)年 加賀藩12代藩主前田斉広の元服→御祝儀御使者を勤める
寛政 12(1800)年 徒組頭となる
享和 2(1802)年 徒組支配・宗門奉行・鉄砲改となる 9代 前田利幹
基治 享和 3(1803)年 1400石を相続し、定番足軽頭・火消役となる
文化 6(1809)年 馬廻組頭・寺社奉行・奏者役となる
文化 12(1815)年 若年寄・寄合所加判・無組役人組支配・公事場奉行・寺社奉行となる
文化 14(1817)年 家老となる
天保 5(1834)年 蟹江監物一件により隠居、700石の減知処分となる
【蟹江監物一件】…富山藩の財政難対策として実施した藩札発行をめぐる利権争い
主膳 天保 5(1834)年 700石を相続し、高知組火消役となる
【参考文献】 富山県編1982『富山県史』通史編皿近世上
富山県公文書館編1998『とやまの歴史』
新田二郎編1988『富山藩士由緒書』越中資料集成2桂書房
富山城下町遺跡・蟹江家
住所 富山県富山市婦中町小長沢地内
電話 076-465-2116(婦中総合行政センター農林商工課)
公開日 非公開
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