国史跡 春日山城跡
春日山城跡の概要
春日山城の案内図を見ても難攻不落が伺えます
春日山城の案内図を見ても難攻不落が伺えます
春日山城は、新潟県上越市中屋敷字春日山にある中世山城跡です。別名、蜂ヶ峰城とも呼ばれています。日本五大山城の一つとされます。1935年(昭和10年)8月27日に主城周辺が国の史跡に指定されています。
この春日山城は、標高182mの蜂ヶ峰山頂にあり、巨大かつ堅固な山城で難攻不落の名城といえます。
春日山城がいつ築城されたのか、その時期については実はあまり定かではないのですが、南北朝期に越後国守護であった上杉氏によって越後府中があった直江津が平地で守りに弱いことから背後の蜂ヶ峰山に詰めの城として築かれたのが最初と考えられています。その後、越後は守護代であった長尾氏が次第に実権を持つようになり、永正年間(1504-21)頃に守護代であった長尾為景により春日山城が城砦化されたと思われます。
1507年(永正4年)に守護代・長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放して、新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となっています。房能は兄の関東管領・上杉顕定を頼って関東に脱出する途上、天水越で自刃しています。
しかし永正6年(1509年)房能の実兄であった関東管領・上杉顕定が為景を滅ぼすべく報復の大軍を起こして、越後に攻め入り、、為景は劣勢となって定実とともに佐渡に逃亡しています。つまり為景のこれまでのやり方に反発した国人衆が為景に味方しなかったために為景は敗北したと言えます。
ところが顕定の越後統治は非常に強硬で稚拙だったため、これまた越後国人の反発を受けることとなり、長尾為景が邑山寺にて捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転ずると、上杉軍は各地で敗退して、顕定は関東へ退却しようとしますが、為景は長森原の戦いで、援軍の高梨政盛の助力により顕定を敗死させています。
駐車場から春日山神社への階段
駐車場から春日山神社への階段
この勝利によりいったんは奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した為景は、自分の妹を定実に娶らせ、さらに嫡男六郎(長尾晴景)を定実の猶子とする約定を交わし守護上杉家の外戚として越後の国政の実権を握ろうとしました。
永正10年(1513年)には為景の傀儡であることに不満を抱いた上杉定実が、守護家家臣の宇佐美房忠、宇佐美定満や実家上条上杉氏当主の上条定憲、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠するなど断続的に抵抗を続けていますが、永正11年(1514年)には宇佐美房忠ら一族が討ち死にして失敗し、定実も一時幽閉されるなど権威はますます失墜するという結果になっています。
為景は、その後は越中や加賀に転戦して、神保慶宗・椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新川郡守護代を任されるなど勢力を拡大していますが、晩年は定実の実弟である上条上杉定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられるようになり、天文5年(1536年)には隠居に追い込まれています。ただし、この年には朝廷より内乱平定を賞する綸旨を受けています。上条定憲軍は天文5年(1536年)4月10日に春日山城下まで侵攻し、為景は高梨政盛らの援軍を得て三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もあります。
これまで為景は隠居して間もない天文5年(1536年)12月24日(1536年2月4日)に死去したとされていましたが、近年はそれ以後の文書でも為景の生存が確認されていて、『上杉家御年譜』の記述通り、没年を天文11年12月24日(1542年1月29日)とする説が有力視されているので、ここでもその説に従っています。
春日山神社の石碑
春日山神社の石碑
ということで晩年についても『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』では晴景に家督を譲った後も為景が実権を握り続けたと説明していますし、実際にもそう考えるのが妥当でしょう。
さて長尾晴景は為景の隠居により守護代を嗣ぎ、春日山城主となっています。この晴景は、為景と比べると求心力に欠けるところがあったのですが、父の為景とは異なり穏健政策をとり領内の国人との融和を図っています。これにより越後における争乱を鎮めることにはとりあえず成功したのですが、主家筋にあたる上杉定実の問題が発生しました。というのは定実は男子がいなかったため、為景の没後、縁戚である陸奥の大名伊達稙宗の子伊達実元(成実の父)との養子縁組を中条藤資らと画策し、これにより復権を図ったのですが、越後北部や出羽での上杉傘下の国人領主同士の対立を招き、さらに、伊達氏における天文の乱(洞の乱)を引き起こす結果となり、ついに縁組は中止され、定実のもくろみは頓挫してしまい、復権は不可能となってしまいます。
晴景は弟の虎千代(長尾景虎、後の上杉謙信)を天文12年(1543年)8月15日に元服させて長尾景虎と名乗らせ、9月には栃尾城に派遣し、国人衆の叛乱を鎮圧しています。虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされています。実父為景とは仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたと言われていますが、兄の晴景は景虎の才覚に期待したのでしょう。
春日山神社
春日山神社
天文14年(1545年)には、黒滝城主・黒田秀忠は晴景の弟長尾景康・長尾景房らを殺害して10月に謀反を起こすが、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させています。黒田秀忠は他国への出奔を条件に助命を願い出て赦されていますが、翌天文15年(1546年)に再び黒滝城で挙兵したため、景虎はこれを討伐し、黒田一族は悉く自刃して滅んでいます。
このように景虎は若くして才覚に優れていて、その軍略は目を見張るものがあり、惰弱な晴景との対比が明らかになってしまったと言えます。
このため、晴景に代わって景虎を擁立する声が高まり、晴景と景虎の仲は険悪なものとなります。天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きがさらに本格的になります。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼でした。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成しています。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についています。
しかし同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退することとなります。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となります。
春日山神社本殿
春日山神社本殿
これに対して天文19年(1550年)12月には、坂戸城主の長尾房長・政景父子は景虎に反乱を起こしています。政景が反乱を起こした原因は、景虎が越後国主となったことで、晴景方だった政景の立場が悪くなっていたことと、長年に渡り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家の長尾景信が、景虎を支持してきたために逆に発言力が増してきたことでした。
しかし景虎は翌年天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳の居城・板木城を攻撃し、これに勝利し、さらに同年8月には坂戸城を包囲することで、これを鎮圧しています(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったことなどから助命され、以降は景虎の重臣として重きをなすようになります。一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担し、その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至っています。しかし政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げることに成功したのです。
守護上杉定実は既に天文19年(1550年)に死去しています。享年73。跡継ぎなく、越後守護上杉氏は断絶し、景虎が事実上の国主となっています。さらに天文22年(1553年)2月10日には隠居していた兄晴景も死去しています。享年42。
天文21年(1552年)1月、関東管領上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城平井城も支えきれなくなり、これを放棄して、景虎を頼って越後国へ逃亡してきました。景虎は憲政を迎え入れ、御館に住まわせています。
春日山神社
春日山神社
これにより、長尾景虎は北条氏康と敵対関係となります。8月には関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍と交戦しています。
同年、武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって、領国信濃国を追われた信濃守護小笠原長時が景虎に救いを求めてきます。さらに翌天文22年(1553年)4月には信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請してきます。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣し、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城を一旦は奪還しています。
しかし武田軍は一旦は兵を引いたものの、7月には再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻してくると、義清は再び越後国へ逃亡しています。
ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣し、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破します。さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落としました。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、景虎は深追いせず、9月に越後へ引き上げています。これを第一次川中島の戦いと呼んでいます。景虎は、天文22年(1553年)9月には初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁しています。
天文23年(1554年)、北条城城主の北条高広が武田と通じて謀反を起こしていますが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城北条城を包囲し、これを鎮圧しています(北条城の戦い)。しかし高広は帰参を許されています。
春日山神社本殿と神輿殿
春日山神社本殿と神輿殿
この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いています。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙しています。この戦いは第二次川中島の戦いと呼ばれています。景虎は裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させています。この戦いでは武田軍が旭山城に多数の鉄砲を持ち込んでいる事が資料からわかり、武田氏は、早くから鉄砲に目をつけていたわけで大変興味深いものがあります。
武田氏は実は鉄砲の装備には熱心だったようです。
しかしこの戦いも小競り合いに終始して決着はつかず、対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げています。ところが弘治2年(1556年)6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、高野山に向かいます。しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻しています。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国しています。景虎は、越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破っています(駒帰の戦い)。大熊朝秀は武田氏のもとに亡命しています。実は大熊朝秀は、武田氏の水が合ったのか天目山までお付き合いしています。しかしそいつは付き合いが良すぎましたね。またこの戦いで大熊朝秀を破ったのが前述する領地争いをしていた一方の領主である上野家成だったというのも皮肉な話です。
弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略し、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎側の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃しています。まあ、そんなところでしょう。
謙信公宝物殿
謙信公宝物殿
4月には晴信の盟約違反に激怒した景虎が再び川中島に出陣します(第三次川中島の戦い)。景虎は、山田城、福島城を攻め落として善光寺横山城に着陣し、さらに破却されていた旭山城を再興して本営としています。5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍します。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けています。7月、武田軍の別働隊が安雲郡小谷城を攻略しています。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃しています。その後8月、両軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戦しますが、決定的な戦いにはならなかったのです。さらに越中国で一向一揆が起きたため、景虎は軍を引き上げています。武田軍は、ほとんどまともに戦うことなく長尾軍を退却させたわけです。
弘治4年(1558年)、景虎のもとに将軍・義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝えています。
しかし翌永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城しています。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていったわけです。
景虎は、永禄2年(1559年)4月に再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁しています。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられています(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものでしたが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現することはありませんでした。まあ、それはそうですね。
春日山城の案内図
春日山城の案内図
永禄3年(1560年)3月、越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請しています。これを受けて景虎は初めて越中へ出陣し、すぐに長職の居城富山城を落城させています。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を救援しています。これにより神保氏が弱体化して椎名氏の立場が強くなっています。
5月、景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越えます。上野国に入った景虎は厩橋城・沼田城・岩下城・那波城など北条方の諸城を次々に攻略して、厩橋城で越年しています。
またこの間に、北条氏政以下3万5千の軍勢が下野国の佐野昌綱の居城唐沢山城を攻囲したため、景虎は関東管領・上杉憲政の居城平井城に駐屯していましたが、このことを聞き唐沢山城救援に8千の兵で駆けつけ、昌綱以下の唐沢山城兵7千とともに氏政の軍と戦い、これを大いに破り退けています。
年が明けると軍を率いて上野国から武蔵国、さらに氏康の居城小田原城を目指し相模国にまで侵攻し、2月には鎌倉を落としています。兵力差が大きく、野戦では不利と悟った氏康は相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ退却し篭城しています。
永禄4年(1561年)3月に関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲しています。これを小田原城の戦いと呼びます。この際には小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込んでいます。
春日山城説明板
春日山城説明板
この当時の小田原城は、秀吉が攻めよせた当時の総構えを持つ小田原城とは違い、まだ小規模なものでした。
また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れています。しかし小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せた上、長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求し、無断で陣を引き払うなどしたため、落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後、攻城は断念して鎌倉に兵を引いています。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させています(松山城の戦い)。武蔵松山城には城将として上杉憲勝を残して帰国しています。
この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めています。もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職は上杉氏が代々任じられてきた役職です。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯があります。
上杉謙信公銅像
上杉謙信公銅像
関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は武田勢の侵攻に対して川中島へ出陣しています。
これが世にいう第四次川中島の戦いであり、川中島の戦いと言えばこの戦いを指すのが普通です。この第四次川中島合戦は最大の激戦といわれ、武田方では武田信繁ら重臣の多くが討死し、上杉方でも政虎自ら戦う混戦状態であったといわれています。
しかし、最終的に上杉軍は川中島から退却することになり、武田軍が善光寺平を支配することになります。
このときの上杉軍の被害は甚大であり、当面は軍事行動が困難な状態となってしまいます。
この戦いののち、北信地域を巡る武田氏との対決は収束に向かい、武田方は北信地域を維持しつつ西上野侵攻を開始し、政虎は北信地域を現状維持とし関東の北条氏とも対決を本格化させています。
しかしこの間に北条氏康が関東で反撃を開始、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃しています。これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣し、武蔵国北部において氏康と戦っていますがこれに敗退を喫しています。これを生野山の戦いと呼びます。ただし、この合戦で政虎自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていません。しかし上杉軍は、生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させています。
その後、上杉軍は古河御所付近から一時撤退することになり、その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の深谷城主上杉憲盛が北条方に降ってしまうことになります。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃しますが、関東一の山城と謳われる難攻不落の唐沢山城を攻略するのに手を焼いています。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになります。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎と改めています。輝虎はこの年は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年しています。
春日山城東側の全景
春日山城東側の全景
関東における戦況は、当初は大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢でしたが、武田氏・北条氏の両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられることになります。これは主に第四次川中島の戦いの被害があまりに大きかった事が原因でしょう。
永禄4年(1561年)、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた箕輪城主長野業正が病死したため、この機を逃さず信玄は上野国へ攻勢をかけています。同時に北条氏康も反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばしてきます。これに対し関東の諸将は、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返すことになります。信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗します。
永禄5年(1562年)、輝虎は上野館林城主の赤井氏を滅ぼして、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。この後7月には越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させています。
しかし輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、再び長職を降伏させています。ところが輝虎が関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条・武田連合軍の攻撃を受けてしまいます。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は深い雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行しています。
但馬谷は深く大きい堀切のようです
但馬谷は深く大きい堀切のようです
12月には上野国の沼田城に入って兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、わずかに間に合わず松山城は落城してしまいます。しかし輝虎は反撃に出て小田朝興の守る武蔵の騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰をも降伏させています。次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻めついに佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を次々に攻略しています。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えています。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年しています。永禄7年(1564年)、常陸国へ入り1月に小田氏治の居城・小田城を攻略します。同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せています。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦していますが、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏しています。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れています。3月には上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国しています。
永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破し、その間に信玄が信濃国水内郡の野尻城を攻略したがこれを奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙しています。(第五次川中島の戦い)。しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に上杉軍は越後に軍を引いています。
春日山城直江屋敷付近
春日山城直江屋敷付近
これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはなかったのです。輝虎としては川中島の戦いにおいて信玄の目的である信濃完全統一を妨害して、信玄の越後国侵攻を阻止することには成功したものの、一方では上杉氏の支配権は奥信濃を掌握したのみで、村上氏・高梨氏らの旧領を回復することはできず、武田氏が信濃の大半を支配することになっています。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、これを降伏させたうえで人質をとって帰国しています。
一方、武田信玄は西上野へ侵攻して、永禄8年(1565年)6月、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略しています。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していため、輝虎に救援を要請しています。さらに5月には将軍・足利義輝が三好義継・松永久秀の謀反により討たれてしまいます(永禄の変)。輝虎は、永禄9年(1566年)には常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど積極的に攻勢をかけています。また、里見家が北条家に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である臼井城に攻め寄せています。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三の知謀の前に、結果的には撤退することとなり、失敗に終わっています(臼井城の戦い)。
春日山城直江屋敷全景
春日山城直江屋敷全景
臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る事態となって、9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く結果になっています。さらに同月、上杉方の西上野における最後の拠点であった箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城、城主・長野業盛は自刃し、西上野全域は武田の支配下になっています。これにより上杉氏は関東において、武田信玄と北条氏康の両者と同時に戦う状況となり守勢に回ることになります。武田信玄は、あまり無理に戦をせずにじっくりと勢力を伸張させてきて上野の半分を支配するようになったのに、輝虎が得たものはあまりないのは領土欲がなかったためか、占領後の仕置きの甘さが原因なのかな。
さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになります。永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させています。しかし厩橋城代を務める上杉氏重臣・北条高広までもが北条に通じて再び謀反を起こしています。しかしこの高広、節操がない奴ですね。4月、高広を破り、厩橋城を奪還し、上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図ります。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまっていますし、上野南部には北条氏の勢力もあって、上杉氏の勢力は限定的という状況です。
永禄11年(1568年)、輝虎は新将軍足利義昭から関東管領に任命されています。輝虎はこの頃から次第に越中国へ出兵することが多くなり、一方で武田信玄は上洛のため西上し、これにより北信濃での信玄の脅威は弱まることになります。北条氏康は信玄と敵対関係となったため、輝虎との和睦を模索し同盟の交渉をはじめることになります。
春日山城への通路
春日山城への通路
永禄11年(1568年)3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)。7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させて越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退しています。さらに輝虎が離反した康胤を討つべく、越中松倉城・守山城を攻撃しています。ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされます。反乱を鎮めるため、輝虎はまず繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させています。その上で11月に繁長の居城・本圧城に猛攻を加えて、、翌永禄12年(1569年)には蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許しています。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にすることに成功しています。
永禄11年(1568年)12月、氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた信玄と断交する事態になり、長年敵対してきた輝虎との和睦を探るようになります。信玄はさらに氏真を破り駿府城を攻略して駿河国を占領しています。これにより力の均衡が崩れて氏康の居城・小田原城に危機が迫ったため、氏康はそれまで盟友であった信玄と激しく敵対することになります。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える危機的状況となっています。実は、北条氏は永禄10年(1567年)の三船山合戦で里見軍に破れ、上総の大半を失う事態となっていて四面楚歌だったのです。
ここから急坂を登ると三の丸です
ここから急坂を登ると三の丸です
永禄12年(1569年)1月、氏康は輝虎に和を請うています。これに対し輝虎は3月、信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総関宿城を救うため、北条との講和を受諾して、宿敵ともいえる氏康と同盟しています(越相同盟)。この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除して、上野国の北条方の豪族は輝虎に降り、北条高広も帰参が許されています。輝虎は北条氏に関東管領職を認知させた上、上野国を確保したため、これより本格的に北陸諸国の平定を目指すことになります。しかし一方で、越相同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して強い不信感を抱く結果となっています。長年に渡り北条氏と敵対してきた里見氏は輝虎との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかったのです。里見氏にとっては、北条氏は相容れない存在だったようです。また北条氏にとってもこの同盟は機能不全でメリットよりデメリットが大きかったようです。
そもそも根本的に北条氏と上杉氏は利害が一致しなかったのがうまくいかなかった原因でしょう。
永禄12年(1569年)8月、輝虎は越中へ出兵し椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲しています(松倉城の戦い)。支城の金山城を攻め落としたものの、信玄が上野国へ侵攻したため松倉城の攻城途中で帰国し、上野国の沼田城に入城しています。元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。10月、氏康から支援要請を受けたため上野へ出陣し、武田軍と交戦した後、年内に帰国しています。
三の丸への通路の途中に甘粕近江守屋敷跡があります
三の丸への通路の途中に甘粕近江守屋敷跡があります
元亀元年(1570年)4月、氏康の7男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇しています。12月には法号「不識庵謙信」を称しています。というわけでここからは謙信と呼ぶことにします。
元亀2年(1571年)2月、謙信は再び越中国へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ松倉城・新庄城・守山城などを立て続けに落城させています。しかし椎名康胤はうまく落ち延びて蓮沼城に逃れ、越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続けます。その後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになります(越中大乱)。 11月には北条氏政から支援要請があったため関東へ出兵し、佐竹義重が信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助しています。
元亀2年(1571年)10月、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去り、翌元亀3年(1572年)1月、氏康の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対することになります。また上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動します。これにより謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになります。
元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の石倉城を攻略しますが、相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対陣しています(第一次利根川の対陣)。元亀3年(1572年)5月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城・白鳥城・富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達します。
なぜか愛の兜の鎧武者が・・・
なぜか愛の兜の鎧武者が・・・
8月、謙信は越中へ出陣し、一向一揆の大軍と戦い激戦となっています。謙信は新庄城に本陣を置き一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引きます。一向一揆は富山城の周りに砦を築いていたので、なかなか攻められなかったのです。しかし9月に双方が城を出るに至り、野戦での決戦となります。謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。その結果、苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させ、年末にこれを制圧します。やはり所詮、一向一揆は烏合の衆でした。
11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長の同盟の申し出を受けています。翌元亀3年(1572年)3月、信玄の画策により再起した越中一向一揆が再度富山城を奪っています。このため越中国から越後国への帰路についていた謙信はすかさず兵を返し、未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とします。
元亀4年(1573年)4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐことになります。同年8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略します。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧します。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決めたようです。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばしています。12月、足利義昭に足利家再興を依頼されます。
三の丸に到着
三の丸に到着
天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻してきます。謙信は後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃し、3月には膳山城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげています。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)、さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため、4月には氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国しています。羽生城は閏11月には落城しています。天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入っています。しかし既に謙信は越中平定に力を注いでいたため本格的な戦闘は起きず、北条方の騎西城・忍城・鉢形城など諸城の領内に火を放ったのみでした。上杉軍の援軍が期待できない関宿城は結局降伏しています(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏の古河城を攻めている。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。
天正3年(1575年)1月11日、政景の子で謙信の養子となっていた喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲っています。
謙信は、天正4年(1576年)2月に織田信長との相次ぐ戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和します。
三の丸には景虎屋敷跡があります
三の丸には景虎屋敷跡があります
前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていました。顕如はこれまで散々謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けことになります。このとき謙信は武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする信長包囲網を築き上げたのです。このあたり、これまでの謙信とはうって変わった鮮やかなお手並みですが、どういう心境の変化でしょうか。
10月には足利義昭から信長討伐を求められていた謙信はついに上洛を急ぐことになります。
天正4年(1576年)9月、謙信は越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城を次々に攻め落とし、神保氏を滅ぼしています。次いで椎名康胤の蓮沼城を陥落させ椎名氏をも滅ぼし、ついに騒乱の越中を平定しています。
上洛を急ぐ謙信の次の狙いは、能登国の平定でした。特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で非常に重要でした。当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の幼主・畠山春王丸でしたが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていました。城内では親信長派の長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が、主導権争いをしており、激しい内部対立があったのです。謙信は七尾城に降伏勧告をして無血入城しようとしますが、畠山勢は評議の結果、徹底抗戦を決しています。これにより能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発することになります。
三の丸の米蔵を守るための土塁
三の丸の米蔵を守るための土塁
天正4年(1576年)11月、謙信は能登国に進み、熊木城・穴水城・甲山城・正院川尻城・富来城など能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んでいます(第一次七尾城の戦い)。しかし七尾城は石動山系の北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難でした。付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年しています。天正5年(1577年)、関東での北条氏政の進軍もあり謙信は春日山に一時撤退します。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされています。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す密書が届きます。これに至り謙信は反転を決意し、同年閏7月、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲します(第二次七尾城の戦い)。このとき七尾城内では疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していました。しかし守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしません。このため謙信は力攻めは困難とみて調略を試みます。そして9月15日、遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こし、信長と通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城は落城します。この2日後の17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。こうして能登国は全て謙信の支配下に入りました。
但馬谷の先端は竪堀となっています
但馬谷の先端は竪堀となっています
謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切ります。柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集、同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しました。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていました。9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったのですが、実は柴田勝家はこの時点で既に七尾城が陥落していることすら気づいていなかったのです。なんだ、こんなことだから秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れたのか。
織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知った謙信はこれを迎え撃つため大軍を率いて南下を開始します。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出します。9月23日、ようやく織田軍は救援するはずであった七尾城が陥落してしまったことを知ります。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った織田軍は撤退を余儀なくされます。それに対して上杉軍は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破します。これを手取川の戦いと呼びます。なお、この戦いの規模については諸説ありますが、結果から見るとたいした規模ではなかったのだろうと思われます。
二の丸屋敷跡
二の丸屋敷跡
天正5年(1577年)12月18日、謙信は一旦は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発しています。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしいのですが、しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、3月13日、急死しています。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との可能性が高いと思われます。深酒するからです。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封しました。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移されています。
謙信が死去したことで、上杉景勝と上杉景虎との相続争いが勃発します。これを御館の乱と呼びます。これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われています。3月24日、いち早く春日山城本丸と金蔵を占拠した景勝側が有利となり、春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった景虎と戦いましたが、甲相同盟に基づき調停のため越後国へ出兵した甲斐国の武田勝頼により形勢逆転、一転して景勝は窮地に陥っています。武田軍は、この際に2万もの大軍を送り込んできていたので、とても景勝がかなう相手ではなかったのです。しかし景勝は、東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件として武田氏と和睦して、これによって武田家の後ろ盾を得たことにより、景勝は戦局を覆しています。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化しています。この時の武田氏の態度が金に目がくらんだと見る向きもあるでしょうが、この時に実は南方では徳川軍が武田方の諸城を圧迫し始めていたので、それ以上もたもたしている余裕がなかったことと、北条軍の動きが悪く、共同作戦も取れないこと、上杉景虎が武田氏に無理な条件を突きつけていたことなどから、まあ当然の帰結と思います。景勝がうまく武田氏に取り入ったのが成功したと評価するべきでしょう。
本丸方面全景
本丸方面全景
翌・天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室である実姉清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害しています(没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある)。同年3月、和議を申し出ようとした養祖父の憲政が景虎の嫡男道満丸とともに何者かによって討たれています。これには景勝の命令、景勝側の部下の裏切り、景虎側の部下の裏切り等様々な諸説があり断定はされていません。武田勝頼に裏切られ、北条氏の援軍も到着しない中で徐々に立場を悪くした景虎は小田原に逃れようとする途中、鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って自害します。享年26。しかし堀江宗親もこの後の消息がわかっていないのですが、その領地は没収されていることは判明していて、逃亡したか追放されたのだろうと思われます。しかし裏切り者の末路はそんなものです。
翌天正8年(1580年)には越後の豪族も追従し、景勝は名実ともに上杉家の当主となったのです。
御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった新発田城城主の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻されます。翌天正10年(1582年)3月には武田氏が織田信長によって滅ぼされ、その後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされます。
同年6月、織田軍は魚津城を落とし越中国を完全に制圧して上杉氏は窮地に立たされますが、6月2日、信長が本能寺にて自害(本能寺の変)したために織田軍は魚津城から撤退したため、上杉家は九死に一生を得ました。しかし、織田氏の侵攻に加えて御館の乱が長期化したため、領内に対する統治力が低下したことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退しました。
二の丸跡
二の丸跡
信長の死後、上杉景勝は北信濃に侵攻して北条氏直と争うが、北条氏直は景勝に北信濃4郡を割譲することを条件に講和しています(天正壬午の乱)。その後、景勝は信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)と好を通じ、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは、秀吉より越中侵攻を命ぜられています。しかし、柴田方に組した佐々成政と睨み合いになり、本国から動けず合戦には参加できなかったのです。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の富山の役でも秀吉に味方し、佐々成政を牽制しています。
天正14年(1586年)6月、景勝は上洛して秀吉と会見し、秀吉に養子の畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保っています。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄し、代わりに佐渡・出羽の切り取りを許可されています。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられています。
天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を滅ぼし(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たしています。しかし新発田重家を滅ぼすのに6年以上もかかっているのは、どうしたものか。
要するに1580年以降の上杉家は、御館の乱による内戦で極めて弱体化していたといえましょう。
天正16年(1588年)には再び上洛し、従三位・参議に昇叙されています。この時、豊臣姓と羽柴の名字を与えられています。
天正17年(1589年)には佐渡国の本間氏を討伐し、佐渡国を平定しています。これにより、上杉氏は越後・佐渡二国に出羽庄内三郡・信濃川中島四郡で約90万石の支配領域が確定しました。
なんと・・・本丸への通路が不通でした
なんと・・・本丸への通路が不通でした
天正18年(1590年)には北条氏との小田原合戦にも山浦景国を先鋒として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに上野・武蔵の北条方諸城を攻略しています。文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮しています。このとき朝鮮における日本軍最前線基地として熊川に倭城を築城しています。 文禄3年(1594年)には権中納言となり、「越後中納言」と呼ばれるようになりました。文禄4年(1595年)1月には秀吉より越後・佐渡の金銀山の支配を任せられています。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命されています。ただし、これ以前からも五大老としての連署に署名している場合もあったようで(していないときもある)、既に五大老としての地位にあったと見ることもできます。
慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれています。
旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は元から伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が芦名氏を滅ぼして得た会津地方でした。またこれらの各領地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけで統治するにも防衛上も不利でした。領地が分断されるということは実際に戦争になった際には極めて不利なので、石高が増えたからといって喜んではいられない国替えであったと言えます。
この国替えは常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性があり、会津から下野に減転封された蒲生氏に代わり、東北諸大名の監視と牽制のための配置でした。この際に直江兼続は寄騎も含めて出羽米沢に30万石が与えられていて、大名クラスの待遇であったことが伺えます。
御成街道説明板
御成街道説明板
いずれにしてもこの国替えで上杉景勝は春日山城を去り、代わって越後に入ったのは、堀秀治でした。
堀秀治は、慶長3年(1598年)4月2日、北ノ庄領主時代からの与力大名である村上義明・溝口秀勝らと共に、上杉氏移封のあとを受けて越後国春日山45万石に転封しています。この所領のうち9万石は村上、6万石は溝口ら与力大名分です。また、入部後の7月より領内の総検地を行っていることが記録に残っています。
ところが秀治の越後転封後、上杉氏との間で年貢を巡るトラブルが発生しています。このトラブルは会津から宇都宮に移った蒲生氏が、年貢として収納した米を半分持って移ったことにあります。これを知った上杉氏は越後からこれも半分の年貢を持って会津に移っています。
ところが堀氏は越前から年貢を持ってこなかったので、あるはずの年貢の半分がないことになり、上杉氏に年貢の返還を要求したのです。これに対し上杉家からは「持ってこない方が悪い」という冷たい返事があっただけで、年貢は返してもらえなかった。これにより激怒した堀秀治は上杉氏に対してたいへん恨みを持つようになります。このトラブルが実は家康の会津征伐、さらには関ヶ原の戦いの発端となります。
慶長3年(1598年)秀吉が没します。享年62。この時、上杉景勝は領国の会津にあり、道普請をし、橋を架け、新城を築くなど大規模な工事をしていました。もちろんこれは、新領土に入った景勝の領内整備と考えるのが妥当でしょうが、時が時だけに見るものが見れば戦準備と見ることも可能でしょう。景勝の動きを知った秀治は「上杉に謀反の疑い」と家康に通報しています。
景勝屋敷跡
景勝屋敷跡
この情報に上杉にちょっかいをだそうと狙っていた家康が飛びついたわけです。秀治はこのあたりを充分読んで、家康に会津の様子を伝えたのかもしれないし、あるいは家康から意を含められたのかもしれません。いずれにしろ、通報したのは事実であり、これが会津討伐の端緒となり、さらに関ヶ原の戦いに繋がるのです。慶長5年(1600年)4月、家康は景勝に上洛するように書を出すのですが、景勝はこれを拒否します。このとき直江兼続が家康に宛てた書が有名な直江状ですが、これを一読した家康は激怒して、会津出兵を決意したのです。会津討伐では堀秀治は村上義明・溝口秀勝の与力大名とともに、北国筋の大将前田利長に属し、越後から会津への入り口である津川口から会津攻撃をすることになっていました。しかし7月、家康軍が北上する途中で三成が上方で決起したため会津討伐は中止となり、秀治ら越後勢は在国して上杉に備えることになったのです。上杉氏は退却する家康の背後を突かず、北の最上領に侵攻しています。また越後は上杉の旧領でもあり、上杉を慕う農民も多く、上杉氏はそれらを煽動して一揆を起こさせています。秀治ら越後勢はその一揆を鎮圧して、戦後その功で所領を安堵されています。
ただし、近年では西軍側に通じていたとの疑いを持たせる書面も発見されていて、実は堀秀治はどちらに転んでも良いように考えていたと言えます。
関ヶ原戦後に秀治は謙信以来の春日山城を廃城とするため、平地の福島の地に新城の普請を開始しています。
鐘楼跡
鐘楼跡
しかし秀治は、竣工前の慶長11年(1606年)5月26日、30歳の若さで死去しています。秀治の死後に家督を継いだ堀忠俊の代に福島城が完成し、慶長12年(1607年)に忠俊は春日山城を廃城として福島城へ移っています。城下町建設にあたっては、春日山城下や府中から多くの町人が移住したと伝えられています。
さてこの春日山城は、現在では曲輪、土塁、空堀、井戸などの遺構が残るのみで建造物が現存していませんが、極めて攻略が困難な山城であるということは容易に想像できます。
本丸の西側には井戸曲輪があり井戸が現存していて、しかも今も水があるのはなかなかです。
さて天守があったのかどうか、気になる向きもあるでしょう。これについては正確なことは判らないのです。ただ、絵図にはよく石垣や天守が描かれているのですが、実際には石垣も瓦も全く発見されていないので、実際には石垣も天守もなかったのだと思われます。ただ、本丸の天守閣跡と言われている場所にはそれなりの建造物があったと推定されているので、天守とまではいかないとしても城のシンボルになるような建造物があったと考えてもおかしくはありません。
さてこの城を攻めるにはどうすればいいのかですが、春日山神社側からではかなり困難であると思われ、どちらかというと、南西側から攻めるべきでしょう。こちらの方面がやや手薄いと思われます。こちらが搦手口になるのですが、ここには柿崎屋敷があるのでここから攻めるときは柿崎景家と一戦交えることになりますので覚悟してください。春日山神社方面から千貫門を突破するのは激しい抵抗が予想されるし、かなり困難でしょう。
当城の造りはいかにも中世山城といった風で、石垣はなく土塁と空堀があるだけで特に真新しい構造の部分も見あたりませんが、城のあちこちに家臣の屋敷跡が残っているのはなかなかおもしろいところです。
例えば三の丸への入り口に甘粕近江守の屋敷跡があるのですが、たいへん狭い場所に屋敷跡があるので、やはり甘粕は小身だったのであろうと想像できますが、単なる小身者にしてはたいへん重要な場所に屋敷跡があるので謙信の信任を受けていたと想像できます。つまり親衛隊長だったということかな。確かに某漫画ではそんな描き方になっていましたが。
林泉寺惣門は春日山城搦手門を移築したものです
林泉寺惣門は春日山城搦手門を移築したものです
もうひとつ柿崎和泉守の屋敷跡はたいへん広い場所に残っているのですが、城の中心部からはかなり外れたところにあるので、ある意味では謙信に敬遠されていたのだろうと思われます。しかし屋敷の広さから大身の領主であったとは言えましょう。
もっとも、柿崎屋敷の位置は、城の搦手口に当る場所になるのですが、柿崎景家は勇猛果敢な武将でしたので、ここから侵入する敵に備えたものと見ることもできます。
また景虎と景勝の地位の違いが屋敷跡から想像できないかと考えてみましたが、けっこう微妙な場所に屋敷がありました。景虎の屋敷跡が三の丸にあったのに対して景勝の屋敷跡が独立した曲輪にあったのは、どう評価すれば良いのか難しいところです。これだとどちらが跡継ぎなのか難しいので御館の乱が起こるのも納得できるところです。
また直江兼続の屋敷跡はたいへん良い場所にあり、やはり景勝にたいへん信任されていたと考えるしかないでしょう。
なお、1974年(昭和49年)1月13日に本来の春日山城は、主城周辺に広範囲に配置された砦や土塁、堀などの遺構を含めて一体的に把握されるべきものとして、これらのうち、春日山から南東方向に突出する尾根先端部に構築された通称「東城砦(別名、春日砦)」部分が国の史跡に追加指定されています。ここは春日山城跡史跡広場として整備されていて、PR館として「ものがたり館」も併設されています。この広場には土塁及び監物堀の遺構もありますので、ここも併せて訪れると良いでしょう。
また2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(32番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。ものがたり館は、日本100名城のスタンプ設置所ともなっていますのでスタンプラリー参加者は必ずここを訪れましょう。
また春日山城跡史跡広場の近くには林泉寺があり、上杉謙信、堀氏、松平氏、榊原氏の墓所となっていて、宝物館もあり貴重な品や資料も収められています。また入口にある惣門は春日山城の搦手門が移築されたものとも言われていますが、本当かどうかはわかりません。

大井戸 井戸には水があります
大井戸 井戸には水があります
井戸曲輪跡 井戸曲輪から本丸跡への階段
井戸曲輪跡 井戸曲輪から本丸跡への階段
春日山城天守閣跡・・・って天守閣なんてあったのか 春日山城天守閣跡
春日山城天守閣跡・・・って天守閣なんてあったのか 春日山城天守閣跡
春日山城本丸跡 春日山城本丸跡碑
春日山城本丸跡 春日山城本丸跡碑
休憩所 春日山城本丸跡全景
休憩所 春日山城本丸跡全景
春日山城本丸から天守閣跡を見る 春日山城本丸から井戸曲輪を見る
春日山城本丸から天守閣跡を見る 春日山城本丸から井戸曲輪を見る
春日山城鐘楼跡 柿崎和泉守屋敷跡
春日山城鐘楼跡 柿崎和泉守屋敷跡
桑取道説明板 水溜場
桑取道説明板 水溜場
休憩所 春日山城護摩堂跡
休憩所 春日山城護摩堂跡
春日山城毘沙門堂跡 春日山城復元毘沙門堂
春日山城毘沙門堂跡 春日山城復元毘沙門堂
不識院跡 お花畑跡
不識院跡 お花畑跡
直江屋敷跡 ここに直江山城守の屋敷があったのか
直江屋敷跡 ここに直江山城守の屋敷があったのか
春日山城虎口 帯曲輪
春日山城虎口 帯曲輪
堀切、ここに橋が架かっていたとありましたが・・・ 上杉少弼入道屋敷跡
堀切、ここに橋が架かっていたとありましたが・・・ 上杉少弼入道屋敷跡
千貫門跡説明板 空堀説明板
千貫門跡説明板 空堀説明板
空堀 塹壕跡
空堀 塹壕跡
林泉寺の案内板 林泉寺惣門
林泉寺の案内板 林泉寺惣門
林泉寺山門 林泉寺釣鐘
林泉寺山門 林泉寺釣鐘
林泉寺本堂 林泉寺宝物館
林泉寺本堂 林泉寺宝物館
春日山城跡史跡広場 入口 春日山城跡史跡広場 監物堀
春日山城跡史跡広場 入口 春日山城跡史跡広場 監物堀
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 東城砦
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 東城砦
東城砦掘立柱建物 春日山城跡史跡広場 東城砦
東城砦掘立柱建物 春日山城跡史跡広場
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 土塁
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 土塁
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 ものがたり館
春日山城跡史跡広場 監物堀 春日山城跡史跡広場 ものがたり館
春日山城跡
住所 新潟県上越市中屋敷字春日山 形式 連郭式山城 (標高189m/比高150m)
遺構 曲輪、土塁、空堀、井戸、虎口、監物堀 築城者 上杉氏
再建造物 毘沙門堂、東城砦掘立柱建物 城主 上杉氏 長尾氏(上杉氏) 堀氏
駐車場 無料駐車場あり 築城年 南北朝期
文化財 国史跡 廃城年 慶長11年(1607年)
上越市埋蔵文化財センター
住所 新潟県上越市春日山町1丁目2-8
電話 025-521-6280 
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 火曜日、年末年始
入館料 無料
駐車場 無料駐車場あり
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国史跡 春日山城跡マップ
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