小松市指定史跡 小松城
小松城の概要
小松城天守台
小松城天守台
小松城は石川県小松城丸の内町にある平城です。
現在は、小松市指定史跡となっています。
この小松城は、天正4年(1576年)に加賀一向一揆方の土豪であった若林長門によって築かれています。
この前年には、隣国の越前では越前一向一揆が織田軍によって滅ぼされていて、加賀一向一揆も打撃を受けていましたし、越中国には上杉軍が侵攻してきて、神保氏、椎名氏が滅ぼされ、一向一揆勢も大打撃を受けるなど、加賀国は極めて緊迫した状況にあったと思われます。そのため小松城を築いて守ろうとしたのでしょう。しかし天正7年(1579年)には、織田信長の武将柴田勝家により攻められ、小松城は落城してしまい、、村上頼勝(義明)が城主として小松城に入りました。
天正8年(1580年)には尾山御坊が織田軍の佐久間盛政によって落城し、加賀一向一揆は壊滅してしまいます。
その後、織田信長が天正10年(1582年)に明智光秀によって討たれ、羽柴秀吉が光秀を討つことによって、秀吉が実権を握ることになりますが、村上氏はうまく立ち回って小松城を維持しています。
村上頼勝は、当初は丹羽長秀の家臣という立場で、丹羽長秀は柴田勝家と秀吉が対立したときにも秀吉に味方していて、賤ヶ岳の戦い以後にも領地を維持していました。
丹羽長秀が天正13年(1585年)に死去して長重が跡を継ぐと、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国、加賀国を没収されて、若狭一国15万石となっています。この際に村上頼勝は秀吉によって召し上げられ、豊臣氏の直臣となっています。
説明板には縄張り図がありました
説明板には縄張り図がありました
まあ、この一件は秀吉の言いがかりと考えられますが、村上頼勝にとっては逆に加賀国能美郡に6万5000石を与えられて、加増されることになります。
その後、頼勝は秀吉の命で堀秀政・堀秀治の与力大名となって、九州征伐、小田原の役に従軍しています。慶長3年(1598年)には秀吉の命を受けて、越後国の上杉景勝が奥州会津への移封に従って 越後国本庄(村上)9万石に加増移封されています。
入れ替わりに小松城には旧主の丹羽長重が城主となり、12万石で入城しています。
そして慶長5年(1600年)には、天下分け目の関ヶ原の合戦が起こり、この小松城周辺も戦場となります。北陸地方では、東軍についた大名は加賀金沢の前田利長くらいであり、他の大名はほとんど西軍方についています。ただし、前田氏の領地は北陸地方では最大勢力であり、その兵力も膨大なものでした。
小松城主丹羽長重も西軍方についていますが、金沢城に最も近い西軍方の城は小松城であり、同年7月26日に前田軍は2万5千もの大軍で小松城を包囲します。しかし小松城は、北陸随一の堅城と言われていて、郭は水堀によって幾重にも囲まれていて簡単には落とせそうもなく、利長は小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍方の山口宗永が守る大聖寺城に向かっています。
そして8月2日に前田軍は大聖寺城に対して包囲攻撃を開始したのでした。城を守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、8月3日には大聖寺城は陥落して、山口宗永・修弘親子は自害して果てています。
小松城井戸跡
小松城井戸跡
一方、西軍における北陸地方の首魁であり越前敦賀城主であった大谷吉継は、西軍首脳として主戦場に留まる必要があり上方から容易に動けなかったため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったのですが、8月3日に入ってようやく越前敦賀城に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こしています。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人しかなく、前田軍と直接戦うのは無理があったため、吉継は得意の謀略戦を開始します。まず吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている(真っ赤な嘘です)」、「西軍が伏見城を落とした(これは事実です)」、「西軍が上方を全て制圧した(半分は嘘です。伏見城は落としましたが、大津城、田辺城はまだ落とせずにいました)」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている(まあ、嘘とは言えませんが・・・)」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している(よくもこんな嘘を・・・)」など、虚虚実実の流言を流したのです。この流言に前田利長は動揺しました。嘘と事実を混ぜて情報を流したため、全部が事実と思いこんだのですね。さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせています。その文面は次の通りです。
「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」 つまり『前田軍が大軍を催して上方に向かっていると聞きましたが、これを知った大谷吉継が大坂から大軍を率いて敦賀に到着し、前田軍の留守を突いて、金沢へ海路で侵攻するつもりです。海と陸から挟撃されたらたいへんなことになるのでよく考慮してください』との文面に利長は金沢への撤退を決意します。
天守台の石垣は勾配が極めて急です
天守台の石垣は勾配が極めて急です
8月7日、利長は金沢への撤退を開始しますが、利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたので、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのです。
利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたのですが、やはり2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能でした。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って軍勢を率いて小松城から出撃しています。丹羽軍はまず前田軍の別働隊を蹴散らしてから、さらに前田軍主力を待ち伏せるべく行動を開始しました。
一方、利長は8月7日の夜半には、先発隊を御幸塚城(現小松市今江町)に入れ、自身は三道山城(現能美郡寺井町三道山)に陣を進めています。その御幸塚城の諸将は本体との合流ルートについて軍議をこらした結果、敵を避けて迂回するよりは加賀武士の本領を示すべく七隊(一説に六隊)の軍を編成し、小松城の丹羽領を突破して合流することに決しています。七隊の大将は先鋒から順に山崎長徳・高山右近・奥山栄明・富田直吉・今枝民部・太田長知、殿軍は長連竜(六隊説では殿軍が太田と長)という面々です。しかし錚々たるメンバーですね。この前田勢が御幸塚城を出陣、殿軍の長連竜隊が大領野を出て山代橋方面へ向かおうとしたとき、丹羽勢の伏兵である江口三郎左衛門正吉の一隊が長連竜隊に襲いかかったのです。しかも折り悪く天候は夜半からの雨が降り続き、鉄砲が使えない状況でした。
と言うことで、ここに両軍による白兵戦が展開されたのです。この時期としては珍しい戦いとなったわけですが、湿地帯の上に通路が狭いという悪条件では大軍であること自体が敗因になりかねない状況であり、前田方としては最悪の事態となったわけです。
天守台への階段はけっこう荒れています
天守台への階段はけっこう荒れています
ちょうど島津軍と龍造寺軍が戦った沖田畷の戦いでも同様に大軍であった龍造寺軍が破れて龍造寺隆信が討ち取られています。そういう場所は、たいていは湿地帯と通路が狭いという条件を兼ね備えているものです。
この小松城の周囲には泥沼や深田が広がっていました。さらにその中を、幾筋かの畷(縄手)が走っています。小松城の東方に浅井畷があり、長重はこの桑畑で前田軍を待ち伏せたのです。
いくら前田軍が大軍とはいえ、左右から襲われては苦戦は必至です。しかも畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない地形です。さらに小松城からの援軍が次々と到着し、前田方の長連竜隊は大苦戦となっています。ここで両軍とも自慢の勇将が激突し、丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門ら多数の将が討死し、前田方でも長家の九士小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が戦死しています。悪戦苦闘しながらも長連竜がなんとか兵をまとめて山代橋に差しかかった頃、急を聞いた前田方の先発隊と松平康定が救援に引き返して駆けつけて、追いすがる丹羽勢を追い返しています。このとき上阪又兵衛は丹羽勢を追撃しようとしたのですが、山崎長徳に止められ、戦いは勝敗は付かず双方痛み分けの格好で終結します。しかし戦後に、山崎長徳は利長から戦機を誤ったとしてひどく叱責されたと言われています。ですが、これはどうでしょうか。私見では山崎は戦機を誤ったとは言えないと思うのですが。既に丹羽軍は撤退を始めていますし、前田軍の目的は無事に金沢に帰還することのはずで、この時点では丹羽軍など放っておいても良いはずです。
天守台の上部は草木が生えています
天守台の上部は草木が生えています
仮に大谷軍が海陸の両方から攻め上ってくるとしたら、戦力を温存しないといけないわけですから、これ以上被害を出したら取り返しがつかなくなるかも知れません。例えば追撃した部隊が丹羽軍の伏兵に再度襲われるという事態も考える必要があるかに思えるのですが。
しかし利長の気持ちとしては、丹羽長重にしてやられたという認識が強く、武士としては少しでもやり返しておきたかったという意識があり、そのような叱責となったのかもしれません。
これも私見ですが、これら一連の戦いでは山崎長徳、長連龍の二人に対して厚く報いる必要があると思います。まあ、実際にも山崎長德は、この功で1万4000石を与えられていますので先の叱責はあくまでポーズだったのかも知れません。
8月13日、ようやく金沢に戻った利長はこの戦いの一番槍を松平康定とし、奮闘した将士に感状や刀剣・黄金を与えていますが、同日付けで家康から再出馬を請う書状が届いています。しかし利長は、弟利政の猛反対もあり出陣を躊躇していました。
そんなところへ9月8日付で家康から出陣催促状がもたらされています。これは関ヶ原で両軍主力が激突する見通しになったことから、西軍の側面を突いて欲しいとの考えから出撃を要請してきたものです。これによりついに利長は9月11日に出陣しています。ただし利政はあくまで出陣に反対し、利長に同行していません。前田軍が三道山まで軍を進めたときに丹羽長重から和を請う使者が到着しています。利長はこれを受諾し、人質の交換などを約して9月18日に小松城は開城しています。なお、石田三成らの西軍はこれより三日前の9月15日に関ヶ原の戦いで壊滅しています。
この「浅井畷の戦い」では、丹羽軍の善戦健闘が目を引く一方、前田軍は少々だらしなかったと言えます。数倍の大軍を持ちながら、少数の丹羽軍に翻弄されて大損害を出したことになり、前田利長の武将としての才覚にもやや疑問が持たれます。と、いじわるなことを言いましたが、山口宗永の大聖寺城を落としているので別にダメ武将ではありません。
石垣に使われている石は明らかに加工してあります
石垣に使われている石は明らかに加工してあります
丹羽長重は戦後に家康によって所領を没収されますが、3年後の慶長8年には常陸古渡一万石を与えられ、最終的には陸奥白河十万石余の城主となっています。これは丹羽長重が築城術の権威であったことが理由の一つに挙げられるでしょうが、浅井畷の戦いぶりも理由となるでしょう。
戦後、小松城は前田氏の持ち城となり城代は利長の義兄にあたる前田長種が充てられました。
元和元年(1615年)には一国一城令により小松城も一旦は廃城となりますが、寛永16年(1639年)には前田利常の隠居城として再築されることが認められ、石垣の構築、二の丸・三の丸の増築など大規模な改修が加えられています。
その後、万治元年(1658年)には前田利常が没していますが、小松城はそのまま明治まで城番が置かれ維持されています。
これはたいへん珍しいケースで、一国一城令の例外となります。このような例は、出羽秋田の佐竹氏が久保田城、大館城、横手城を保有していたケース、奥羽仙台の伊達氏が仙台城、白石城を保有していたケースくらいです。
もっとも前田氏は能登にも城を持ってもかまわないはずですが、小丸山城が廃城になったため城がありません。
前田氏は越中国には富山城を持っていて、合計で三城を保有していたことになります。大聖寺藩は大聖寺城が廃城になっていて陣屋を持っていましたので、ここには城がありません。
さて、小松城の縄張り図を見ると周りが水堀で幾重にも取り囲まれていて、とても力攻めで落とせる城ではなく、その城域も極めて広く、よくもこんな城を隠居城としたものだと思います。これでは城を落とすには完全に包囲して兵糧攻めにするくらいしか方法はなさそうです。かつて明智光秀が北陸では加賀の小松城が随一の堅城で要害の地だと言っていましたが、まさにその通りです。
現在の小松城の遺構としては、本丸、天守台、石垣、井戸が小松高校のそばに残っています。また移築門として小松市内の来正寺に二の丸鰻橋門(長屋門)が移築されて現存しています。 

小松城天守 天守台は土塁の上にあります
小松城入口 天守台は土塁の上にあります
天守台石垣はけっこうな高さを持っています 小松城説明板
天守台石垣はけっこうな高さを持っています 小松城説明板
学校長の名前があるということは 天守台の上から見た小松高校
学校長の名前があるということは 天守台の上から見た小松高校
小松城説明板 本丸堀石垣跡
小松城説明板 本丸堀石垣跡
この石垣はかつては水堀に面していた この地下に3.5mの石垣が眠っている
この石垣はかつては水堀に面していた この地下に3.5mの石垣が眠っている
ここの天守台は立派な石垣です 石垣の隅は大きな石を使っています
ここの天守台は立派な石垣です 石垣の隅は大きな石を使っています
天守台に上る階段があります 天守台の周囲は本丸となります
天守台に上る階段があります 天守台の周囲は本丸となります
天守台からみた小松高校グラウンド 天守台の上からみた階段
天守台からみた小松高校グラウンド 天守台の上からみた階段
天守台からみた本丸および小松市街 天守台の上はさほどの広さはないのです
天守台からみた本丸および小松市街 天守台の上はさほどの広さはないのです
天守台の石垣は垂直に近い勾配です 天守台の石垣の石の大きさはけっこうマチマチです
天守台の石垣は垂直に近い勾配です 天守台の石垣の石の大きさはけっこうマチマチです
天守台のそばに井戸があります 天守台の表示があります
天守台のそばに井戸があります 天守台の表示があります
芦城公園
住所 石川県小松城丸の内公園町19
電話 0761-24-8101(小松市緑花公園課)
開館時間 市立博物館・本陣記念美術館とも 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日(祝日に当たるときはその翌日)祝日の翌日、12月29目~1月3日
入館料 市立博物館・本陣記念美術館とも 一般・大学生 300円(団体250円) 高校生以下と満65才以上無料
市立博物館、本陣記念美術館共通入場券 500円(20名以上団体400円)
駐車場 無料駐車場あり
小松城跡
住所 石川県小松城丸の内町 形式 梯郭式平城  天守:御三階櫓(非現存)
遺構 郭・天守台・石垣・井戸跡 築城者 若林長門
施設 説明板   城主 若林長門 村上頼勝 丹羽長重 前田利常
駐車場 芦城公園に駐車場あり 築城年 天正4年(1576年)
文化財 小松市指定史跡  廃城年 明治5年(1872年)
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史跡 小松城跡マップ
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