史跡 小浦城跡
小浦城の概要
小浦城案内板
小浦城案内板
小浦城は、富山県氷見市小久米にある山城です。この小浦城は標高90.3mの小浦山にあります。
別名として池田城とも呼ばれていますが、むしろ池田城という名のほうが通っているかもしれません。ただ、立山町にも池田城があって間違いやすいのでここでは小浦城としておきます。
築城時期ははっきりしたことは不明ですが、三善朝宗が備後より地頭として赴任して築城と伝えられています。三善朝宗が越中国に赴任したのが応安年間(1368年~1374年)のことですので、築城時期もこの間と考えられますが、ここでは1368年頃に築城されたと考えておきましょう。
三善朝宗は、鎌倉幕府問注所執事三善康信の末裔で、桃井直常討伐による恩賞として地頭職を得たものと思われますが、実は異説もあり、越中国の射水臣氏出身の三善為康が三善氏を継いでいてその子孫であろうとの説もあります。
その後は、この三善氏の末裔である小浦氏が小浦城主となっていましたが、戦国期には小浦一守が城主となっています。
小浦一守は、永禄10年(1567年)、父光康の没後に家督を継いでいます。 天正4年(1576年)には、上杉謙信に臣従し、子内匠を人質として差し出しています。この年には神保氏、椎名氏が上杉氏によって滅ぼされていて、小浦氏は上杉氏に降伏してその命脈を保ったのでしょう。そして小浦氏は長沢光国の与力として働くことになっています。
池田城祉の碑
池田城祉の碑
長沢氏は、元々は能登畠山氏の配下でしたが、上杉氏の進出に従ってそれに従うようになっていて、海老瀬城や森寺城も維持していましたので、国人領主の中でも有力だったためでしょう。
天正6年3月(1578年)の謙信の死後は越中の上杉勢力が衰退することになり、小浦氏は織田方に靡き、父子で佐々成政に仕えるようになります。
天正13年(1585年)、佐々成政が豊臣秀吉に降りると小浦氏は小浦城を退去し、佐々成政とともに肥後国に移っています。
天正15年(1587年)の佐々成政の没後は、越後の堀秀政に仕えています。
ところが堀家改易後に、小浦一守も浪人となり、文禄二年能登国羽咋郡飯山に移住し、姓を松原と改め、斉安と号して隠棲しています。元和元年(1615年)に死亡しています。その子、松原内匠一二は慶長16年に加賀藩前田家に300石で仕え、大坂の役の際利常に従って青屋口で首一つを討ち取る功をあげ、1600石を知行しています。子孫は加賀藩士として存続しています。
さて、小浦城の廃城時期ですが、1585年に小浦氏が城を退去しているので、この時点を持って廃城となったと考えるのが妥当でしょう。
その後に当城を前田氏が使用したとは考えにくく、また現在の遺構を見ても前田氏が改修したという形跡も見当たらないので、やはりここでは廃城は1585年としておきましょう。
小浦城は、主郭の周りが切岸で囲まれ、さらにその周りも帯郭で囲まれていて、虎口も外枡形形式となっているので、織豊系城郭としての性格もありますが、佐々成政が改修したにしては、やや甘い作りですし、前田氏が手を入れたとも思えませんので、小浦氏が普請したのではないかと思うのですが、在地勢力の城としては、そこそこ見どころがあると言えます。
小久米小学校校歌の碑
小久米小学校校歌の碑
ただ、例えば近隣の城と比べると、海老瀬城は徹底した織豊系城郭の作りとなっていますし、森寺城は石垣を持つ城で郭も広いし、防御施設も充実しているのに比べると、土塁の類もあまり見当たらないし、防御力が低いとみることができるので、やはり織豊系武将の手が入っているとは評価できません。
この城の東側の虎口が大手とみられ、こちらは比較的厳重に防御が凝らされていますが、西側の虎口に切られている堀切が甘い作りなのはこちらが搦め手だということでしょう。井戸の類は1つしかないようですが、すでに埋没してしまっていて、あまり明確な跡がなかったのは残念でした。
小浦氏は、飯久保城も一時支配していたという説もありますが、これについては詳細は不明です。
近隣の飯久保城主の狩野氏も上杉謙信さらに佐々成政に臣従しているのは小浦氏と同様ですが、佐々成政が肥後国に転封になった時点で、狩野氏はなぜか肥後国には同行せず、浪人となっているようです。ただ、狩野氏の子孫は加賀前田家に仕えているのは同様です。この違いはどこに理由があるのか不思議ですが、成政が越中三郡を削られた際に、禄を離れたものと引き続き仕えたものがいたということでしょうか。
さてこの小浦城跡を実際に訪れてみると、東側の登城道は急勾配の上に曲がりくねり、途中には郭や竪堀や外枡形虎口があり、ここから攻め上るのはかなりの困難が予想されます。西側からの登城口は途中に堀切があるだけで、しかもこれが浅いので比較的防備が手薄いように思えるので、ここから攻める方が良いのではないかと思います。
小浦城主郭へはここから登ります 城跡への階段です
小浦城へはここから登ります 城跡への階段です
切岸と土塁に囲まれています 登城道はかなりの急勾配です
切岸と土塁に囲まれています 登城道はかなりの急勾配です
土塁と郭があります 防御拠点となる郭なのでしょう
土塁と郭があります 防御拠点となる郭なのでしょう
さらに主郭側に切岸がそびえたっています トイレがありました
さらに主郭側に切岸がそびえたっています トイレがありました
切岸はかなりの急こう配です 階段は遊歩道として良く整備されています
切岸はかなりの急こう配です 階段は遊歩道として良く整備されています
帯郭がありました 主郭の外側を帯郭が巡っています
帯郭がありました 主郭の外側を帯郭が巡っています
さらに上を目指します 虎口への通路が曲がりくねっています
帯郭の下にも帯郭がありますね 虎口への通路が曲がりくねっています
帯郭が周りを巡っています 天水草木昆虫の塔
帯郭が周りを巡っています 天水草木昆虫の塔
掲示板には天水草木昆虫の塔の記事が 外枡形虎口です
掲示板には天水草木昆虫の塔の記事が 外枡形虎口です
帯郭の中に物置小屋らしいものがあります 物置小屋なのでしょうが・・・
帯郭の中に物置小屋らしいものがあります 物置小屋なのでしょうが・・・
主郭の切岸はかなり急こう配です 主郭は25m×25m程度か
主郭の切岸はかなり急こう配です 主郭は25m×25m程度か
城の歴史についての説明 床鍋小学校と小久米小学校が統合したのですね
城の歴史についての説明 床鍋小学校と小久米小学校が統合したのですね
主郭の周りは全て切岸となっています どうやら湧き水があるようですが
主郭の周りは全て切岸となっています 三角点がありました
帯郭を進んでみます 帯郭の両側が切岸です
帯郭を進んでみます 帯郭の両側が切岸です
帯郭が主郭を完全に囲んでいます この上が主郭です
帯郭が主郭を完全に囲んでいます この上が主郭です
ここが二の郭となります さらに西側に進みます
ここが二の郭となります さらに西側に進みます
二の郭には井戸跡があります どうやらここが井戸跡か
二の郭には井戸跡があります どうやらここが井戸跡か
堀切があります 土橋状の通路です
堀切があります 土橋状の通路です
こちらは搦め手道です 搦め手道は曲がりくねった階段です
こちらは搦め手道です 搦め手道は曲がりくねった階段です
階段の底が堀切となっています 階段を降りきると広い郭がありました
階段の底が堀切となっています 階段を降りきると広い郭がありました
つまりここが虎口なのでしょうか 階段を降りきると・・・なんて急なのでしょう
つまりここが虎口なのでしょうか 再び戻ります
竪堀がありました 搦め手もかなりの急こう配なのです
竪堀がありました 搦め手もかなりの急こう配なのです
ここが堀切となっていて両側に竪堀があるのです 二の郭の向こうには主郭の切岸がそびえたちます
ここが堀切となっていて両側に竪堀があるのです 二の郭の向こうには主郭の切岸がそびえたちます
帯曲輪には何が建っていたのでしょうか 削平が甘いので大したものは建ってはいないでしょう
帯曲輪には何が建っていたのでしょうか 削平が甘いので大したものは建ってはいないでしょう
切岸が目立つ城ですね 切岸のこう配はかなりのものです
切岸が目立つ城ですね 切岸のこう配はかなりのものです
主郭への虎口がこことなります 虎口の防備がいまいちか
主郭への虎口がこことなります 虎口の防備がいまいちか
この城では最も大規模な竪堀です 竪堀はかなり深いのです
この城では最も大規模な竪堀です 竪堀はかなり深いのです
小浦城跡
住所 富山県氷見市小久米 形式 連郭式山城 (標高90m/比高70m)       
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀、外枡形虎口 築城者 三善朝宗  
施設 案内板、駐車場 城主 三善氏、小浦氏
駐車場 無料 築城年 応安年間(1368年~1374年)
文化財 なし 廃城年 天正13年(1585年)8月以降
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