国宝 松本城
松本城の概要
大天守(右)と乾小天守(左)
大天守(右)と乾小天守(左)
松本城は、長野県松本市丸の内にある城で、国の史跡に指定されています。以前は深志城と呼ばれていました。別名烏城(からすじょう)とも呼ばれています。
現存12天守の一つで、天守群は国宝に指定されていて、国宝4天守の一つです。
この松本城は典型的な平城で本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されています。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、更にそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りとなっています。
これらは全て水堀により隔てられています。
天守は5重6階となっていて、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓、月見櫓を複合した複合連結式天守となっています。大天守は、初重に袴形の石落しを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けています。
外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られていて、外観上の特徴となっています。乾小天守も同様であるが、最上階に華頭窓が開けられています。解体修理の時、いくつかの改築の痕跡が見つかっていることなどから、石川氏が天守を建築した時は望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、各重の屋根には多くの破風を取り付けていたと推定されていて、付櫓・月見櫓を増築した松平氏によって現在のような層塔型のように造りかえられたと考えられています。
松本城月見櫓と辰巳附櫓
松本城月見櫓と辰巳附櫓
この松本城は、1504年(永正元年)に、松本平の信濃府中を根拠地としていた信濃守護家小笠原長棟が本城である林城の支城の一つとして深志城を築城したのが始まりといわれています。後に甲斐の武田信玄の侵攻を受け小笠原長時は林城から逃亡し、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下においています。深志城代には武田四名臣の一人、馬場民部少輔信房が入っていることからみても武田氏としてはこの深志城が交通の要衝にあり信濃の重要拠点であるという認識を持っていたと考えられます。実際にも小笠原氏討伐、村上氏討伐、川中島の戦いなど北信濃の一連の戦いではこの深志城が兵站基地となっているのです。武田氏が健在な頃は、この深志城が攻められるという事態はまったくなかったのですが、1582年(天正10年)の武田征伐の際には織田軍の攻撃を受けて落城しています。
武田氏滅亡後、深志城は木曽義昌の領地となっていましたが、同年6月2日の本能寺の変により織田信長が横死すると、上杉氏・徳川氏・北条氏による信濃争奪戦が勃発しています。上杉景勝は小笠原長時の弟・貞種を支援して、小笠原氏の旧臣を蜂起させて木曽義昌を深志城から追い払っていますが、同年7月16日には徳川家康の支援を受けた甥の小笠原貞慶が深志城を攻撃し、小笠原貞種は越後に撤退しています。
小笠原貞慶は筑摩・安曇などの旧領を回復して、深志城を今の「松本城」と改名し、城下町の整備などを行っています。
1583年(天正11年)松本城主となった小笠原貞慶は嫡子秀政を家康へ人質として差し出し、徳川氏麾下に入るようになっていま
松本城黒門
松本城黒門
す。さらに、小笠原旧臣や諸寺社に対して所領の安堵や寄進などを行って領内の人心収攬に努め、敵対的行動をとる日岐・会田および同族の赤沢氏らの地域領主層に対しては武力討伐を行うなどして、安曇・筑摩両郡内を平定しています。
こうして小笠原貞慶は、家康との麾下的関係を強固にして、領域支配権の確立を押し進めています。
しかし、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉との間の対立関係が高まり、ついに天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦が起こったとき、貞慶は家康に応じて秀吉方の上杉氏が抑える青柳・麻績の両城と木曾氏の拠る福島城を攻撃しています。つまり完全に徳川方として戦っていたわけです。小牧・長久手の戦いの後、織田・徳川方と秀吉との和睦が成立して、秀吉としては完全に屈服させることはできなかったにしろ、織田氏・徳川氏らを押さえることには成功したことになります。
ところが、家康の重臣石川数正が、1585年(天正13年)11月13日、突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡するという大事件が発生しています。この際に数正は家康の人質となっていた貞慶の子秀政を拉致して連れ去っています。小笠原貞慶はこれを機会に家康を離反して秀吉と盟約するという挙に出ています。さらに家康方である保科正直の伊那高遠城を攻撃して完全に家康への敵対行動を行っています。
つまり貞慶は、天下統一を目前にしている秀吉に服属して、小笠原氏の安泰を計ろうとしたわけですね。逆に言えば家康を見限ったということになりますが、しかし今までさんざん家康の世話になって旧領を回復していながら、それを裏切るという挙に出る輩を信用する者がいるでしょうか。
1586年(天正14年)、対立していた秀吉と家康が和睦しています。秀吉は家康に関東の差配を任せ、さらに信濃の小笠原・木曾氏を家康の麾下に帰属させることとしています。つまり貞慶のもくろみは見事に裏目に出たのでした。
松本城太鼓門
松本城太鼓門
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川氏は北条氏の旧領である関東へ移封され、松本城主小笠原秀政は下総国古河へと移っています。代わりに石川数正が松本城に入城しています。しかしこれは皮肉な結果となったわけです。あの出奔事件の張本人である石川数正が自分が連れ出した小笠原秀政の後に城主となっているわけですから。
さらに小笠原貞慶はどうなったのかというと、小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から讃岐半国を与えられています。しかし、かつて秀吉の怒りに触れて追放された尾藤知宣を保護したことが原因で、秀吉の怒りを買って改易されたため家康に従って古河へ移っています。尾藤知宣は戸次川の戦いで失脚した仙石秀久の後釜として軍監に就いた秀吉家臣ですが、仙石秀久とは逆にあまりに慎重すぎたため秀吉の怒りを買って追放されていたのです。尾藤知宣は天正18年(1590年)7月、小田原を平定した秀吉の前に剃髪して現れ、寛恕を請うたが容れられず、下野那須で惨殺されたといわれています。しかし秀吉も大人気ないというか何というか・・・。
石川数正とその子康長は、松本城の天守、城郭、城下町の整備を行っています。これにより現在も見られる天守が完成したことになります。1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦には、石川康長は東軍として家康方についたので、石川氏は外様大名としてそのまま松本を治めることができたのですが、1613年(慶長18年)の大久保長安事件に連座して石川康長と康勝、康次の兄弟は全員改易となっています。これはあの石川数正出奔事件がたたっていると考えられます。
二の丸御金蔵
二の丸御金蔵
石川氏に代わって、旧城主の小笠原秀政が飯田から8万石で再び入封しています。
1615年(慶長20年)、大坂夏の陣では徳川方として参陣しています。しかし天王寺口の戦いで大坂方の毛利勝永の猛攻を受けて長男の忠脩は戦死してしまい、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱しましたが、間もなく戦傷により死去したとされています。享年47。小笠原秀政の跡は、次男の小笠原忠真が継いでいますが、1617年(元和3年)には播磨明石10万石へ加増転封になり、松平康長が信濃国松本藩7万石で入封しています。
松平康長は、戸田宗家の嫡流であり、徳川家とも縁戚関係にあります。寛永9年(1632年)には康長が没したため三男の庸直が跡を継いで松本藩主に就任しています。1633年(寛永10年)には播磨国明石藩7万石へ転封となっています。
しかし松本の次は明石というのが流行っているのかな。
同時に結城秀康の三男松平直政が信濃松本7万石へ加増移封となっています。翌年には、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行っています。これは3代将軍家光が善光寺参詣のため松本城に立ち寄ることになったために増築したのですが中山道の崖崩れにより参詣は中止されていてガックリです。
松平直政は1638年(寛永15年)には出雲松江18万6,000石(及び隠岐1万4,000石を代理統治)へと加増移封されています。
入れ替わりに老中の堀田正盛が信濃国松本藩10万石で転封されています。堀田正盛は将軍家光の寵愛を一身に受けて異常に早い立身出世を遂げていますが、どうしてでしょうか。
松本城内堀
松本城内堀
水野忠清が1642年(寛永19年)に信濃松本7万石に加増移封され、堀田正盛は下総国佐倉藩11万石へ加増転封されています。
水野家がしばらく松本を治めることになったのですが、第3代藩主の水野忠直の時代に事件が発生します。
1686年(貞享3年)に忠清が年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行い、隣の諏訪藩・高遠藩との差が大きく生じることになったため(これらの藩では2斗5升であった)、これに反発した中萱村の多田加助を主導者とする百姓一揆・貞享騒動が起きています。著しい増税に安曇郡長尾組(現在の長野県安曇野市三郷・堀金地域)中萱村の元名主である多田加助(嘉助)を中心とした同志14名は、ひそかに中萱の熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練り、松本の郡奉行所へ行って郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める訴状を10月14日に提出することにしました。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城大手門前へ押し寄せる騒ぎとなっています。
当時の藩主水野忠直は、参勤交代のため不在だったため、事態を重く見た城代家老は早々に騒動を収拾するべく、10月18日に多田加助ら百姓側の要求をのむとして引き取らせた。
事実、翌19日の夜組手代らに年貢減免するとの回答書を手渡しています。一方、城代家老らは江戸表の藩主に早馬で注進し、藩主の裁可を得た上で年貢減免の約束を反故にして、翌月関係者の捕縛に臨んでいます。最終的には11月22日、多田加助とその一族、同志ら28人は藩の勢高刑場・出川刑場で磔、獄門などの極刑に処されています。獄門により処刑された人の中に加助の参謀格であった小穴善兵衛(磔刑に処さる)の娘おしゅんという16歳の少女が含まれているが、このように女性を処刑するのは当時としても極めて異例です。善兵衛の妻が宿していた男子まで獄門に処するようにするなど(結局男子が病死したため獄門には処せられていない)、徹底した処罰を行っています。
二の丸御金蔵
二の丸御殿跡
ただし騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったのですが、3斗5升への引き上げは断念しています。まあ、これで引き上げを強行すると大規模な一揆が発生して、江戸幕府も看過できない事態になるからでしょう。しかしそれならこのような過酷な処分もしなくて良かったと思うのですが。
次の水野忠周も悪政により藩財政を悪化させています。
水野忠恒の代になり、また事件が発生します。1725年(享保10年)、大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、その祝言を行なった翌日の7月28日、8代将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため江戸城に登城して報告を済ませています。その後、松の廊下ですれ違った長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こしてしまうという事件が起こったのです。
忠恒は普段から不行跡が多く家臣に人気がないので、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけたと供述していますが、もちろん実際にはそのような事実は無く、忠恒は乱心したとされています。そもそも自分の不行跡から直して欲しいと思うのは私だけではないでしょう。この事件により水野忠恒は改易となり、川越藩に預けられた後、叔父の水野忠穀の江戸浜町の屋敷に蟄居し、そこで没しています。これは本来なら切腹でもおかしくないのですが、乱心したということで罪一等を減じられたということになります。
水野忠恒の改易により松平光慈が1725年(享保10年)10月18日に鳥羽藩から信州松本藩へ移封となっています。
本丸御殿跡
本丸御殿跡
この松平光慈は、戸田松平家の嫡流ですので、戸田宗家が久しぶりに松本に入ったことになります。
ところが1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失してしまい、以後の藩政は二の丸で執務をとるようになっています。
本丸御殿を再建しなかったのは、戸田松平家の財政が既に逼迫していたからです。
この後、明治維新まで戸田松平家が代々松本藩主となっています。
明治維新後、1872年(明治5年)には天守が競売にかけられて、解体されそうになりますが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れています。明治30年代ころより天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学校長小林有也らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年))まで「明治の大修理」がおこなわれています。天守が傾いた原因は、この地の地盤が悪いために基礎部分に埋め込まれた支持柱が老朽化したためでした。
1930年(昭和5年)には国の史跡に指定されています。1936年(昭和11年)4月20日には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定され(現在の重要文化財に相当します)、1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて国宝に指定されています。
1950年(昭和25年)より1955年(昭和30年)まで解体復元工事「昭和の大修理」が行われています。
2000年(平成12年)には松本城周辺市街化区域が都市景観100選に選ばれています。
2006年(平成18年)4月6日には日本100名城(29番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。現在、埋立てにより住宅地とされた外堀の復元が検討されているとのことですが・・・。
松本城大天守 松本城天守群(右:乾小天守 左:辰巳附櫓・月見櫓)
松本城大天守 松本城天守群(右:乾小天守 左:辰巳附櫓・月見櫓)
松本城天守群(右:大天守 左:乾小天守) 松本城天守群(右:辰巳附櫓・月見櫓 左:大天守)
松本城天守群(右:大天守 左:乾小天守) 松本城天守群(右:辰巳附櫓・月見櫓 左:大天守)
松本城黒門(表門) 松本城黒門(表門の裏側)
松本城黒門(表門) 松本城黒門(表門の裏側)
松本城黒門(櫓門) 松本城黒門(枡形内部の石垣)
松本城黒門(櫓門) 松本城黒門(枡形内部の石垣)
松本城天守内部 水切り 松本城天守一階 階段
松本城天守内部 水切り 松本城天守一階 階段
松本城天守一階 武者走 松本城天守内部 石落
松本城天守一階 武者走 松本城天守内部 石落
松本城天守四階 御座の間 松本城天守五階
松本城天守四階 御座の間 松本城天守五階
松本城天守六階 松本城天守から本丸御殿跡を望む
松本城天守六階 松本城天守から本丸御殿跡を望む
松本城天守から松本市街を望む 松本城天守内部 千鳥破風窓
松本城天守から松本市街を望む 松本城天守内部 千鳥破風窓
松本城二の丸御殿跡 松本城二の丸御殿跡説明板
松本城二の丸御殿跡 松本城二の丸御殿跡説明板
松本城太鼓門(高麗門) 松本城太鼓門(櫓門枡形)
松本城太鼓門(高麗門) 松本城太鼓門(櫓門枡形)
松本城外堀 松本城二の丸土塁と外堀
松本城外堀(東側) 松本城二の丸土塁と外堀
松本城内堀(西側) 松本城内堀(南側)
松本城内堀(西側) 松本城内堀(南側)
松本城内堀に架かる埋の橋 松本城内堀(南東側)
松本城内堀に架かる埋の橋 松本城内堀(南東側)
松本城内堀に架かる埋の橋 松本城天守を南西から見る
松本城内堀に架かる埋の橋 松本城天守を南西から見る
松本城黒門 松本城天守を南東側から見る
松本城黒門 松本城天守を南東側から見る
松本城黒門高麗門を外部から見る 松本城黒門高麗門を内部から見る
松本城黒門高麗門を外部から見る 松本城黒門高麗門を内部から見る
松本城黒門櫓門を外部から見る 松本城黒門櫓門を内部から見る
松本城黒門櫓門を外部から見る 松本城黒門櫓門を内部から見る
松本城水門跡 松本城月見櫓と辰巳附櫓
松本城水門跡 松本城月見櫓と辰巳附櫓
松本城搦手門跡 二の丸にある松本市立博物館
松本城搦手門跡 二の丸にある松本市立博物館
松本城本丸黒門付近 内堀
松本城本丸黒門付近 内堀
松本城黒門櫓 松本城太鼓門櫓門
松本城黒門櫓 松本城太鼓門櫓門
松本城二の丸御殿式台跡 松本城太鼓門櫓門
松本城二の丸御殿式台跡 松本城二の丸御殿内玄関跡
松本城二の丸北門橋 松本城二の丸丑寅櫓跡
松本城二の丸北門橋 松本城二の丸丑寅櫓跡
松本城二の丸北門橋 松本城二の丸北門跡
松本城二の丸御殿番所跡と土蔵 松本城二の丸北門跡
松本城二の丸北門橋 松本城二の丸土蔵
松本城二の丸北側の内堀 松本城二の丸土蔵
松本城二の丸御殿井戸跡 松本城二の丸からみた天守
松本城二の丸御殿井戸跡 松本城二の丸からみた天守
松本城太鼓門櫓門 松本城太鼓門高麗門
松本城太鼓門櫓門 松本城太鼓門高麗門
松本城太鼓門内部の桝形 松本城太鼓門高麗門を外部から見る
松本城太鼓門内部の桝形 松本城太鼓門高麗門を外部から見る
所在地 その他
住所 長野県松本市丸の内4-1
電話 0263-32-2902(松本城管理事務所)
開館時間 8:30~17:00(入場は16:30まで)
ゴールデンウィーク、夏季期間は閉城時間を1時間延長します。
休館日 12/29~1/3
観覧料 個人 大人 600円 小中学生 300円
団体 20人以上99人まで   大人 540円 小中学生 270円
    100人以上299人まで 大人 480円 小中学生 240円
    300人以上        大人 420円 小中学生 210円

※松本市立博物館と共通入場券
駐車場 市営松本城大手門駐車場 30分毎150円
市営開智駐車場 1時間200円以降30分毎100円
松本城
住所 長野県松本市丸の内 形式 梯郭式+輪郭式平城 天守:複合連結式層塔型5重6階
遺構 現存天守 石垣 土塁 堀 二の丸土蔵 築城者 小笠原長棟 石川数正・康長
再建造物 黒門 太鼓門  城主 小笠原氏 石川氏 松平氏 堀田氏 水野氏 戸田氏
駐車場 有料駐車場あり 築城年 永正元年(1504年)
文化財 国宝(現存天守) 国史跡 廃城年 明治4年(1871年)
 スライドショー
スライドショーの使い方

 3つのボタンで画像を移動できます。
 
 最初・・・最初の画面に戻ります。

 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。

 次へ・・・次の画像に移動します。
 
 拡大・・・拡大画像を表示します。
               
国宝 松本城マップ
電子国土ポータルへのリンクです