魚津市指定史跡 水尾城跡
水尾城の概要
水尾城への入り口
水尾城への入り口
水尾城は、富山県魚津市鹿熊にある山城です。別名、升形山城とも呼ばれています。現在は、魚津市指定史跡になっています。
築城時期についてはイマイチ明確ではありませんが、貞和2年(1346年)に、能登の吉見氏が前越中守護井上俊清を攻め、水尾城で井上勢を破り水尾城を陥落させたと記録に残っているので、既に南北朝時代には城が築かれていたことになります。
南北朝時代(1336年~1392年)には、井上(普門)俊清や桃井直常の拠点となっていたと考えられます。
延文4年(1359年)10月には井上俊清は、吉見勢により越後境に追われていて、以後の消息は不明となっています。
応安2年(1369年)には桃井対吉見の戦いが越中各地であり、この松倉城周辺でも戦いが起こっています。
戦国期にはいると、松倉城周辺は、椎名氏の支配下にあり、支城群を構築していましたが、永正17年(1520年)には越後守護代長尾為景が新川郡に侵入し、椎名氏の軍勢を破っています。神保・椎名氏らの越中勢と越後勢は新庄城で決戦を交えていますが、越中勢は破れ、神保慶宗らは敗死しています。
その後、椎名氏は長尾氏(上杉氏)の傘下に入りますが、永禄11年(1568年)に椎名氏が上杉氏を裏切り武田氏に付くことで
永禄11年から12年(1568~69年)にかけて上杉謙信が松倉城の椎名氏を攻めています。椎名康胤は、永禄13年(1570年)にはとうとう松倉城を追われています。この際に水尾城も上杉氏の手に落ちたと思われます。
水尾城二の郭
水尾城二の郭
この後は、上杉氏の手で城が改修されたと思われますが、やがて天正10年(1582年)には織田軍が魚津城、松倉城を攻めていて、最終的には、上杉氏が越中を追われていて、松倉城周辺は佐々成政の手に落ちています。
なお廃城時期は不明ですが、佐々成政が越中を去った後は、越中一国が前田氏の所領となっているので、水尾城の戦略的価値もほぼなくなっていて、ほどなく廃城となってのではないかと推測されます。
現在では城跡まで林道が伸びていますので、自動車でも訪れることが充分可能ですが、道路自体はやや足元が悪いので、あまり高級な自動車では訪れない方がいいかも。しかし難易度はさほどではないです。
水尾城は、細長い尾根上に直列に並んだ4つの郭を持ち、すべての郭が掘切で仕切られています。さらに土塁と石垣も残っています。堀切には架け橋が架かっていますが、1ヶ所だけ橋がないのはどうしてか。
遺構は、現在でも充分残っていて見所は充分にありますが、郭内で木を切った後、そのままになっているので歩きにくいのが難点です。堀切の一つに橋がないのも問題です。
写真で見てもあちこちに木が倒れているのがわかりますね。ただし、藪がないのが救いです。もう少し整備されれば、いい名所になるのではないかと思いますので、今後に期待が持てます。さて、この城の防御力ですが、そもそもここまでたどり着くのがたいへんですが、郭が縦に並んでいることと枡形虎口のような高度な技術が見られない城なので本格的に攻められたらすぐに落城してしまいそうな城です。

郭を仕切る堀切の上に架かる橋 土塁と堀切
郭を仕切る堀切の上に架かる橋 土塁と堀切
堀切 郭の外側にある土塁
堀切 郭の外側にある土塁
4の郭と3の郭の間の堀切には橋がありません 土塁
4の郭と3の郭の間の堀切には橋がありません 土塁
郭はすべて堀切で仕切られています 郭はすべて尾根伝いに直列に並んでいます
郭はすべて堀切で仕切られています 郭はすべて尾根伝いに直列に並んでいます
尾根にある郭は幅が狭いのです 城の入り口にある説明板
尾根にある郭は幅が狭いのです 城の入り口にある説明板
水尾城跡
住所 富山県魚津市鹿熊 形式 連郭式山城 (標高303m/比高150m)
遺構 郭 土塁 石塁 堀切  築城者 井上俊清
施設 案内板 城主 井上俊清 桃井直常 椎名氏 上杉氏
駐車場 わずかに駐車スペースあり 築城年 南北朝期
文化財 魚津市指定史跡 廃城年 不明
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