史跡 宗守城跡
宗守城の概要
宗守城全景
宗守城全景
宗守城は、富山県南砺市(旧・福光町)宗守にある中世居館(平城)です。
戦国時代初期の永正年間(1504-21)に越後国の関東管領上杉顕定が砺波地方を攻略し、弟で越後守護であった九郎房能の家臣であった小林亮岐守がこの地に宗守城を築いて、山田郷を治めていたと伝えられています。しかし小林亮岐守は、永正4年(1507年)8月7日に房能が越後国守護代長尾為景に攻められ天水越の合戦で敗死したため、越後に帰国し、宗守城は放棄され廃城となったようです。
これは永正の乱と呼ばれる越後国の内乱ですが、越後国守護代長尾為景が越後守護上杉氏を打倒する結果になっています。
長尾為景が上杉房能を敵視して滅ぼしたのは、越中国で父能景が神保慶宗らに討たれたときに房能が能景を見殺しにしたということが原因となっているようです。
弟を討たれた関東管領上杉顕定は越後国へ攻め入り、長尾為景を撃破したものの、越後の統治に失敗して国人たちの反感を買い、長尾為景らの反撃を受けて、長森原の戦いで討ち取られてしまい、関東管領上杉氏は衰退することになります。
しかし神保慶宗が一向一揆に通じて長尾能景を滅ぼしたことが後々にも影響していることになります。
その後、藤井嘉兵衛がここに拠り、上杉謙信に攻められ戦死したともいわれています。
現在ある土塁は当時のものと伝えられ、本丸跡を示すものとのことです。
土塁の周囲には当時は空堀があったと思われます。もっとも現在では空堀跡は判然としません。
また現在の土塁跡だけが郭だとすると、小規模な城館ということになりますが、この外側にも郭があったのかどうかは判然としません。この周りはすっかり開墾されて水田になっています。
土塁はかなり高いものではっきりと遺構が残っていて見ごたえのある遺構です。
現在の郭跡には神明社があります。
宗守城説明板 宗守城跡に建つ神明社
宗守城説明板 宗守城跡に建つ神明社
宗守城本丸を囲む土塁 宗守城跡を示す石碑
宗守城本丸を囲む土塁 宗守城跡を示す石碑
神明社本殿 土塁はかなり高いものです
神明社本殿 土塁はかなり高いものです
南側から見た宗守城全景 城の正面の土塁
南側から見た宗守城全景 城の正面の土塁
宗守城跡
住所 富山県南砺市宗守 形式 平城
遺構 郭 土塁 空堀 築城者 小林壱岐守則行
施設 石碑 案内板 神明社 城主 小林壱岐守則行 
駐車場 特になし 築城年 永正年間(1504年)頃
文化財 なし 廃城年 永正4年(1507年)8月7日以降
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