国史跡 七尾城跡
七尾城跡の概要
七尾城本丸跡に立つ石碑
七尾城本丸跡に立つ石碑
七尾城は、石川県七尾市古城町にある中世の山城跡です。
別名、松尾城とも末尾城とも呼ばれています。
日本五大山城の一つとされます。
昭和9年に国史跡に指定されています。
この七尾城は、七尾湾が一望できる石動山系の北端にある標高313mの城山にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した巨大かつ堅固な山城で難攻不落の名城といえます。
「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来した名です。別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残っていますが、これは城が七つの尾根のうち松尾に築かれたためです。
城の遺構としてはかなり大規模な石垣が残されています。中世山城としては、最大規模ではないでしょうか。石垣はほとんど北面に積まれています。ただし、一つ一つの石垣はあまり高くなく、2m程度の低い石垣を数段に積み上げる方式を取っています。つまり当時はまだ高い石垣を積む技術が開発されていなかったということでしょう。また使用されている石材も大型の石材は少なく、自然石を使用した野面積みが大部分です。
城域は本丸・二の丸・三の丸・西の丸・調度丸・遊佐屋敷・温井屋敷・寺屋敷・桜の馬場などと呼ばれる曲輪群が、山麓に延びた低い尾根の先まで広がっており、本丸から三の丸の間が主要曲輪で、主要部の重要な箇所には全て石垣が積まれています。また本丸や二の丸には土塁もあり、あちこちに空堀も残っていて、ほとんど当時のままで城跡が保存されているのは、はっきり言って感動ものです。ここは山城で開発などで遺構が破壊されることもなく、そのまま残っているのでしょう。
数段にもなる石垣群は他では見られない特徴です
数段にもなる石垣群は他では見られない特徴です
いずれにしてもこれだけ石垣を多用する山城はたいへん珍しく、まるで織豊系城郭のような城ですが、これらの石垣が積まれたのは1540年以前からと思われるので、畠山氏にはかなり早い時期から石垣を積む技術があったことになります。ただし、この城には天守はなかったと考えられています。天守台のようなものは見あたらなかったですが、本丸の南側が一段高くなっていてここに城山神社がありましたが、その気になればここが天守台として使えるかもしれません。
本丸の周りには遊佐屋敷、西の丸、調度丸があり、長屋敷が独立した曲輪となっていて、温井屋敷、二ノ丸が桜馬場と隣接していて、三ノ丸、寺屋敷は独立した曲輪となっています。織豊系城郭のような求心的な縄張りとはなっていませんが、各曲輪が連郭式に並んでいて堀切で仕切られた単純な中世山城とも異なり、うまく各曲輪が連携できるように連絡路があって複雑な縄張りとなっていて、なかなか力攻めでは落とせそうもない堅固な城です。
強いていえば、長屋敷が独立していて孤立しやすいことと、三ノ丸も二ノ丸とは深い堀切に隔てられていてここも孤立しやすいと言えましょう。しかし本丸にたどり着くには温井屋敷や二ノ丸、また遊佐屋敷や西の丸など相互に連携できる曲輪に守られていて、中心部を落すのは容易ではないでしょう。ただ、城の各所に重臣たちの屋敷があり、独立性の高い曲輪もあるのは、畠山氏内部の権力争いが原因となっていると思われ、強大な重臣たちに翻弄された畠山氏の末路を暗示しているとも言えます。
この七尾城は、能登畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428 - 1429年)頃に築かれたと考えられています。ただし当時の七尾城は砦程度の規模であったと考えられていて、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていました。しかし七尾城は次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって能登畠山氏の領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されています。
第7代当主となった畠山義総は名君と謳われ、七尾城の城下町である七尾は都から貴族も転居してくるなど小京都と呼ばれるほどに栄え、能登畠山家もまた大いに繁栄しています。
その後、畠山義続・畠山義綱の頃になると統制が乱れ、また戦乱が続いたために七尾城もさらに増築され、最大の縄張りとなった
七尾城調度丸跡
七尾城調度丸跡
と言われています。城山山麓には城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っていて、この頃になると日本五大山城のひとつに数えられるほどの要害堅固な山城となっていました。
畠山義続は、天文14年(1545年)に父の義総の死去にともない家督を継いで第8代当主となっています。しかし、義続の頃には家臣団による権力争いが頻発するようになり統制が乱れています。本来、能登畠山氏は地元密着型の守護で能登に在国していたため、越中のように守護代に取って代わられるという下克上が起こっていなかったのに、なぜ統制が乱れてきたのか。要するに、畠山七人衆と呼ばれる重臣たちの実力が増大してきたということになるのでしょう。
天文16年(1547年)には加賀に追放されていた叔父の畠山駿河が一向一揆の助力を得て能登に攻め込んでくるという事件が発生しています。これは押水の合戦と呼ばれていますが、この戦いでは畠山義続軍が畠山駿河を討ち取って勝利しています。
また天文19年(1550年)には重臣の遊佐続光と温井総貞の権力争いのため七尾城が一部焼失するなど、義続は家臣団をうまく統率することができなかったようです。この結果、大名権力が失墜し、重臣達は大名権力を傀儡化する畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織を作り、実権を握っています。天文20年(1551年)に義続はこれら一連の騒乱の責任を取る形で、家督を嫡男の畠山義綱に譲って隠居し、以後は義綱の後見人を務めることとしました。畠山七人衆の一人である遊佐続光は、天文22年(1553年)には、同じく七人衆の温井総貞と畠山家中の主導権をめぐって争い、大槻一宮合戦で敗れて加賀に逃亡しています。要するに畠山七人衆の中でも権力争いが起こって遊佐続光が蹴落とされたことになります。
遊佐屋敷跡が最も本丸に近い
遊佐屋敷跡が最も本丸に近い
畠山義綱・義続は、大名権力の回復を目指して、弘治元年(1555年)に畠山七人衆の筆頭で実権を握る温井総貞を他の重臣と協力して誅殺しています。遊佐続光はこの一件により復権して帰参していますが、これが実は良くなかったようです。
さらに温井総貞を暗殺したことにより、弘治の内乱が発生することになり、弘治元年(1555年)から永禄3年(1560年)頃まで合戦が続いています。温井氏、およびと温井氏と縁が深い三宅氏が、総貞の暗殺により弘治元年(1555年)に義綱に対して挙兵したのです。
温井氏らは、畠山一族の畠山晴俊を当主として擁立し、加賀の一向一揆を頼りとして合戦を始めています。
しかし、勃発序盤から反乱軍は劣勢であり、1555年から1558年春にかけての戦闘で、反乱軍の主軸となっていた大将の畠山晴俊以下、温井続宗、神保総誠、三宅総広らが戦死するほか、三宅一族の三宅綱賢が義綱方に転じるなど、反乱軍は甚大な被害を被り、一旦加賀へ退去しています。
1558年7月には、残党の温井綱貞らが再び能登へ侵攻し、更に9月には義綱軍の山田左近助が温井方へ寝返るが、綱貞・三宅俊景の戦死により、反乱軍は撤退を余儀なくされています。
反乱軍は1559年3月には一向一揆を率いて再び攻め込むが長続連により撃退され、反乱軍は押水まで後退しています。永禄3年(1560年)頃になると温井残党は能登から一掃され、ほぼ義綱方の勝利で内乱は終息を迎えています。生き残った温井孝景、三宅慶甫、三宅綱久らは降伏しています。
弘治の内乱の勝利により、畠山義綱はとりあえずは大名権力を取り戻したのですが、調子に乗ってさらなる権力強化を図ったためにかえって重臣の反発を招き、永禄9年(1566年)に重臣によって義続・義綱親子は国外追放とされてしまう事態となっています。
七尾城桜馬場跡
七尾城桜馬場跡
これを永禄九年の政変と呼んでいますが、要するにクーデターが発生したわけです。義続・義綱親子は、六角氏と縁戚関係があったために六角氏の領国である近江坂本に逃げ延びています。永禄11年(1568年)には能登復帰を目指して挙兵したが失敗しています。そして畠山義続は、天正18年(1590年)3月12日に死去しています。義綱はその後、文禄2年(1593年)12月21日に近江伊香郡の余吾浦で死去しています。ついに能登の地に戻ることはできなかったのです。しかし無念であったことでしょう。
畠山義慶は永禄9年(1566年)に永禄九年の政変にて祖父・畠山義続と父・畠山義綱が重臣たちによって追放されると、遊佐続光、長続連、八代俊盛らによって傀儡君主として擁立されています。しかし天正2年(1574年)に急死しています。死因は病死説もありますが、暗殺されたとも言われています。暗殺説の実行犯については遊佐続光と温井景隆が有力です。ううむ、まあ誰が考えてもそうとしか思えないですがね。最初から犯人がわかっている事件というわけです。刑事コロンボみたいですね。
跡は弟の畠山義隆が継いでいますが、天正4年(1576年)に急死しています。これも一説には重臣による毒殺ではないかとされていますが、兄義慶の毒殺と混同した可能性もあります。また、そもそも義慶と義隆が同一人物だという説もありますので、今後の研究が待たれるところです。家督は幼少の息子である畠山春王丸が継いでいます。
しかしこの頃には上杉謙信が能登国へ攻め込もうとしていたのです。そもそもの発端は天正3年(1575年)8月に織田信長は、柴田勝家に越前侵攻を命じ、当時越前を支配していた石山本願寺の下間頼照ら1万2000人の一向一揆衆徒を処刑しています。これに対して越後の上杉謙信から見ると信長との緩衝地帯が消滅し領国が直接隣接することになり、危機感と不快感を抱くようになり、それまで結んでいた信長との同盟を破棄して、翌天正4年(1576年)にはそれまで対立していた本願寺顕如と和睦し、共同して信長と対決することにしたのでした。
本丸跡と城山神社
本丸跡と城山神社
天正4年(1576年)9月、謙信は2万と号する大軍を率いてまず越中に侵攻しています。当時の越中には、守護代の神保氏が増山城に、椎名氏が蓮沼城に割拠していましたが、いずれも以前ほどの勢力は持っておらず、上杉謙信はこれらをあっさりと滅ぼしています。能登畠山氏は前述するように畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げています。これは一説によると前述するように家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われています。そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が擁立されていて著しく不安定な状態でした。
上杉謙信は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁こと畠山義則を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始しています。
これに対して、能登城内では老臣筆頭である長続連が中心となり、籠城することと決定しています。長続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めています。さらに長続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動しています。ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て事前に鎮圧した上で七尾城を囲んでいます。しかし、七尾城は畠山義総によって築かれた難攻不落の名城であり、さすがの謙信も攻めあぐねていました。そこで七尾城を孤立させるためにその支城群を先に落城させる事としました。
九尺石は城の要石です
九尺石は城の要石です
上杉軍の攻撃により鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などがたちまち落城してしまい、七尾城は孤立しましたがそれでも堅城を頼む七尾城の長続連らは降伏しません。
そして天正5年(1577年)3月、小田原城の北条氏政が、謙信の領地である上野国に大軍を率いて侵攻しようとしたため、謙信はやむなく越後に帰国することにしました。このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ残して一旦越後春日山城に帰還しています。
謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始しています。熊木城は畠山の家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城し、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にしています。富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑されています。また、長続連自身も自らの居城であった穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍の攻勢は凄まじいものがありました。ところが閏7月には、北条軍をあっという間に破った謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきました。畠山軍は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に再び籠城しています。さらにこの際に長続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせています。このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。数なら越後勢に決して劣らない人数だったのですが、兵糧が足りるのかな・・・。
二の丸跡
二の丸跡
再び七尾城での苦しい籠城戦が続く中、ツキにも見放されたか城内で疫病が起っています。畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次ぎ、なんと幼君畠山春王丸も籠城中に疫病により死去してしまったのです。なぜ疫病が発生したのかということですが、領民まで籠城したことにより糞尿処理が追いつかず、城内各所で糞尿が放置される極めて不衛生な状態になったからといわれています。
まあ、籠城する際にはあまり人数が多いのも考えものというわけですね。兵糧もたくさん必要となりますし。
これにより窮地に立った長続連は、子の長連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、後詰を要請すると共に小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動しています。ところが、一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれてしまい、さすがの七尾城も落城寸前となっています。このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、同志の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して内応しようと画策していました。
もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った長続連を快く思わっていなかったことと、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからです。
しかしもうしばらく城を支えていれば織田軍が援軍として駆けつけるでしょうから、この判断はどうだったのでしょうか。いくら謙信でも城を囲んでいるところを背後から襲われたら極めて不利ですから。しかし疫病が発生して、このままだと持たないと判断したということでしょうか。
そして9月15日、十五夜の月の日に遊佐続光・温井景隆らは城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れています。この反乱によって長続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族はことごとく討たれてしまったのです。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみでした。
守備側の敗因は、領民を半強制的に籠城させた事で、これをしなかったらまだまだ落城はしなかったでしょう。
こうして七尾城は謙信の手中に落ち、能登国も完全に謙信の支配下に入ったのでした。この際上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は非常に有名ですが、実際にはこの詩は上杉謙信が詠んだものではないといわれています。

霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁、月三更 越山併せ得たり、能州の景 さもあらばあれ、家郷の遠征を懐ふ

二の丸跡と三の丸跡の間の堀切
二の丸跡と三の丸跡の間の堀切
一方、柴田勝家を総大将とした織田氏の援軍は七尾城救援に向っていますが、手取川を渡河したところで七尾城落城の報に接することとなり、撤退を決意したものの、上杉軍の進撃が勝利の余勢を駆った上杉軍に攻め懸けられ散々に打ち破られています。
これを手取川の戦いと呼び、この戦いにより上杉氏が加賀の大半を勢力圏に収めることとなります。
これが天正5年(1577年)9月23日のことです。
しかし上杉氏と織田氏の勢力が隣接するようになり緩衝地帯がなくなってしまうということは、いつ戦いが始まってもおかしくないということになります。
さて、七尾城を攻略した上杉謙信は、家臣の鯵坂長実を七尾城将とし、旧畠山家臣で国衆代表の遊佐続光と共に、能登国支配を担当させています。謙信が能登侵攻の大義名分とした上条政繁も、能登に配置されてはいますが、畠山家の再興とはならなかったのです。それは長一族の頑強な抵抗や、畠山重臣層の対立を目の当たりにした謙信は、強権による直轄統治が急務と判断し、能登守護家の再興を断念したものと思われます。
鯵坂長実や上条政繁と謙信との間を媒介する奏者には、吉江信景が起用されています。
ところが翌天正6年(1578年)3月13日に謙信が越後で脳溢血のため急死すると、鯵坂長実は能登の諸将を七尾城に集めて血判誓詞を提出させて、上杉領の引締めをはかっています。しかし、謙信後継をめぐる御館の乱が勃発するなど統制力が低下したことで、上杉氏の勢力が弱体化してしまいます。
さて七尾落城の折り、長続連から織田信長の許に援軍要請に派遣されていたため、一人生き残った長連龍は、畠山重臣で上杉方に内応した遊佐続光・温井景隆・三宅長盛等に対する復讐の念に燃えていたのです。
三の丸跡
三の丸跡
天正6年6月に越前から海路で羽咋郡富来に上陸した長連龍は、故城穴水を奪回していますが、すぐに温井・三宅氏や上杉勢に逐われ、越中国氷見に神保氏張を頼っています。同年11月には、信長は越中の諸将に連龍への合力を命じています。ところが、温井・三宅兄弟は、上杉方を離反して信長に帰服しています。ううむ、彼らも謙信亡き後の情勢が上杉氏不利と見たわけでしょう。そこで天正7年になると、信長は連龍に温井・三宅への遺恨を捨てるように再三説得を試みるのですが、連龍はあくまで彼らを討伐する姿勢を崩しません。
そこで温井・三宅兄弟は、同年8月頃、七尾城主であった鯵坂長実を七尾城から逐って能登の上杉勢力を排除して、平・遊佐等も含む畠山旧臣の合議体制を樹立しています。これに対して長連龍は、同年冬から能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波宿に陣を据え、翌8年3月には同郡福水に移り、丹治山福水寺を拠点としています。温井・三宅等の七尾方も、本郷鉢伏山や金丸仏性山等の砦に拠り、邑知潟をはさんで対峙しています。
 能登の主導権をめぐる長連龍と温井・三宅等との戦いは、天正8年5月5日と6月9日の2度、菱脇(現羽咋市)を中心に展開し、いずれも長連龍が勝利を収めています。連龍は、実はなかなかの戦巧者なのです。連敗した七尾方は、三宅長盛を信長の許に派遣して、降伏と七尾城明け渡しを願い出ています。信長はこれを容れ、連龍に追撃をやめさせて、9月1日鹿島半郡(二宮川以西の59ヶ村)を与え、居城を福水とすることを承認しています。信長としても天下統一を目前にしてこれ以上能登に戦乱が続くことは望んでいなかったようです。
翌天正9年(1581)3月、信長は側近の菅屋長頼を七尾城代として派遣しています。遊佐続光・盛光父子は七尾城を逐電しますが、同年6月連龍に捕らわれ殺害されています。これにより危険を感じた温井景隆・三宅長盛兄弟は石動山に退去し、更に上杉景勝を頼って越後に逃亡しています。
菅屋長頼は、能登・越中国衆の鎮撫にもあたり、同年5月5日には上杉氏に内通した疑いがあった越中国人寺崎盛永の居城願海寺城を攻め落として盛永らを捕縛し、佐和山城に送還しています。
同年8月、能登一国は前田利家に与えられ、連龍の鹿島半郡は2重知行の形となっています。上杉方に味方した石動山は、この年、織田信長から、天平寺領5000貫を没収され、1千貫の地を与えられています。これにより能登国は織田氏の手中に堕ちることになります。
能登国を与えられた前田利家は七尾城に入りますが、七尾城はあまりに山が険しいため交通に不便で統治にも差し支えるということで、拠点を小丸山城に移したため、しばらく利家の子である前田利政が城主となっていましたが、1589年(天正17年)廃城となっています。
さて、我が軍がこの七尾城を攻め落とそうとする場合には、どうするのがよいのかと考えてみましたが・・・、この七尾城は難攻不落の名城であるというのが実際にここを訪れたときに受けた印象です。山が険しく、多数の郭が設けられていてどれかを落としても他の郭から攻撃を受けそうで、とても手が出せないという印象を受けます。何しろ城域が広く険しいのです。
これでは上杉謙信も力攻めできなかったでしょう。この城を落とすには包囲しての兵糧攻めか、調略による内応により開城させるとかしないと無理ということになります。さすがに管領畠山氏が築いた名城です。恐れ入りました。

七尾城案内板 七尾城説明板
七尾城案内板 七尾城説明板
七尾城調度丸石垣 七尾城桜馬場石垣
七尾城調度丸石垣 七尾城桜馬場石垣
七尾城調度丸跡の説明板 七尾城遊佐屋敷石垣と案内板
七尾城調度丸跡の説明板 七尾城遊佐屋敷石垣と案内板
七尾城桜馬場跡 七尾城遊佐屋敷跡
七尾城桜馬場跡 七尾城遊佐屋敷跡
七尾城本丸への階段と石垣 七尾城本丸石垣
七尾城本丸への階段と石垣 七尾城本丸石垣
七尾城本丸石垣 七尾城本丸石垣と帯郭
七尾城本丸石垣 七尾城本丸石垣と帯郭
七尾城本丸への石段は曲がりくねっています 七尾城本丸跡の説明板
七尾城本丸への石段は曲がりくねっています 七尾城本丸跡の説明板
七尾城本丸 城山神社本殿
七尾城本丸 城山神社本殿
七尾城本丸にある石積跡 七尾城温井屋敷跡
七尾城本丸にある石積跡 七尾城温井屋敷跡
本丸から桜馬場への通路にある土塁と石積 七尾城遊佐屋敷跡石垣
本丸から桜馬場への通路にある土塁と石積 七尾城遊佐屋敷跡石垣
温井屋敷跡付近の石垣 七尾城二の丸跡石垣
温井屋敷跡付近の石垣 七尾城二の丸跡石垣
温井屋敷跡石垣 七尾城二の丸跡
温井屋敷跡石垣 七尾城二の丸跡
七尾城二の丸跡 七尾城三の丸跡
七尾城二の丸跡 七尾城三の丸跡
懐古館飯田家 七尾城史資料館
懐古館飯田家 七尾城史資料館
とよの水の案内板 とよの水・・・らしいが
とよの水の案内板 とよの水・・・らしいが
本丸から大手口に向かう通路 ここで身なりを整えたという沓掛場
本丸から大手口に向かう通路 ここで身なりを整えたという沓掛場
安寧寺跡の案内板 安寧寺跡
安寧寺跡の案内板 安寧寺跡
畠山氏の墓碑 慰霊碑
畠山氏の墓碑 慰霊碑
三の丸への階段 古道
三の丸への階段 古道
古道から本丸方面を見上げる 古道の左側にある石垣
古道から本丸方面を見上げる 古道の左側にある石垣
石段となっている古道の向こうにも石垣が 古道が左に曲がる桝形地形となっています
石段となっている古道の向こうにも石垣が 古道が左に曲がる桝形地形となっています
畠山義忠公御歌の石碑 ここから城の中心部に入ります
畠山義忠公御歌の石碑 ここから城の中心部に入ります
主郭と長屋敷の間にある堀切 調度丸への通路
主郭と長屋敷の間にある堀切 調度丸への通路
調度丸 調度丸に残る石垣跡
調度丸 調度丸に残る石垣跡
遊佐屋敷付近の交差点 桜馬場跡
遊佐屋敷付近の交差点 桜馬場跡
遊佐屋敷から本丸への石段と石垣 本丸北面の石垣
遊佐屋敷から本丸への石段と石垣 本丸北面の石垣
石段を守る石垣は野面積み 石段を守る石垣は低い造りです
石段を守る石垣は野面積み 石段を守る石垣は低い造りです
本丸北面の石垣は3段になっています 石垣の手前にはわずかにスペースがあります
本丸北面の石垣は3段になっています 石垣の手前にはわずかにスペースがあります
本丸北面の上から2段目の石垣 本丸北面の最上部の石垣
本丸北面の上から2段目の石垣 本丸北面の最上部の石垣
本丸南側の土塁には城山神社が 本丸北面から見下ろす
本丸南側の土塁には城山神社が 本丸北面から見下ろす
城山神社の鳥居 城山神社から見た本丸と土塁
城山神社の鳥居 城山神社から見た本丸と土塁
本丸に残る井戸跡・・・らしいが 本丸南側に残る石垣
本丸に残る井戸跡・・・らしいが 本丸南側に残る石垣
本丸西側の石垣はかなり大きいものです 遊佐屋敷跡の石垣
本丸西側の石垣はかなり大きいものです 遊佐屋敷跡の石垣
桜馬場跡の説明板 温井屋敷跡
桜馬場跡の説明板 温井屋敷跡
二の丸は独立した曲輪です 大手道から遊佐屋敷方面への石段
二の丸は独立した曲輪です 大手道から遊佐屋敷方面への石段
調度丸からみた桜馬場北側の石垣群 桜馬場北側の石垣群は一段ごとの高さはさほどでもない
調度丸からみた桜馬場北側の石垣群 桜馬場北側の石垣群は一段ごとの高さはさほどでもない
桜馬場北側の石垣群 遊佐屋敷方面への石段
桜馬場北側の石垣群 遊佐屋敷方面への石段
桜馬場北側の石垣群は3段に分かれている 本丸から見た七尾市街遠景
桜馬場北側の石垣群は3段に分かれている 本丸から見た七尾市街遠景
桜馬場北側の石垣群は3段に分かれている ここの石垣群を始めて見たときは感動しました
桜馬場北側の石垣群は3段に分かれている ここの石垣群を始めて見たときは感動しました
大手口の石垣 ここにも石垣がありました
大手口の石垣 ここにも石垣がありました
大手口の石垣 何とここにも何段にも石垣が築かれています
桜馬場下の石垣群 何とここにも何段にも石垣が築かれています
野面積みの石垣です ここの石垣は2m以上の高さがあります
野面積みの石垣です ここの石垣は2m以上の高さがあります
ここの石垣は高さが低いのです 石垣も草が生い茂っています
ここの石垣は高さが低いのです 石垣も草が生い茂っています
石垣と石段 桜馬場への石段
石垣と石段 桜馬場への石段
本丸西側の土塁 土塁上から見た本丸全景
本丸西側の土塁 土塁上から見た本丸全景
本丸西側の土塁と石垣 本丸全景
本丸西側の土塁と石垣 本丸全景
本丸南側の土塁 城山神社南側にも土塁が
本丸南側の土塁 城山神社南側にも土塁が
本丸西側の石垣 本丸西側の小曲輪にも石垣が
本丸西側の石垣 本丸西側の小曲輪にも石垣が
本丸西側の曲輪にある石垣 西の丸への入口
本丸西側の曲輪にある石垣 西の丸への入口
西の丸全景 西の丸へは急坂を登る必要があります
西の丸全景 西の丸へは急坂を登る必要があります
西の丸 西の丸西側土塁上から見た曲輪
西の丸 西の丸西側土塁上から見た曲輪
桜馬場から見た遊佐屋敷 桜馬場北面の土塁と石垣
桜馬場から見た遊佐屋敷 桜馬場北面の土塁と石垣
西の丸から伸びている土塁 温井屋敷跡から見た石垣群
西の丸から伸びている土塁 温井屋敷跡から見た石垣群
二の丸 二の丸北側の土塁
二の丸 二の丸北側の土塁
二の丸から三の丸への通路は狭く険しい 二の丸と三の丸の間の堀切
二の丸から三の丸への通路は狭く険しい 二の丸と三の丸の間の堀切
三の丸への入口に石垣 三の丸はもっとも広い曲輪です
三の丸への入口に石垣 三の丸はもっとも広い曲輪です
三の丸の説明板 三の丸はかなり広い曲輪です
三の丸の説明板 三の丸はかなり広い曲輪です
三の丸から大手道方面への通路 桜馬場西側の石垣群
三の丸から大手道方面への通路 桜馬場西側の石垣群
ここの石垣は比較的小規模です 寺屋敷跡
ここの石垣は比較的小規模です 寺屋敷跡
寺屋敷と大塚の間にある土塁 大塚
寺屋敷と大塚の間にある土塁 大塚
寺屋敷の井戸跡・・・らしいが 桜馬場西側の石垣は何段にも築かれています
寺屋敷の井戸跡・・・らしいが 桜馬場西側の石垣は何段にも築かれています
ここの石垣はいったいどうなっているのでしょうか 本丸下の石垣
ここの石垣はいったいどうなっているのでしょうか 本丸下の石垣
七尾城跡
住所 石川県七尾市古城町 形式 連郭式山城 (標高300m/比高250m)
遺構 曲輪、石垣、土塁、空堀など多数 築城者 畠山満慶
施設 説明板 トイレ 展望台 城主 畠山氏 鰺坂長実 菅屋長頼 前田氏
駐車場 無料駐車場あり 築城年 1428年~29年(正長年間)
文化財 国史跡 廃城年 1589年(天正17年)
七尾城史資料館(日本100名城スタンプ設置所)
住所 七尾市古屋敷町タ部8-2
電話 0767-53-4215 
開館時間 9:00~16:30
休館日 月曜(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始
入館料 400円(懐古館飯田家と共通)
駐車場 無料駐車場あり
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国史跡 七尾城跡マップ
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