国史跡 小谷城跡
小谷城跡の概要
浅井三姉妹 江~姫たちの戦国放送記念
浅井三姉妹 江~姫たちの戦国放送記念
小谷城は、滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)です。国の史跡に指定されています。
当城は、日本五大山城の一つに数えられていて、標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれています。
戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城しました。
その後、羽柴秀吉により北近江の拠点は長浜城に移され、当城は廃城となっています。
現在は土塁・曲輪・堀切などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っています。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(49番)に選定されています。
当城がいつ誰に築城されたのかですが、『浅井三代記』の記述では、「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ 」、「1516年(永正13年)9月28日に着工同年10月20日に完成」という記述がある。
しかし、浅井三代記の記述には疑問点も多いので、そのまま信じていいのか怪しいところもあります。その後の1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) - 1524年(大永4年)築城説が有力と言われています。
この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われます。その後1538年(天文7年)にも六角定頼が江北に攻め込んでいますが、この時には浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡しています。
小谷城バスに乗って移動します
小谷城バスに乗って移動します
というわけで、築城したのは 浅井亮政となり、築城時期は1524年(大永4年)以前としておきましょう。
浅井亮政は、延徳3年(1491年)に北近江の国人である浅井氏の庶流蔵人家・浅井直種の子として誕生しています。幼年期は定かではないが、浅井氏嫡流で従兄弟浅井直政の娘蔵屋と結婚し、嫡流を継承しています。
亮政が家督を継承した頃、浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の被官でした。この時期の京極氏の当主は高清でしたが、大永3年(1523年)高清が家督を次男高吉に譲る意向を示したことで、お家騒動が発生しています。この時、亮政は近江国衆浅見貞則とともに、高清の長男高広を後継者に推し、高清と対立します。大永4年(1524年)に、貞則と亮政は主君高清、高吉、そして高吉を推す上坂信光を尾張へと追い出しています。これ以後、京極氏は国人一揆が主導することになり亮政はその中心的役割を担ったが、浅見貞則が専横を極めたため、亮政は同年に浅見貞則も追い出し、ついには国人一揆の盟主となって京極家中における実権を掌握しています。
こうして江北における勢力を築いた亮政であったが、亮政の勢力拡大と共に南近江の守護六角定頼と対立するようになります。
六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流であり、京極氏の本家筋にあたる存在で、この時期は足利将軍家を庇護して室町幕府へ関与するなど、勢力を強めていました。もともと近江守護職であった六角氏との対立は、亮政にとって不利であり、前述するように度々侵攻を許すことになっていますが、配下となった国人層を掌握してこうした侵攻をかろうじてしのいでいます。 実は、浅井氏は美濃の斎藤氏と組んで六角氏を牽制していたのですが、越前の朝倉氏が六角氏と組んで浅井氏を攻撃する様子を見せていたりして、、危機的状況となっていました。しかし浅井亮政は、朝倉氏と同盟を締結することに成功していて、この後朝倉氏は、浅井氏がピンチになれば救援することを繰り返すようになります。
番所跡の手前に案内板があります
番所跡の手前に案内板があります
さて六角定頼ですが、室町幕府管領代、近江国守護であり、南近江の戦国大名。六角氏14代当主です。明応4年(1495年)、六角高頼の次男として誕生。 永正元年(1504年)、京都にある相国寺慈照院に僧侶として入り、吉侍者と称されています。ところが永正13年(1516年)、兄・氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなったのです。
この定頼、実はなかなかのやり手です。先進的な手法により、内政にも手腕を発揮しています。
大永3年(1523年)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じています。これは後世の一国一城令の基になったと言われています。
織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも実は定頼です。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させています。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのです。実は楽市楽座は、ほかの大名でも実施していて信長の専売特許ではないのですね。
また子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、さらに足利将軍家の後ろ盾になることで、当時では中央政治をも左右するほどの勢力を持っていたのです。正直言えば、この時点では浅井氏が逆立ちしてもかなう相手ではなかったのです。
また一方で、亮政によって傀儡化した京極氏であったが、亮政の専横に不満を募らせた京極高延が父・高清と和解し、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立するようになっています。これに対し亮政は、六角氏との対立もある中、更に京極氏と争う余力はなかったため、天文3年(1534年)に京極高清、高広親子が亮政の居城である小谷城へ招れて饗応を受け和解しています。
金吾丸への入り口です
金吾丸への入り口です
しかし、天文10年(1541年)、再び京極高広が亮政に反旗を翻した。亮政は京極氏との対立を解決しないまま、翌天文11年(1542年)1月6日に死去した。享年52。
死後、嫡男久政と婿養子の田屋明政が家督継承を巡って争うようになり、明政が京極高広と結んで久政を攻めたため、久政は六角氏へ臣従しています。
浅井氏の家督を継いだ浅井久政は、大永6年(1526年)、浅井亮政の長男(庶長子の説あり)として誕生しています。生母は側室・馨庵(近江尼子氏の出。出雲尼子氏はその庶家にあたる)とされる。なお生母について諸説あり、『六角佐々木氏系図略』「浅井過去帳」によれば、六角宗能(親泰)側室・浅井千代鶴とされており、尼子氏は養母とされる。妻は近江豪族・井口経元の娘・小野殿(阿古御料人)。 天文11年(1542年)、父・亮政が死去したため跡を継いだが、勇猛な父とは対照的に武勇に冴えなかったとされています。
亮政は正室との間に生まれた娘である海津殿(久政の異母姉)の婿であった田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたとも言われていて、このため義兄・明政は久政の家督相続を承服せず反乱を起こしており、久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となっています。結局、久政が家督を継いで明政が身を引いたらしいのですが、その後、久政が当主となってからの浅井家は家中の統率が乱れていて、次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となっています。嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせ、賢政(のちの長政)と名乗らせ、さらに賢政の妻に六角氏家臣の平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとっています。
番所跡
番所跡
このような久政の弱腰の外交政策に、家臣たちの多くが不満をもつようになったとされています。永禄3年(1560年)に嫡男の賢政が野良田の戦いで六角義賢に大勝したことで浅井氏が六角氏から独立すると、久政は家臣たちにより家督を長政に譲ることを迫られ、いわば強制的に隠居させられたと言われています。久政は一時は竹生島に幽閉され、賢政は正妻であった平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻しています。
しかし久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけており、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたと言われています。
さて代替わりとして登場した浅井 長政は、浅井氏の3代目にして最後の当主となります。
長政は浅井氏を北近江の戦国大名として成長させています。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害し、浅井氏は滅亡しています。
官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られています)。
長政は、天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれています。幼名は猿夜叉丸。
下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していました。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされています。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていて不満がたまっていたと思われます。
展望所から虎御前山を望む
展望所から虎御前山を望む
15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、前述するように長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせ、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いていました。
永禄2年(1559年)、浅井家ではこの久政の屈辱外交に不満を抱く家臣が賢政を擁してクーデターを起こして、久政を強制的に隠居させて賢政に家督を譲らせ、賢政は「賢」の字を捨てて長政と名乗って六角家と手切れし、平井夫人を六角家に送り返しています。このクーデターはかなり前から周到に用意されていたようで、長政はクーデターと同時に浅井・六角領の境界線に位置する六角家の国人領主に調略をしかけており、それによって永禄3年(1560年)に愛知郡肥田城主・高野備前守が浅井家に寝返っています。
六角義賢は高野備前守の寝返りに激怒し、すぐに肥田城に攻め寄せて水攻めを行ないます。しかしこの水攻めは失敗して、攻めあぐんでいます。六角軍が攻め寄せた事を知った長政は肥田城の救援に向かい、義賢はこれを野良田で迎え撃っています。両軍は宇曾川を挟んで対峙します。
この時の六角軍の総勢は2万5000人で、総大将は義賢、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔らが参陣していました。浅井軍は総勢1万1000人と六角軍の半分にも満たなかった。このため、緒戦では兵力で圧倒的な六角軍が浅井軍を押したが、緒戦の勝利に油断していたところを浅井軍の反撃や新手の斬り込みなどで崩され、合戦は浅井軍の勝利となっています。
この時、六角軍は920人、浅井軍は400人の死者が出たとされています。
御茶屋跡は防御施設があったようです
御茶屋跡は防御施設があったようです
この合戦に勝利した浅井長政は近江支配における浅井家の政治的立場を確立し、北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めています]。しかし隠居の久政にある程度の影響力・発言力は残されて完全な権力移譲が行なわれず、後にこれが織田信長との破局にまでつながる事になったのは歴史の皮肉としか言いようがないですね。
一方、敗北した六角家では動揺が激しかったようです。さらにこの合戦から3年後にはかねてからの義賢・義治父子の対立がもとで観音寺騒動が起きて後藤賢豊を殺害してしまい、義賢・義治父子は居城の観音寺城を追われています。重臣の蒲生定秀の尽力により復帰を果たしますが六角家の衰退は明白で、合戦から8年後に織田信長の上洛を阻もうとして抗戦し、それにより信長に滅ぼされる事になります(観音寺城の戦い)。
長政の野良田の戦いでの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから(朝倉の援軍があればもっと大兵力であろう)、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできるでしょう。
永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された観音寺騒動により六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になっています。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破しています。殿を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せています。
庭石のようですが
庭石のようですが
1560年代になり、織田信長は美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案しています。この同盟は、浅井側にとってもメリットが大きいのですが、浅井家臣の中では賛否両論あり、遠藤直経も反対だったといわれています。
最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲でした。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、織田・朝倉は互いに挑発を繰り返していたのです。しかし最終的には長政が反対を押し切り、信長と同盟を結ぶことになります。
この同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚として永禄10年(1567年)9月頃に、長政は信長の妹の市を妻としています。 なお、長政と市の婚姻時期については諸説あり、永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)とする説などいくつかの異説があります。
織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとしています。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりでしたが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされています。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名しています。 さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作っています。
永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せています。これによって、9月に信長は上洛を開始しました。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃し、観音寺城を落としています。これにより、長政の敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退しています。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護しています。
馬洗池には今も十分に水がありました
馬洗池には今も十分に水がありました
信長は、京都に入ると足利義昭を第15代将軍に擁立しています。ここまでは浅井氏としても満足できる結果だと思われます。
ところが元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、若狭経由で越前国へ進軍します。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくのですが、突如として浅井氏離反の報告を受けることになります。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れています(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したといわれています。
この際に信長との同盟に反対していた浅井家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われています。長政もどうするか悩んだと思われますが、結局は信長に叛くことにしたわけですが、結果的には大失敗でした。
しかし浅井氏側としても後ろ盾の朝倉氏が滅ぶようなことがあれば、次には自分たちが言い掛かりをつけられて滅ぼされる可能性があると考えてもおかしくありません。ここで朝倉氏が滅ぼされると周りが全部織田勢力に囲まれてしまうので、そう考えるのはむしろ妥当であるかもしれません。朝倉氏としても、南方からの侵入者を北近江で防がないと越前に侵入してくるでしょうから、浅井との同盟は北近江を緩衝地帯とするために必要な外交政策なのです。信長もそんなことは百も承知で北近江を通らずに若狭から侵入しているわけですが、まさか長政が叛くとは思っていなかったようです。
しかしここで信長を討ち洩らしてしまった浅井・朝倉氏は信長の攻勢にさらされることになります。
元々近江が美濃・尾張から京都への通り道にあるので、浅井氏が叛いた以上、信長としては滅ぼすしかないのです。
御馬屋跡
御馬屋跡
織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め、5月11日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させています。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより5月21日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまいます。このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し兵を入れて織田軍の来襲に備えています。朝倉軍は6月15日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落してしまいます。これを受けて6月19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入っています。
6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせています。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いらせ、いったん後退します。
6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣しています。
ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となっています。
6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣しています。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かっています。
馬屋曲輪は土塁に囲まれています
御馬屋曲輪は土塁に囲まれています
午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なりという激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利しています。
信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れています。
姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死しています。朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出しています。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死して、決してその損害は小さいものではなかったと言われています。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にしています。 ・・・・・と、巷では言われているのですが、これは徳川家康に忖度した内容として伝わっていて、やや誇張したもののようです。
実際の戦闘は、朝倉軍の偽兵の計により織田、徳川軍の主力が引き付けられた隙に浅井軍が信長の本陣に奇襲を掛けたために織田軍は苦戦したがかろうじて浅井軍の攻撃を凌いで、主力が背後から攻撃したために浅井軍は退却時に被害を受けて小谷城へ退却しているようです。また浅井軍の先鋒は、たぶん遠藤直経だったのだと思います。また朝倉軍の殿が真柄勢だったために彼らが戦死しているということになります。織田、徳川軍もかなりの被害と疲労があり、小谷城を攻撃する余力はなく、浅井軍も横山城を後詰する余力がないため横山城の将兵が撤退して、織田方の手に落ちたと考えると辻褄があいます。結果としては織田、徳川軍の辛勝と評価するのが妥当でしょう。本来なら朝倉景健の偽兵の計に踊らされた織田、徳川軍が負けとしたものですが、やはり浅井軍の士気が今一つ高くなかったのかと思います。
首据石
首据石
元々織田氏を:裏切っての戦ですし、家中でも必ずしもこの戦いに賛同していたとも思えませんので、長比・苅安尾両城が調略で開城しているのも、その表れではないかと思います。また遠藤直経は当初から信長に不信感を持っていたと言われていますし、この戦いでは先鋒になっているのだと考えられます。
この姉川の戦いには敗れたがこの時点では浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返されています。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵しています(野田城・福島城の戦い)。しかも、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻します。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を失っていて大打撃を受けています。
9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信与(信興)を自害に追い込んでいます。
11月21日、四面楚歌となった信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱しています。この辺り、信長の外交戦術に利用された足利義昭はピエロになってしまったと感じてしまうのですが・・・。
元亀2年(1571年)2月、織田信長は浅井長政の妨害を排除して長政の重臣磯野員昌を調略して佐和山城を降し、近江南部の支配を確固たるものにすると、同年5月に北伊勢の長島一向一揆を攻撃、同年9月には比叡山延暦寺を焼き討ちし、分散している反織田勢力の鎮圧に努めています。
赤尾屋敷への入り口です
赤尾屋敷への入り口です
磯野員昌の佐和山城は、姉川の戦い以降、孤立してしまい敵中に取り残されていて、小谷城に物資の補給を求めていたのですが、信長側が磯野員昌が内通しているという情報を流していて長政が補給を行わなかったと言われていて、磯野員昌が信長に降る結果になったと言われています。もっとも事実かどうかは分かりません。この時点では小谷城も物資が不足がちでとても孤立している佐和山城に補給などできるとも思えません。
浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまっています。
元亀3年(1572年)3月、織田信長は北近江へ出陣し、浅井長政の居城小谷城に対して付け城を築いて包囲します。長政が北近江に釘付けとなったことで、美濃と京都を結ぶ連絡線は安泰となり、近江の戦況は信長有利に推移することになります。
同年7月、信長は北近江に再び出陣して虎御前山砦を築き、朝倉軍による来援を阻止できるようにして小谷城の攻囲を強めています。
義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけていますが、信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いています。浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況でした。
8月に朝倉義景の家臣前波吉継、富田長繁が織田軍に降伏しています。うーむ、浅井・朝倉とも家臣団の統率が乱れていることは明白になってきましたね。
10月には、長政の家臣宮部継潤が横山城の守将木下秀吉の調略で信長に寝返っています。
同月、東海方面では武田信玄が徳川家康の領内に大挙侵入し、美濃に別働隊を向かわせて、岩村城を落としています。
黒金門跡は石垣に囲まれた厳重な門だった
黒金門跡は石垣に囲まれた厳重な門だった
信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突き、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまう。
同年12月に発生した三方ヶ原の戦いでは徳川家康と信長の援軍が信玄の前に大敗を喫しています。
ところが、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国しています。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺的態度を示しています。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略しています(野田城の戦い)。
こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した。信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。
しかし信玄の急死により、信長包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になったわけです。
天正元年(1573年)8月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せています。
8月8日、浅井家の武将・山本山城主阿閉貞征が内応したので、信長は3万人の軍勢を率いて山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉義景は2万の軍で駆けつけるが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、刀根坂の戦いで朝倉軍が大敗を喫して、朝倉景健の奮戦でかろうじて義景は一乗谷城へ逃れたが、織田軍は敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻しています。
桜馬場跡もかなりの広さです
桜馬場跡もかなりの広さです
義景は一乗谷城を捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃しています。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋しています。
信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉を使者として送り、長政に降伏を勧めたが、長政は断り続け最終勧告も決裂しています。
翌27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に清水谷を登って長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸にとの間にある京極丸(兵600)を占拠しています。この時、三田村定頼、海北綱親らは討死しています。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功します。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害しました。
その後、本丸(長政以下兵500)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡しています。
その最後の仕事を果たしたのち、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城し、この日をもって北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅亡したのです。
金ヶ崎での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めています。浅井長政・久政親子の首は京で獄門にされ、男系の万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑されています。他にも、浅見道西など、寝返った将も、所領を没収されています。また、長政・久政の頭蓋骨は義景のそれと共に薄濃にされています。
浅井家臣供養塔
浅井家臣供養塔
これは敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである。小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築いています。
この小谷城は、小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられています。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になったと考えられます。
落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまっていますが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察されています。
当城は多くの郭によって構成されており、本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5〜10メートルほどの大堀切があり主として南北2つの部分に分けることができます。
これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されています。
御茶屋敷曲輪は番所跡の上にある曲輪で、主郭部の最先端にある。曲輪は一郭で中央に低い土塁があり、名称は「御茶屋敷」と伝承されているが、歴とした軍事施設になっている。
御馬屋敷曲輪は本丸を防備するために築かれ、三方を高い土塁で囲まれています。また御馬屋敷曲輪の清水谷の斜面側にはいくつかの竪堀があります。またこの近くには馬洗池跡があり、南北9m×東西6.6mの石組みの池で中央に仕切りがあります。
また黒金門跡の手前に首据石があり、今井秀信を神照寺で殺害し首をここにさらしたとの伝承があります。
本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には「鐘丸共」と記載されていて、鐘丸として機能していたと思われます。
桜馬場には礎石が多数ありました
桜馬場には礎石が多数ありました
規模は南北40m×東西25m規模があり、上下二段から成り立っています。また東西の裾には土塁があり、本丸下の千畳敷曲輪方向には石垣が築かれている。この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘しています。
それ以外では小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承されていましたが、1955年(昭和30年)の解体修理ではそのような形跡は発見されていません。これは、1853年(嘉永6年)に8割近くが大修理されており、築城当時の建築物は発見出来ない可能性も指摘されています。
また、この北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大規模な堀跡があります。
ここから上部と下部を明確に分断している。上部の曲輪はこの堀切があることで、下部の曲輪で食い止め強固に守られる反面、上部から下部へ、下部から上部への戦力の柔軟な運用が難しくしていると言えます。このようなケースは、中世山城では良くあることで、各郭が連携がとりにくいという弱点を持っているわけです。 実際にも秀吉軍により、上部と下部が分断されて各個撃破されるという結果になっていて、弱点を衝かれたと言えましょう。
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と曲輪が続いています。中丸は大堀切の北側にあり、三段からなる階段曲輪で、それぞれの段で横矢を築いている。
京極丸は京極氏の屋敷があったと伝承されています。しかし 浅井久政、浅井長政時代には京極氏は河内城にいました。また、浅井亮政が旧主京極氏を幽閉していた場所だったので京極丸と名づけられたともいわれています(この曲輪は、『信長公記』によって同時代においてもこの名前で呼ばれていた)。城内では千畳敷曲輪に次ぐ二番目に広い曲輪跡です。
若かりし若尾文子さんがここに座って撮影したとか
若かりし若尾文子さんがここに座って撮影したとか
京極丸の北側に小丸がある。この場所は浅井久政が切腹し果てた場所で、左右2段の曲輪からなります。
主郭部の最も北側にあるのが山王丸です。山王丸は神社が祀っていたと考えられ、現在は名称が小谷神社にかわり小谷寺の一角へ移っています。4段から成り、詰めの曲輪でもある。また、山王丸の東側には高さ5mからなる大石垣があり、また各曲輪の虎口にも石垣が確認できます。『戦国の堅城』ではこれらの石垣は浅井氏の権力の象徴となっていた可能性を指摘しています。
石垣は鉄砲が伝来すると共に急速に広がっていくが、まだ戦国時代末期では国人の私的権力では構築が困難で、寺社に属する石工集団を動員する必要がありました。近江国では六角氏のような守護に近い権力が必要です。そこで浅井氏は自らの権力を配下の国人衆や、浅井氏の湖北での正当性や優位性を見せつける必要があり、石垣が築かれることによって浅井氏も国人から戦国大名になったのではないかと指摘しています。
小谷城の石垣は、かなり大規模なものですし、この時期では珍しい遺構と言え、他者から見ると権力の象徴という見方ができるので、この説も妥当性があると思います。ただ、技術的にはまだ未熟なものではありますが。
朝倉軍が使用した大嶽城は、山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所にあり、小谷城の支城の一つとして機能していました。
ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにあります(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられています。現在では曲輪・横堀群などが残されています。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれます。つまり朝倉氏が築いたということを示唆しています。
大広間は大変広い曲輪てす
大広間は大変広い曲輪てす
浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もあります。考古学的に裏付けるものはないのですが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られます。
福寿丸・山崎丸は、大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれているうち西側の一本に築かれていて、小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものであり、やはり朝倉氏が築いたことを示唆しています。
一方、福寿丸や山崎丸に現在残る遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって築かれたものとする説が近年提示されています。福寿丸と山崎丸の両方にある土塁挟みの虎口は、虎御前山城の木下秀吉陣に存在する虎口に類似しているが、朝倉氏の城にはみられないものです。
また1575年(天正3年)の越前一向一揆の際、8月13日に織田信長は秀吉の守る小谷城に宿泊して軍の兵糧を調達し、翌14日に敦賀に着いたという記述が『信長公記』にあることによります。
もっともこの曲輪の全ての遺構が秀吉の手によるものだとは思えません。わざわざ何もないところに秀吉が新規にこのような曲輪を築くとは思えませんし、既存の施設に一部改修を加えたというのであれば、理解できるのですが。
金吾丸は、大永5年に朝倉宗滴が入城、5ヶ月間在城し六角定頼との調停をした際に使用されています。
このように小谷城の曲輪の一部は朝倉氏によって築かれていて、浅井氏が朝倉氏の築城技術を学んで自分たちの土木工事に活用していたのではないかと推定できます。
さて、この城をわが軍が攻めるとしたらどうするかですが、何しろまさに難攻不落の要塞で簡単に攻め落とせるとは思えません。やはりここは秀吉が実際にやったように清水谷の急坂を登って、城を分断して各個撃破するという手段が考えられますが、城方の兵力が充実していると(特に鉄砲)この手段は極めてリスクが大きいと言えます。
もう一つ考えられるのが大嶽城側から落として反時計回りに山王丸から攻めるとの、大手側から攻めるのを同時に決行するという方法が考えられます。これは城方としては二正面作戦を取らざるを得ず、兵力が分散しますが、攻め方もそれなりの損害は覚悟しないといけません。実際の信長は、完全に浅井軍を追い詰めるまで直接城を攻撃することを控えていたのもこの城が極めて防御力が高いから犠牲を出すことを望まなかったからでしょう。

大広間は大変広い曲輪てす
本丸下には大規模な石垣があります
大広間には多数の礎石があります 本丸下には大規模な石垣があります
本丸の看板が
左側に行くと大堀切に入ります
本丸の看板が 左側に行くと大堀切に入ります
比較的単純な技法で組まれています
いよいよ本丸跡に入りました
比較的単純な技法で組まれています いよいよ本丸跡に入りました
本丸北側の大堀切です
いよいよ本丸跡に入りました
本丸北側の大堀切です 本丸下には赤尾曲輪があります
大広間には井戸跡がありました
本丸には2層の天守があったと推定されています
大広間には井戸跡がありました 本丸には2層の天守があったと推定されています
小谷城跡
住所 滋賀県長浜市湖北町伊部 城郭構造 梯郭式山城 
遺構 曲輪、堀切、土塁,石垣、縦堀、礎石、虎口 天守構造 不明(2層の天守が推定される)
再建造物 なし 築城者 浅井亮政
施設 小谷城戦国歴史資料館、小谷城バス 城主 浅井氏、羽柴秀吉
駐車場 周辺に無料駐車場あり   築城年 1516年(永正13年)~1524年(大永4年)
文化財 国史跡 廃城年 1575年(天正3年)
「小谷城戦国歴史資料館」
住所 滋賀県長浜市小谷郡上町139番地
電話 TEL/FAX 0749-78-2320
開館時間 9:00~17:00(入場は16:30まで)
休館日 火曜日(祝祭日の場合は翌日休館) 年末年始(12月28日~ 1月4日)
入館料
区分

一般

小・中学生

個人 300円 150円
団体(20名以上) 240円 120円
 障がい者の方とその介護者1名は無料です。
(入館の際に障がい者手帳などをご提示ください。)
湖北地域の小中学生は無料です。
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