大垣市指定史跡 大垣城
大垣城の概要
大垣城天守
大垣城天守
大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にある平城です。別名、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれています。
現在は大垣市指定史跡となっています。
現在の天守は、鉄筋コンクリート構造の復元天守です。
この大垣城は築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみのであったといわれています。
大垣城は、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいう、2つの説があります。
この当時は、牛屋城と呼ばれていたといわれています。
1560年(永禄3年) には斉藤氏家臣の氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備されています。
1596年(慶長元年)頃、豊臣家臣である伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれています。
1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられています。さらに松平忠良が大垣に移封されたときには天守を改修しています。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄が大垣に移封されて、城が改築されて最終的な姿とされています。
戸田氏が城を改修した後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていました。
本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていました。
旧柳口門と艮墨櫓
旧柳口門と艮墨櫓
以降、明治維新に至るまで大垣藩戸田氏の居城となっています。
1873年(明治6年)に発布された廃城令により大垣城も廃城となっていますが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定されています。
しかし残念なことに1945年(昭和20年)7月29日の空襲により天守や艮櫓などが焼失してしまいました。現在の天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年) に鉄筋コンクリート構造によって外観復元されたものです。
その他も開発により多くの遺構は失われていますが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残っています。
移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残っています。また、大野町西片の民家に、どの門かは不明ですが城門が移築され現存しています。
戦国時代、大垣城周辺の地は織田氏と斉藤氏の勢力がぶつかる地点だったために両者の争奪の場となっていました。
しかしこの城は平城ですので、守るのが難しい地形ですから、城主がたびたび変わっています。
やがて織田信長が斉藤氏から美濃を奪うと、織田氏の城となります。豊臣時代には、池田恒興、池田輝政、三好秀次、木下秀長、加藤光泰、一柳直末、羽柴秀勝、伊藤祐盛など豊臣重臣が城主となっているのは、この地が交通の要衝だからでしょう。
関ヶ原の合戦があった1600年(慶長5年)の時点では、大垣城主は伊藤盛正(祐盛の子)でした。
天守から見た大垣市街
天守から見た大垣市街
西軍の指揮官である石田三成は、大垣城を西軍の前進基地にするために盛正に大垣城を明け渡すように申し出たので、盛正は、城を西軍に明け渡して退去しています。
関ヶ原の合戦は、徳川家康率いる東軍が石田三成らの西軍を関ヶ原におびき出して野戦を挑むという作戦が成功し、西軍は敗れ去っています。伊藤盛正は、西軍として参加したために、戦後に改易されています。
大垣城は関ヶ原の合戦時には福原長堯らが守将となって守っていましたが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると、東軍に包囲されます。しかし城は容易に落ちなかったのですが、同じく篭城していた相良頼房、秋月種長が裏切り、垣見家純、熊谷直盛が討たれて、降伏開城しています。
戦後は、上総鳴渡より石川康通が、3万石加増され5万石の大垣城主となりましたが、慶長12年(1607年)に死去、康通の嫡男忠義が幼少であったため、康通の父家成が後を継ぐのですが、翌々年の慶長14年(1609年)10月に死没しています。
するとその跡を忠義ではなく家成の養子の忠総が継いでいます。忠総は、大久保忠隣の二男で、家康の命で家成の養子になったもので、家督を継いだのも家康の意向によるものでした。しかし家康もあこぎなことをしますね。
この石川忠総の代に大垣城は拡張され、八幡部総堀や竹島町南総堀が作られたといわれています。しかし、忠総は慶長19年(1614年)大久保忠隣失脚の際に連座して駿府に蟄居となっています。
城内から大手門
城内から旧柳口門
その後、大阪の陣が始まると赦され、冬の陣、夏の陣ともに手柄を立てて、豊後日田6万石に移封されています。
石川氏と入れ替わりに下総関宿から松平忠良が5万石で大垣に入封しています。寛永3年(1624年)に忠良が死去して、憲良が家督を継ぐが、幼少の由をもって信濃小諸に転封となっています。
そして大垣城には丹波福知山から岡部長盛が移封し5万石を領しています。岡部長盛の跡は宣勝が継いで、寛永10年(1634年)在封10年で播磨龍野に移っています。なお宣勝は藩制の確立や善政を布いたことから、名君と称されています。
この頃は前領主の松平康重・松平康映らが領民に重税を課して悪政を行なっていたために、松平氏が移封されて新たに領主となった宣勝に対して領民が強訴や一揆を起こそうと企てていたのに対して、宣勝は武力は使わず領民の代表者の意見や窮状をよく聞き、減税などを受け入れることで未然に一揆が起こることを防ぎ、善政を布いています。
岡部氏の後は山城淀から松平定綱が6万石で入るが、2年後の寛永12年(1636年)7月伊勢桑名に転封となっています。この松平定綱は、忠良・憲良の松平氏とは同族で、忠良の従弟にあたります。まさか悪政など布いていませんでしょうね。そんなことはないか。松平定綱は、新田開発やインフラ整備で有名な大名ですので悪政など布いているとは思えません。
このように大垣の地は関ヶ原以前から領主が目まぐるしく変り、そのために領地の経営も落ち着かなかったのですが、寛永12年(1636年)に戸田氏鉄が摂津尼崎から10万石で入封すると、戸田氏が定着し明治まで11代235年に渡って戸田氏が支配することとなります。
戸田氏鉄は大垣に入封すると、従来の地方知行制から俸禄制に改めています。地方知行制とは家臣に知行地を与えてその地を治めさせる制度であり、俸禄制とは知行地に見合った俸禄を与える制度です。要するに家臣は領主的な存在から藩に雇われる存在になったことになり、これは大名の領主権が強化されることになります。これは他の大名でも実施されていることで、戦国の世から太平の世に移ったことから、この方法が可能になったとも言えます。
領主権を強固にした氏鉄は、新田開発によって慶安4年(1651年)までの16年間に1万3千石の新田を得、藩財政の基盤強化に務めています。
また、大垣は洪水多発地帯であり、治水事業にも力を入れています。川除普請をはじめ水門の建設などのほか、洪水防止の為に植林も手がけています。
大垣藩第4代藩主戸田氏定の時代にあの元禄赤穂事件が元禄14年3月14日に発生しています。
浅野長矩は戸田氏定の母方の従兄弟にあたり、この事件により戸田氏定も連座して出仕を差止めにされるというとんだとばっちりを受けています。しかし赤穂城開城後には戸田氏定も浅野家再興のために尽力しています。心の広いお方です・・・。
元禄14年(1701年)7月には大石内蔵助・小野寺十内らを大垣に招いて浅野家再興について討議しています。しかし功を奏さず、元禄15年(1702年)7月18日、浅野内匠頭の弟の浅野大学長広は広島藩お預かりとなり、事実上浅野家再興の可能性はなくなってしまいました。その後は、あの赤穂浪士討ち入りへと舞台は進んでいくわけです。
大垣藩第7代藩主戸田氏教は、藩主として善政を行っています。また幕府老中として幕政に携わり、幕府財政改革に成功した他、ロシア船来航の折は外交問題にも関わり、国家の枢機に携わっています。
というわけで、大垣藩政では大垣中興の名主と評されている名君です。
大垣藩第11代藩主戸田氏共は、1868年の戊辰戦争では最後の大垣藩主として新政府軍に与して征東軍の先鋒役を務めています。その功により戸田氏共は伯爵となり、オーストリア全権大使、式部長官などを勤めています。
現在は、大垣城本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されていて市民の憩いの場となっています。
復興天守の2階では、関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービーなど様々な動画コンテンツを閲覧できるようになっています。さらに戦国時代についての学習もできるようになっています。
火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーもあります。
2000年(平成12年)に開催された決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用されています。
天守への入場料は、一般が100円、18歳未満が無料です。
所在地 その他
住所 岐阜県大垣市郭町2丁目52番地
電話 0584-74-7875
開館時間 9:00~17:00(入場は16:30まで)
休館日 ・火曜日(その日が祝日にあたるときは、その翌日)
・祝日の翌日(その日が日曜日または火曜日にあたるときは、その翌日とし、その日が月曜日または土曜日にあたるときは、その翌々日)
・年末年始(12/29~1/3)
駐車場 大垣公園周辺に有料駐車場あり
大垣城
住所 岐阜県大垣市郭町 形式 連郭輪郭複合式平城 復興天守:複合式層塔型3重4階
遺構 石垣 曲輪 築城者 竹腰尚綱
再建造物 復興天守 乾櫓 艮櫓(外観復元) 門  城主 竹腰氏 氏家氏 伊藤氏 岡部氏 松平氏 戸田氏
駐車場 有料駐車場あり 築城年 明応9年(1500年)
文化財 大垣市指定史跡 廃城年 明治4年(1871年)
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