国特別史跡 大坂城跡
大坂城の概要
大坂城天守
大坂城天守
大坂城は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の平城です。現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門、石垣、堀などが現存し、城跡は国特別史跡に指定されています。
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれていますが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏が築いた遺構であることがわかっています。
豊臣時代の遺構は、地下に埋没していて見ることはできません。
大坂城は、上町台地の北端に位置しています。この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でした。
戦国末期から安土桃山時代初期にはこの地には石山本願寺があったのですが、1580年(天正8年)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で徳川氏により攻撃を受け、豊臣氏の滅亡とともに焼失しています。
徳川政権は豊臣氏が築造した縄張りに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされています。その後、徳川幕府の天領として近畿地方、および西日本支配の拠点となっています。姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられています。
台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっています。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用されています。
国重要文化財大坂城乾櫓
国重要文化財大坂城乾櫓
大坂城は、豊臣氏が築城した豊臣大坂城と、その落城後に徳川氏が再建した徳川大坂城とで縄張や構造が変更されています。現在地表から見ることができる縄張は、すべて江戸時代に再建された徳川大坂城のものです。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされています。
大坂城の縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀が巡らされています。台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築されています。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となっています。
徳川大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれています。また、天守など建物も構造を踏襲せずに造り替えられています。
徳川氏の目的は、この改修工事を口実として、諸藩に財政を支出させ、抵抗する勢力の力を削ぐことでした。 その結果、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になったが、総床面積から高さまで豊臣氏の天守を越えるものが上げられ、二重の堀は江戸城をしのぐ程のものとなっています。
このような事情から大坂城の天守は現在までに三度造営されていますが、いずれも外観、位置等が異なります。
豊臣大坂城のものと見られている平面図「本丸図」では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台いっぱいには建てられず、余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられています。
大坂城西外堀
大坂城西外堀
天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられています。一説には、壁板に金の彫刻を施していたといわれています。なお、5階には黄金の茶室があったといわれていますが、・・・悪趣味ですね。これでは千利休が侮るわけです。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの「日本史」にありますので、どれくらいの広さだったのかがある程度伺えます。
徳川大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じです。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られています。天守台は大天守台の南に小天守台を設けていますが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態でした。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていました。
建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったといいます。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もあります。
天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の2つがありますが、2つの指図は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置です。
国重要文化財大坂城千貫櫓
国重要文化財大坂城千貫櫓
現在、大坂城を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣です。陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って1928年(昭和3年)に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工しています。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まっています。大阪人の意気込みが感じられるエピソードです。
大坂城復興天守は昭和以降に各地で再建された復興天守の第一号でもあります。
復興天守は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、世界最古となる鉄骨鉄筋コンクリート造にサスペンション工法を用いて建てられています。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。復興天守の内部は博物館「大阪城天守閣」として利用されています。
外観は、大坂夏の陣図屏風を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当しました。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されています。
大坂城天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いています。
大坂城乾櫓
大坂城乾櫓
1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われています。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われています。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられています。
豊臣時代・徳川時代の天守が比較的短命でいずれも焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を迎え、最も長命の天守になっています。1997年(平成9年)9月3日、大坂城天守が国の登録有形文化財に登録されています。
現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っており、国重要文化財に指定されています。また、桜門の高麗門については、明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであるが、国重要文化財に指定されています。
また、現存する石垣も多くが当時の遺構です。前述するように、江戸時代の大坂城は徳川幕府の天下普請によって再築されたものですが、石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石されています。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。 石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されています。
大坂城千貫櫓と多聞櫓
大坂城千貫櫓と多聞櫓
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。
ただ、村川行弘(現・大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されています。豊臣大坂城の石垣は実は野面積みであったことから、この時点ではまだ石垣技術は進んでいなかったようです。
また、2003年(平成15年)には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も発見されています。また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されています。まあ、歴史的な事実とも符合していますね。
豊臣大坂城は、1583年(天正11年)、豊臣秀吉が上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に築城を開始しています。完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施されています。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された難攻不落の城とされています。
国重要文化財大坂城千貫櫓
国重要文化財大坂城千貫櫓
天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えています。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもむしろそれらに居城していました。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執っています。
1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で徳川家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を戦っています。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいます。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡しました。
落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられましたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入されています。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しています。
国重要文化財大坂城多聞櫓
国重要文化財大坂城多聞櫓
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当していました。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返していました。1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守が再建されることはなかっのです。
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、ここに居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されています。この前後の混乱のうちに城から出火し、城内の建造物のほとんどが焼失しています。
明治時代になると、明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用したため、城内への民間人の立ち入りは禁じられています。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられたため、後の太平洋戦争時は城が米軍の爆撃目標となっています。
1885年(明治18年)には和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名されています。紀州御殿は、大阪鎮台の司令部庁舎として利用されています。1888年(明治21年)には大阪鎮台によって本丸桜門が復元されています。
1928年(昭和3年)、当時の大阪市長關一は天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守の建設がすすめられました。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成しています。1933年(昭和8年)には紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称しています。
大手門へ向かいます
大手門へ向かいます
大阪大空襲などの太平洋戦争中の空襲により、現存していた二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失して、また青屋門に甚大な被害を受けています。特に本土終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどでしたが、さいわい天守閣は被害を免れています。
終戦後城内の陸軍用地は進駐軍に接収されましたが、1947年(昭和22年)に米軍の失火により紀州御殿を焼失しています。
1948年(昭和23年)の接収解除後は建物の修理が進められ、外堀を含む広域が大阪城公園として整備されています。1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始されました。あわせて学術調査も行われ、1959年(昭和34年)には地下から豊臣時代の遺構が発見されています。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた一角では拳銃の射撃訓練も行われています(大阪府警の射撃場は公園内玉造口付近に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京や開高健の小説の舞台ともなっています。
1983年(昭和58年) 「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪城ホールも開館されています。残されていた工廠跡にも次々と大企業のビルが建ち並び、城の北東側に「大阪ビジネスパーク」が完成しています。復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されています。
1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円、三年がかりで復元、修復される。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
2007年(平成19年) 大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明しています。実務上は、建物の所有者は大阪市であり、土地は国からの借用であるということになっています。

さて、大坂城を築いた羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名・関白であり天下人です。はじめ木下氏を名乗っていましたが、後に羽柴氏に改めています。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めています。戦国・安土桃山時代における三英傑の一人です。
大坂城本丸跡
国重要文化財大坂城大手門
羽柴秀吉は、天文6年(1537年)2月6日、尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれています。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表します。天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破って、信長の後継者としての足がかりを得ます。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継者としての地位を獲得します。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げることになります。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げますが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没しています。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評されています。
秀吉の出自に関しては、父弥右衛門は足軽から農民、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であったことは間違いないようです。
秀吉は、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として生まれています。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていましたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっています。
大坂城西外堀
大坂城西外堀
弥右衛門の素性には諸説があります。
誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、ここでもこの説に従います。
秀吉は自身の御伽衆である大村由己にいくつかの伝記を書かせているが(天正記)、それによっても素性は異なっています。
本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれていますが、関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされているが、これは事実とは考えられません。つまり、秀吉の箔付けのためにこのような虚偽の記載をしたと考えられます。
広く流布している説として、父・木下弥右衛門の戦死後、母・なかは竹阿弥と再婚したものの、秀吉は竹阿弥と折り合いが悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされています。
江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとされています。しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としています。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もあります。秀吉の出自については、ほかに村長の息子、大工・鍛冶等の技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説、などがありますが、真相は不明です。まあ、ここではやはり秀吉は足軽か農民の出身であったと考えておきます。
大坂城石垣出土地
大坂城多聞櫓門
はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となっています。
藤吉郎はここである程度目をかけられたのですが、まもなく退転しています。その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられています。
藤吉郎は天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕えるようになります。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げています。また信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていきました。その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたようです。
永禄4年(1561年)、浅野長勝の養女で杉原定利の娘ねね(高台院)と結婚しています。当時とすれば珍しい恋愛結婚だったといわれています。美濃国の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がありますが、事実かどうかはわかりません。この時点で藤吉郎が墨俣城建設のような最重要の任務を任されるほどの高い地位と信頼を受けていたのかどうか疑問だからです。しかし信長は能力第一主義で家柄より実力を重視していたので、あるいは事実だったのかも知れません。
大坂城大手門高麗門
大坂城大手門高麗門
この頃斎藤氏の影響下にあった美濃より竹中重治、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康らを配下に組み入れています。秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの書状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されています(観音寺城の戦い)。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任されています。この頃になると秀吉は織田家の重臣の一人として信長にも信頼されていたようです。
元亀元年(1570年)4月、越前国の朝倉義景討伐に従軍して、順調に侵攻を進めていくのですが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機に陥りましたが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげています。これを金ヶ崎の退き口と後世に伝えて、秀吉の立身出世のきっかけの一つに挙げています。そして元亀元年6月28日の姉川の戦いの後には奪取した横山城の城代に任じられています。浅井氏との戦いの最前線を任せられる大出世です。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげています。
天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、大坂城の城主となります。この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めています。これにより羽柴秀吉となったわけです。
大坂城市多聞跡
大坂城市多聞跡
秀吉は、近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用しています。
天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられますが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまったのです。その後、勝家らは上杉謙信に手取川の戦いで敗れています。
実は勝家は秀吉以外にも佐々成政とも仲違いをしていて、けっこう揉めていたようです。こうなると秀吉がどうこうではなくて勝家の側に問題があったとも言えるでしょう。
信長は秀吉の行動に激怒したが(当然ですね)それでも許されて何らお咎めはなかったりします。どう考えても信長はえこひいきしていますね。天正5年(1577年)10月、信貴山城の戦いで秀吉は織田信忠の指揮下で謀反を起こした松永久秀を滅ぼし功績を挙げています。
その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進出して、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えています。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼしています。天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、天正6年(1578年)7月に摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。翌天正7年(1579年)10月19日に有岡城は開城していますが、実は荒木村重は、その前に城を抜け出していたので、命拾いしていたりします。後で荒木村重は秀吉の御伽衆になっていたりするのですが、いったいどうなっているのでしょうか。 
大手門につながる塀も重要文化財です
大手門につながる塀も重要文化財です
天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃しています。また、裏切りか・・・。
この攻城戦の最中において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、別所長治を降伏させています(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国をも織田氏の勢力圏においています。
天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させています(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いています。同年、岩屋城を攻略して淡路国をも支配下に置いています。
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めにより追い込んでいます(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙したため、信長に援軍を要請しています。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。
ところが、・・・天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺害されるという大事件が発生します。いわゆる本能寺の変です。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返しています。これを世に中国大返しと呼んでいます。
大坂城多聞櫓説明板
大坂城多聞櫓説明板
秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦っています。しかし池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉に付いたうえに筒井順慶も動かなかったため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれています(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握しています。
同年6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれています。この会議は、後世に清洲会議と呼ばれていて、結果的には秀吉と勝家の対立が決定的となる原因となっています。
この会議では織田家筆頭家老の柴田勝家が信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を後継者に推していますが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(のちの織田秀信)を推しています。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人となる妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となっています。
さらに信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃、織田信包が北伊勢と伊賀、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江の滋賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられています。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられています。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国、河内国を増領し、28万石の加増となっています。
大坂城千貫櫓説明板
大坂城千貫櫓説明板
これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのでした。ただし、この時点で元々秀吉の居城であった長浜城は勝家の養子である柴田勝豊に与えられています。
いずれにしろ秀吉と勝家の対立は決定的となり、日増しに激しくなっていきます。その原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためです。これに対し、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいています。これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けています。
12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどと大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げます。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入っています。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲しています。
元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏しています。これにより秀吉は長浜城を獲得したことになります。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめています。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んでいます。
大手門と土塀
大手門と土塀
天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破っています。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻します。まず2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃しますが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされています。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かっていますが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退しています。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏しています。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢でした。
2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣します。これが賤ヶ岳の戦いの始まりです。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙します。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こっています。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑しています。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲をかけます。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走します。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた(美濃大返し)秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に敗走を余儀なくされます。
多聞櫓門をくぐりました
多聞櫓門をくぐりました
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害し、お市の方と浅井長政との三姉妹、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠継室)は秀吉に引き取られています。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えています。
5月2日には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏しています。
こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立しています。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになったわけです。
天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになります。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をする事態となります。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起しました。これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけています。さらに織田家の旧臣で去就を注目されていた美濃の池田恒興をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけています。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略しました。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢でした。
西の丸庭園入口
西の丸庭園入口
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していた森長可を羽黒の戦いで破っています。さらに小牧山に堅陣を敷き、秀吉と対峙しています。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入っています。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着しています(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされます。そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始しました。しかし、奇襲部隊であるにもかかわらず、行軍は鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまいます。これを世に長久手の戦いと呼んでいます。
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされています。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策します。これにより信雄はこれ以上の戦闘続行に不安を感じたか、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和しています。家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退しています。家康は次男・於義丸を秀吉の養子という形で人質として差し出し、羽柴秀康(のちの結城秀康)とし秀吉と講和しています。しかしどうもこの講和が秀吉にとってはある意味命取りとなったと言えます。つまり徳川氏を武力で圧倒できず、和睦することで今後徳川氏を滅ぼす機会を失ったことと、豊臣政権の脆弱ぶりを露呈してしまったことで、他大名からも侮られる要素を残してしまったと言えるでしょう。この時点でも豊臣氏に敵対する可能性がある有力大名はいくつもあり、それらを独力で滅ぼすほどの軍事力は残念ながらなかったのです。
空堀
空堀
この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近権少将に叙位任官され、そのわずか一ヵ月後の11月22日には権大納言に任官された。この急速な昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給された事になっています。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるのですが、これも同様にさかのぼって任官したことにされたものでしょう。これにより秀吉の地位は主家の織田家を凌駕することになり、実質的な「秀吉政権」が誕生したといえます。また、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなっています。
その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促すことで、家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓っています。
天正11年(1583年)、前述するように秀吉は、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に大坂城を築きます。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えています。当時としては他に類を見ない巨大な要塞でしたが、後に大坂の陣で焼亡しています。現在の大阪城は近年になって復元されたものです。天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説があります。
天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官されています。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定しています。
内堀の南側は空堀になっています
内堀の南側は空堀になっています
また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んでいます。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏します。元親は土佐国のみを安堵されることで許されています。
同年7月11日にはかねてから紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って、12月25日には太政大臣に就任し、政権を確立した(豊臣政権)。なお、秀吉は征夷大将軍職に就いて「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られたために関白職を望んだという俗説もあるがこれは後の創作です。
越中国の佐々成政に対しても8月から富山の役を開始しましたが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏します。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵し、さらに肥後一国に転封となっています。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのでした。
その頃九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていました。天正13年(1585年)関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになります。
天正14年(1586年)には豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗しています。これを戸次川の戦いと呼び、結果的に軍監の仙石久秀は失脚、十河氏は改易となり、長宗我部氏も嫡男を失ったことで御家騒動が発生し、滅亡の遠因となります。
南仕切門跡・太鼓櫓跡
南仕切門跡・太鼓櫓跡
だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させています(九州の役)。帰り道に備後へ亡命中の足利義昭のもとを訪れ、京都に連れ帰り出家させた。こうして秀吉は西日本の全域を服属させています。九州の役完了後に博多においてバテレン追放令を発布したが、事実上キリシタンは黙認されています。なぜそうなったのかですが、要するに布教と交易はセットだったために、交易を継続したい秀吉としては、徹底的にキリシタンを弾圧するわけにはいかなかったのです。
同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として北野大茶会を開催しています。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されています。ううむ、趣味が悪いな。
天正16年(1588年)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせています。同年には刀狩令や海賊禁止令を発布、全国的に施行します。刀狩と言っても基本的には自主申告的なものだったために、ある程度の刀や弓、槍は回収したものの、徹底したものではなかったようです。
天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名しています。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲します。小田原城は堅城として知られていますが、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍に対して後詰めが期待できない籠城軍には勝ち目がありません。3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏しています。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放されて小田原の役は終結しています。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示していることによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂されたといえます。
石山本願寺跡
石山本願寺跡
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉はとりあえずは戦国の世を終結させていますが、徳川氏、上杉氏、毛利氏、島津氏といった有力大名は滅ぼすことはできず臣従させるにとどまり、なかには伊達氏のように戦争を行っておらず軍事力を温存している大名もいたことで、これら有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となっています。この中でもいち早く秀吉に臣従した毛利氏は豊臣政権の“客分大名”となって優遇され、逆に、最後まで秀吉に抵抗した伊達政宗は豊臣政権にとっては潜在的な仮想敵国と見られていて、何かと冷遇されたといえます。
天正19年(1591年)、秀吉の後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、秀吉は、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、自身は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになります。ただし、秀吉は全権を譲らず、太閤として実権を握り二元政を敷いています。この年、重用してきた茶人千利休に自害を命じています。利休の弟子である古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹して、その首は一条戻橋に晒されています。この事件の発端には諸説があり、今なお謎が多い事件です。
同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こしています。南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣します。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となります。戦いの後に九戸政実・実親は助命を条件に降伏しています。しかし九戸政実は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結します。しかし九戸一族だけでなく、五千の城兵も焼き殺されたということで、酷いことをするものです。
文禄元年(1592年)、秀吉は明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵します。
この遠征を世に「文禄・慶長の役」と呼び、七年間に渡る対外戦争が開始されます。戦争初期には朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒しましたが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始されました。
石山本願寺跡
石山本願寺跡
一方、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となります。2年後の文禄4年(1595年)、秀次を「殺生関白」と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じています。
秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑されています。秀吉の命令により秀次の側室たち39人の首は次々と切り落とされ、遺体は巨大な穴に投げ捨てられています。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方が最も有力でしょう。まあ当然の成り行きとも言えます。
しかしこの事件は豊臣政権にとっては回復不能な打撃となり、滅亡の遠因となったと言えます。
文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、南岸に城塞(倭城)を築いてここを陣地とします。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦しましたが、援軍を得て勝利しています(第一次蔚山城の戦い)。その後、秀吉は6万4千余の将兵を在番として朝鮮南部に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ休養させています。
慶長3年(1598年)5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していきました。そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は同年7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼しています。つまり秀吉は自分の死後に五大老・五奉行による集団指導体制により乗り切ろうと考えていたわけでしょうが、そもそもこのような手段に頼ろうとすることこそ豊臣政権の脆弱性が原因と言えるでしょう。
修道館
修道館
5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・徳川秀忠・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答しています。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、秀吉はその生涯を終えます。
秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなりました。なお、秀吉の死因については現在も不明であるが、近年「脚気」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いでいます。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。
秀吉が死去すると、戦争継続を主張する者はほとんどおらず、五大老や五奉行によって撤兵が決定されました。
当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していましたが、撤退命令が伝えられると、全軍朝鮮から撤退しています。秀吉の死は秘密にされたままでした。中国、朝鮮との関係改善は徳川政権になってからようやく行われていますが、双方とも莫大な損害を受けていて、何ら得るものがない戦いだったと言えます。
この戦争は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらしています。明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって衰退し、後に滅亡する一因となっています。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が疲弊し、豊臣政権の滅亡の一因になっています。秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれていません。
なぜ秀吉が朝鮮遠征などという無謀な出兵を行ったのか。これについては諸説ありますが、諸大名に与える土地が国内だけでは足りなくなったために海外への侵略行為を行ったと考えるのがもっとも一般的な説でしょう。国内の矛盾を外に目を向けさせることで解決しようとしたと見ることも出来ます。いずれにしても誇大妄想と評価されても仕方のない行為といえ、豊臣政権が滅亡する直接原因となったと言えましょう。このような愚行さえしなければ豊臣政権が早期に滅亡することもなかったでしょう。
桜門へ向かいます
桜門へ向かいます
さて、次の大坂城の主となった豊臣秀頼は、文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で誕生しています。
誕生のときにはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていました。
秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)と婚約し、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承が模索されたが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させています。秀次の子女・妻妾も皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定したといえます。
秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名たちに血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んでいます。慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して諱を秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えています。いわゆる集団指導体制ということですが、五大老が五奉行の職権を侵すようになると、有名無実化してしまう制度とも言えます。これは私見ですが、秀吉としては五奉行の権限を強くして五大老が単独では行政に関与できないシステムにした方が良かったのではないでしょうか。徳川政権ではこのあたりのことはよく考えられていて大大名が勝手気ままなことが出来ないようになっています。ただ、豊臣政権は秀吉の出自の悪さや天下統一の経緯などからわかるように頼りになる直臣がほとんどいないことと、各地の大大名を独力で滅ぼせるほどの軍事力があるわけではなく、言ってみれば脆弱な体制であったと言え、徳川氏、前田氏、上杉氏、毛利氏、伊達氏などの勢力はかなりのもので、これらを無視しての政権運営が難しかったのでしょう。まあ、ただでさえ少ない直臣が払底したのは秀次事件やその他のいくつかの秀吉の失態が原因で自業自得なのですが。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移ってその主となっています。
内堀の一部が空堀なのは不可解です
内堀の一部が空堀なのは不可解です
秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていきます。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件にともなう五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆくことになります。もっとも秀吉亡き後、五大老の筆頭である家康が既に事実上のお上であると見ることも可能ですが。
慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下におかれています。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加していますが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労っています。
だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、豊臣系の諸大名が代官となり管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落しています。
ただ、一部の蔵入地からは依然として収入があった形跡があります。実際のところ、関ヶ原合戦以後の豊臣氏の直轄領の実態に関しては今ひとつ明確にはわかっていないのが現状です。また蔵入地が大名に与えられるということは、これ以前にも行われていて(例えば蔵入地であった松代城が1600年2月に森忠政に与えられているがこれは関ヶ原合戦以前の出来事である)、蔵入領は必ずしも豊臣氏の私的な領地ではなく、公的な土地であった一面があるようです。
元々豊臣氏の蔵入領は、各地の大名の領地を太閤検地により土地の収穫高を差し出させて石高を定め、その一部を没収する形で豊臣政権の直轄領としていたもので、各大名としてもうっとうしい存在であったと思われます。
慶長8年(1603年)2月、家康は、鎌倉幕府・室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得し、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めています。秀頼はしだいに天下人の座からはずされてゆくことになりますが、その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階・官職の昇進をとげ、毎年の年頭には公家衆が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けています。
この空堀を渡って攻め入るのは困難でしょう
この空堀を渡って攻め入るのは困難でしょう
武家の世界においても秀頼家臣は陪臣ではなく徳川直参と同等に書類に記載されるなど秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本に二つの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もあります。確かに形式的にはそうでしょうが、豊臣政権の力が及ぶ範囲は小さく、実質的には極めて弱体化していたと言えるでしょう。
同年7月、秀頼は、生前の秀吉のはからいで婚約していた徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・お江)と結婚しています。
慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するのですが、淀殿の反対で結局は実現せず、家康は秀頼との面会を断念し、六男松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させています。
慶長12年(1607年)1月11日、秀頼は右大臣を辞職しています。
慶長16年(1611年)3月、家康のはからいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行っています。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれています。この点についても評価はたいへん難しいのですが、私見では秀頼が江戸に行ったわけではなく、大坂に近い京都で家康と面会したのですから、これにより直ちに秀頼が家康に臣従したとまでは言い切れないと思います。もちろん徳川氏が優位な会見であったことは間違いないでしょう。それと家康が秀頼を討伐することを決意したのは実はこの会見の時ではないかと思われる節があり、歴史的には重大な意味を持つ会見であったと言えましょう。秀頼はこの時、18歳。家康は秀頼が実に偉丈夫な青年に成長しているのを見て、いずれ自分の子か孫を滅ぼすのではないかと恐れたとしてもおかしくはありません。実は秀頼はたいへんな大男だったようです。またとても家康の命令をおとなしく聞くような人物ではないと判断されたようです。
国重要文化財大坂城桜門
国重要文化財大坂城桜門
家康も、将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされています。秀吉の遺児、秀頼を討伐するのは大義名分がなく、さらに千姫が嫁いでいる以上、滅多なことはできないと家康も考えていたでしょう。しかし最終的には、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発します。
秀頼は、福島正則・加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしましたが大坂方に参じる者はほとんどなく、正則が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認した程度にとどまった。一方、関ヶ原の戦いで改易された元大名である真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登などのほか、主家が西軍に与して改易されて浪人していた数万の武士が大坂城に入城しています。
浪人衆は非常に士気旺盛ではありましたが、なにしろ寄せ集めなので統制が取りにくく、しかも浪人衆と大野治長・淀殿らが対立し、最後まで対立は解けなかったのです。例えば真田信繁などが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑強に反対し大坂城籠城に決するということもあり、どうにも勝ち目は薄い戦いでした。緒戦では木津川口、博労淵などの大坂城の周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城に撤収、野田・福島の水上戦でも敗れています。ただ今福・鴫野の戦いでも敗れてはいますが、佐竹義宣軍を一時追い詰める抵抗を見せたため、大坂方強しと周知されます。大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方が手酷い損害を受けています。そこで幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えています。本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたといわれています。淀殿が和議に賛成したのはこのためだとの説もあります。やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽きはじめ、家康は和議を提案。秀頼は当初、和議に反対したといわれていますが、淀殿の主張などによって和議が成立しました。
銀明水井戸の井筒
銀明水井戸の井筒
和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれています。しかし、家康はこれを恒久講和として考えてはおらず、戦争の再開を視野に入れていました。大坂方が和議の条件を履行するのを待たず、幕府自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊しています。大坂方はこれに抗議しますが、逆に幕府からは浪人の総追放や国替えを要求されています。
翌慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発します。
まず大野治房が軍勢を率い大和郡山に出撃、制圧・略奪して帰還します。これにより筒井氏は滅亡します。豊臣方は阪南から北上してくる幕府の大軍を、数で劣る自軍でも撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、主力軍が八尾方面に進軍します。
八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させています。ただ奮戦した木村重成・後藤基次が討ち死に、撤退を余儀なくされます。また紀州の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく大野治房らが出撃するも、樫井の戦いで先陣の塙直之が浅野軍に破れ、本隊が到着したときには浅野勢は紀州に撤退済みだったのでなすすべもなく帰城します。
敗戦続きで兵力が疲弊した大坂方は、家康、秀忠が大坂に布陣したところに最終決戦を挑みます。これが天王寺・岡山の戦いです。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが、これは実現しなかったのです。淀殿がわが子かわいさに頑強に首を縦に振らなかったためというのですが、この期に及んで馬鹿な女だ・・・。
国重要文化財大坂城桜門高麗門
国重要文化財大坂城桜門高麗門
岡山口方面では大野治房率いる軍勢が秀忠の本陣に切り込むまで追い詰めますが、態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退を余儀なくされます。
天王寺方面には真田信繁・毛利勝永らが布陣。信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方双方から称賛されるほどの獅子奮迅ぶりを見せ、立ちふさがる徳川方を次々と蹴散らし、ついに家康本陣へ肉薄し、数度にわたる壮絶な突撃を敢行しました。一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、ついに及ばず、信繁は退却中に力尽きて討ち死にし、ほかの大坂方の部隊も次々と壊滅していきました。
大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に突入します。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめるなか、やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲されます。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが家康の容れるところとならず、秀頼は淀殿や大野治長らとともに自害しています。秀頼、享年23。
息子の国松は逃亡したものの結局捕らえられて殺害されています。娘の天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命されています。
墓所は京都市東山区の養源院ほか。また大阪市中央区の豊国神社は、父秀吉・叔父秀長とともに秀頼も祭神としています。
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡地から秀頼とされる遺骨が発掘され、京都の清凉寺に埋葬されたが、真偽は不明です。
これにより豊臣氏は滅亡し、大坂城も灰燼に帰したが、前述するように徳川氏の手によって再建されて、幕末まで存続します。

桜門桝形 桜門桝形の巨石
桜門桝形 桜門桝形の巨石
桜門桝形の巨石は蛸石と呼ばれています 旧大阪市立博物館は戦前は第四師団司令部庁舎でした
桜門桝形の巨石は蛸石と呼ばれています 旧大阪市立博物館は戦前は第四師団司令部庁舎でした
大坂城天守 本丸御殿跡
大坂城天守 本丸御殿跡
世界万博の際のタイムカプセル タイムカプセル
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天守は基本的には徳川時代のものを基にしています 日本庭園を天守から
天守は基本的には徳川時代のものを基にしています 日本庭園を天守から
大坂城天守閣は国登録有形文化財に指定されています 大坂城天守にエレベータが新設されています
大坂城天守閣は国登録有形文化財に指定されています 大坂城天守にエレベータが新設されています
今日は大坂城天守閣復興80周年記念イベントを開催 天守は望楼型5重5階構造です
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内堀 ここは内堀が水堀と空堀に分かれています
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桜門桝形の巨石群 内空堀
桜門桝形の巨石群 内空堀
豊国神社 大坂城説明板
豊国神社 水飲み場
秀吉像 どうやら結婚式があったようですね
秀吉像 どうやら結婚式があったようですね
豊国神社社殿と鳥居 豊国神社社殿
豊国神社社殿と鳥居 豊国神社社殿
空堀の説明板 ロードトレイン
空堀の説明板 ロードトレイン
豊国神社鳥居 内堀
豊国神社鳥居 内堀
内空堀 空堀部分は豊臣時代からそうだったようです
内空堀 空堀部分は豊臣時代からそうだったようです
石山本願寺と大坂説明板 蓮如上人袈裟懸けの松
石山本願寺と大坂説明板 蓮如上人袈裟懸けの松
内堀石垣は相当の高さです この石垣も徳川氏時代の遺構です
内堀石垣は相当の高さです この石垣も徳川氏時代の遺構です
大坂城梅林 梅林
大坂城梅林 梅林
内堀と石垣 極楽橋
内堀と石垣 極楽橋
内堀北西側と石垣 この部分の石垣は低いですね
内堀北西側と石垣 この部分の石垣は低いですね
青屋門内側 青屋門の説明板
青屋門内側 青屋門の説明板
青屋門内側 青屋門外側
青屋門内側 青屋門外側
青屋門跡 外堀
青屋門跡 外堀
極楽橋 天守を西から見ると
極楽橋 天守を西から見ると
極楽橋と水堀 内堀
極楽橋と水堀 内堀
天守と石垣と水堀 北側から見た天守
天守と石垣と水堀 北側から見た天守
極楽橋と水堀 北側から見た天守
極楽橋と水堀 北側から見た天守
天守と石垣 内堀と石垣
天守と石垣 内堀と石垣
天守 内堀と石垣
天守 天守
こま犬 こま犬
こま犬 こま犬
京橋口 京橋口桝形の巨石
京橋口 京橋口桝形の巨石
京橋口 京橋口の説明板
京橋口 京橋口の説明板
京橋門跡 京橋
京橋門跡 京橋
西外堀 乾櫓
西外堀 乾櫓
大坂城跡
所在地 大阪市中央区大阪城公園
遺構 櫓、門、石垣、堀、井戸
再建造物 復興天守、青屋門
施設 豊国神社、修道館、公園、その他
駐車場 公園周辺に駐車場あり
文化財 国特別史跡(城域)
国重要文化財(櫓5棟、門2棟など)
国登録有形文化財(天守)
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式望楼型(1585年築 非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階(1626年再 非現存)
独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興)
築城者 豊臣秀吉
城主 豊臣氏、松平忠明、徳川氏
築城年 1583年(天正11年)
廃城年 1868年(明治元年)
大坂城天守閣
住所 大阪市中央区大阪城1番1号
電話 TEL 06-6941-3044
営業時間 午前9時から午後5時まで(最終入館は午後4時30分まで)
休館日 年末年始(12月28日から翌年1月1日)
入館料 大人600円、中学生以下無料
大坂城西の丸庭園
住所 大阪市中央区大阪城2番
電話 TEL 06-6941-1717
営業時間 9:00~17:00 (11~2月は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
入場料 大人200円 (観桜ナイターは350円)
* 中学生以下、市内居住者65歳以上及び障害者の方は無料
 スライドショー
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国特別史跡 大坂城跡マップ
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