史跡 新庄城跡
新庄城の概要
新庄城説明板ですが、かすれてしまっています
新庄城説明板ですが、かすれてしまっています
新庄城は、富山県富山市新庄町一丁目にあった平城ですが、現在は城跡は新庄小学校となっていてその形跡はありません。
グラウンドあたりが本丸であったと考えられています。城域は東西140m、南北100mで、本丸と二の丸からなる城でした。周囲は土塁と堀が巡っていて、堀は約8mの幅を持っていたと伝えられています。
実は戦国時代初期までは、富山の中心地は現在の富山城周辺ではなく、この新庄周辺であったようで、この地は東側に常願寺川、西側には荒川と川に挟まれていて要害の地にあり、北陸道が通る交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の重要拠点とされていました。
築城された時期も明確ではありませんが、永正17年(1520年)、越後国守護代長尾為景は父能景の仇を討つべく、この新庄城に陣を張り、神保慶宗が長尾勢に総攻撃をかけてきたと伝えられていますので、この頃と考えられます。
このときに長尾軍が新庄に陣したという記述が新庄城が登場する歴史上はじめての記録です。
この新庄合戦の際には、双方とも多大な損害を出したとあります。この戦いでは神保氏には椎名氏や土肥氏など越中国の有力領主が味方していましたが、最終的にはこの戦いに敗れ、神保慶宗は敗走中に自害したと伝えられています。それにしてもなぜ神保軍が敗れたのでしょうか。本来ならば地の利は神保軍にあり、長尾軍は敵地深く入り込んでいたので、もしここで敗れれば父能景と同じ運命になっていたでしょう。
実はこの戦いの前に長尾軍は畠山氏とともに一向一揆と交渉していたのです。つまりこの戦いには一向一揆は関与しないでほしいと申し入れていたわけです。
新庄小学校グラウンドが本丸跡です
新庄小学校グラウンドが本丸跡です
もともと長尾能景が敗死したのも一向一揆の計略にかかったためであって、一向一揆勢としては、あくまで神保氏に味方しても良かったとも言えるのですが、基本的に一向一揆は大名勢力同士の抗争には不関与という立場を取りがちであったことと、長尾氏と畠山氏の双方を同時に敵に回すのはいかにも不利だと考えたのかも知れません。
とにかく一向一揆は神保氏と長尾氏との抗争には関与せず、ここまで長尾氏と畠山氏の攻撃を何度も撃退していた神保慶宗の武運は遂に尽きてしまったのでした。
神保氏、椎名氏ともこの時の戦いで当主を失い、一時衰退することになりますが、実はしばらくすると息を吹き返してくるというしぶとさを見せてくれます。
元亀3年(1572年)には上杉謙信の武将鯵坂長実が新庄城に在城し、同年5月には一向一揆が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となっています。しかし新庄城も一向一揆に包囲されていますが、上杉謙信の軍略の冴えによって一向一揆は尻垂坂の戦いで敗れて壊滅しました。一向一揆には神保氏や椎名氏も連合していましたが、いずれも大打撃を受けて滅亡への遠因になってしまいます。上杉謙信の死後、越中には織田軍が侵攻してきます。
天正8年(1580年)、織田信長方の神保長住が新庄城を攻めて落城させています。その後、神保長住が追放されると、佐々成政が富山城城主となり新庄城も佐々成政の城となっています。天正13年(1583年)には上杉方の弓庄城主である土肥政繁が一時新庄城を奪っていますが、佐々成政は新庄城を奪回しています。その後、越中が前田氏の領地となり、元和元年(1615年)までには新庄城も廃城となったと思われます。
現在の新庄城跡には残念ながら遺構らしきものは見あたりません。
新庄城の発掘調査が実施されていますが、その際の調査地点は新庄小学校の構内にあります。幅7.6m以上、深さ1.3m以上の堀や石組井戸、大規模な盛り士造成の跡が見つかり、文献に現れる新庄城の存在が明らかになりました。
新庄城築城前の室町時代(約600~550年前)には、幅3.5m、深さ1.2mの堀や士塁で囲まれた館が存在したこともわかりました。
室町時代に存在した有力者の館が、応仁の乱(1467年)前後に堀や士塁を大型化させて防御性を高めた城に造り替えられ、その後も改修を繰り返した過程がわかりました。
新庄城跡からの出土品 土師器
新庄城跡からの出土品 土師器
円面硯 土師器
円面硯 墨書土器
青磁・白磁・碁石 鉄滓・塼・坩堝・鞴の羽口
青磁・白磁・碁石 鉄滓・塼・坩堝・鞴の羽口
石組井戸(新庄城Ⅴ期) 珠洲焼
石組井戸(新庄城Ⅴ期) 珠洲焼
古瀬戸焼・瀬戸美濃焼 灯明皿・中世土師器
古瀬戸焼・瀬戸美濃焼 灯明皿・中世土師器
堀・土塁(新庄城Ⅰ期) 堀(新庄城Ⅳ期)
堀・土塁(新庄城Ⅰ期) 堀(新庄城Ⅳ期)
下層完堀状況 曲物・建築部材・漆器
槽型木製品・弓状木製品 曲物・建築部材・漆器
下層完堀状況 新庄城跡 縄張り図
下層完堀状況 新庄城跡 縄張り図
木組と石組の井戸 編組出土状況
木組と石組の井戸 編組出土状況
第1表 新庄城関係史
年代 城主 出来事
1520(永正17) 長尾為景(上杉方) 越中守護代神保慶宗と対戦し神保氏が敗れる。(新庄の合戦)
※新庄の名が史上にあらわれる最初臨時の軍事拠点か
~1550(天文19) 三輪飛騨守(神保方) 天文年間に三輪氏が築城し代々居住する。椎名方と争う。
1550(天文19) 轡田備後守(椎名方) 三輪飛騨守没落し、椎名方大村城主轡田備後守が新庄城城主となる。
その後井上肥後守に城を譲る。
1571(元亀2) 井上肥後守(椎名方) 新庄城、上杉方に攻められ落城。井上肥後守敗走。
1572(元亀3) 鯵坂長実(上杉方) 新庄城に陣し、太田保内を攻めた井上肥後守を破る。
上杉謙信、新庄城に陣し、一向一揆勢の拠る富山城を攻め落城させる。
(尻垂坂の合戦)
飛騨の将江馬輝盛が来陣し、上杉謙信に面謁する。
1578(天正6) (上杉方) 織田方の斉藤新五が越中に侵攻し、新庄村の地蔵堂坂口に至ったため、上杉方の兵が新庄城より出撃し戦う。(地蔵堂東坂口の合戦)
その後上杉方の軍を破る(月岡野の戦い)
1580(天正8) (上杉方) 織田方の神保長住、新庄城を攻め、金山城下に到着。
1581(天正9) 上杉方松倉城主河田豊前守と富山城主佐々成政が荒川の河原で戦う。(荒川の合戦)。
1583(天正11) 土田将監
加藤大蔵(佐々方)
土肥政繁の将、杵屋平左衛門に襲われ落城。
佐々成政、越中を平定。
1587(天正15) (前田方) 佐々成政、肥後転封により新庄城は前田利家の所有となる。
1615(元和元) 一国一城令により廃城となる。
前田利常が城跡に御陣屋をつくる。
新庄城跡
住所 富山県富山市新庄町1丁目 形式 平城
遺構 なし(地下に多数の遺構あり) 築城者 不明
施設 説明板 城主 上杉氏 神保氏 佐々成政 前田氏
駐車場 なし 築城年 永正年間 1520年以前
文化財 なし 廃城年 元和元年(1615年)
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新庄城
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