国史跡 新府城跡
新府城跡の概要
新府城遠景
新府城遠景
新府城は、現在の山梨県韮崎市中田町にある平山城です。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されています。本丸跡には藤武稲荷神社が建立されています。
この新府城は、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に築かれた平山城です。西側は侵食崖でその下には釜無川が流れ、東には塩川が流れています。石垣を持たない土塁のみの平山城で、本丸・二の丸・東ノ三の丸・西ノ三の丸・稲荷曲輪などの曲輪を持ち、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口、鉄砲出構、蔀の構えなどの防御施設を持っています。当城の本丸・二の丸は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度ですのでこの新府城も政庁としても使用する意図があったと思われます。
近年には発掘作業や間伐など整備がなされて、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認されています。
また、陶磁器類も出土しています。支城としては白山城・能見城があります。
勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられます。具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀に敵兵をおびき寄せて、そこへ横矢を掛け敵兵を攻撃して、断崖・川へと続く堀へ追い落とすことにより敵兵を撃退できるわけです。城の規模が比較的小さくても、このように防御正面を限定することで少数の兵でも防御が可能になり、結果的になかなか落城しない実例は多く見られます。同様な構造の代表的な城に遠江の諏訪原城・小山城、信濃では大島城が見られます。
新府城東出構
新府城東出構
ただし、新府城の場合は本城ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、その規模の大きさは群を抜くものです。また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されています。ただし、これらの北側防塁は天正壬午の乱の際に徳川家が構築したものとの説もありますが・・・。しかし徳川氏が急にこれだけの防御施設を築くと言ってもそれだけの余裕があったかどうか。
以上に見られるように新府城の大規模な構造は、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提として築城されたと考えられ、武田軍主力がここに駐屯する事を念頭に置いていたことになります。実際にも天正壬午の乱の際に徳川家康がここを本陣として使用しています。
また新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられます。五稜郭が築かれた幕末では既に五稜郭は時代遅れの構造でしたが、天正年間においては、まだ大筒は一般的ではなく、飛び道具としては鉄砲が最強の武器であったので、土塁が高ければ充分効果があったと思えるのですが、現在の遺構について言えば土塁の高さが充分ではないように思えるので、これだと鉄砲出構が敵の砲火にさらされるのではないかと心配になります。もっとも当時はこの上に城壁があったのだと思いますが。この鉄砲出構は、当時としては斬新な設計に基づく防御施設であったと言えます。また、もう一つの新機軸としては蔀の構えと呼ばれる土塁による防御施設が築かれていますが、これらの新機軸は、真田昌幸の設計によるものなのでしょうか。
新府城東堀跡
新府城東堀跡
この新府城が実際に使用された期間は短いのですが、七里岩突端部の南北7-8km、東西2kmという周辺の自然地形全体が防塁としての役目を持っていたと考えれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城であると評価できます。
戦国期、武田氏は武田信虎の時代には古府中(甲府)に居館である躑躅ヶ崎館を築いて、家臣団を集住させて城下町を形成しています。武田晴信の時代には甲斐から信濃へと進出し、領国拡張と平行して城下の整備拡張が進み、躑躅ヶ崎館は政庁としての役割を持っていました。さらに武田勝頼の時代にも整備は行われていますが、やはりすぐ後背に山を持つ甲府は防御には適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野、駿河へと拡大した武田氏の領国統治にとっては不便になってきたため、府中の移転が企図されたと考えられています。実際に武田氏館を訪れてみるとわかりますが、市街地の北端にあり、これより北側は山があって市街地が伸びようがなく、南側には荒川があって市街地の拡張には障害があるので、これ以上の市街地の拡張は当時としては難しかったのでしょう。
武田勝頼が織田軍に滅ぼされた後、信長も本能寺の変により滅ぼされ、天正壬午の乱の後、甲府に入府した徳川家康は城下町南方の一条小山に甲府城を築いて支配拠点とし、以来豊臣系大名時代から江戸時代にかけては甲府城を中心とした新たな城下町が形成されています。
甲府城は、現在では甲府市街地の中心部にありますが、当時は南端に位置していて、現在に至るまで市街地は南に伸びていったということになります。
現在の参道から下を見下ろす
現在の参道から下を見下ろす
武田勝頼が新たに本拠地として選定した韮崎は、甲府盆地の北部にあり、武田領国の中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと言われています。・・・しかしこれは本当なのかな。私の私見では、韮崎は前述するように釜無川と塩川に挟まれていますし、水害に襲われやすいことを考えると市街地の拡張に向いている地形とは思えません。やはり甲府の方が良いのでは・・・。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝であることも、新城築造の背景にあると考えられています。確かに交通の便ではむしろ甲府よりも良いかもしれませんが・・・。
しかし実際のところは、武田勝頼としては織田軍が甲斐に攻め込んでくることを想定して、とにかく要害となる城を築くことを優先させて、新府城築城を急がせたのだと考えた方が事実に近いのではと思います。当時の状況としては、高天神城が落とされて、防衛ラインが崩れたため、いつ織田軍が攻め込んでくるかわからないのに、のんびりと城下町の移転を検討している段階ではなかったと思うのですが。
新府城の史料上での初見は、天正9年(1581年)に武田勝頼が家臣の真田昌幸へ普請を命じたものです。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に武田軍が敗北した後、勝頼は領国支配を強化するようになり、河内地方から織田・徳川領国と接する駿河を領する穴山信君が織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への新たな築城を進言したといわれています。某漫画では、穴山信君が勝頼に不満を持ち、既に徳川方に寝返っていて、勝頼に軍費を使わせ、財政的に破綻させ、さらに昌幸に築城に集中させたとの設定でしたが・・・。ただし、事実関係としてはあの漫画の通りなのでしょうが。
築城は翌天正10年(1582年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移転しています。ただし、この時点ではまだ城は完成していなかったようです。まあ、あれだけの規模の城を数ヶ月で築くには相当の人員と費用が必要でしょうが、当時の武田家は金山も枯渇していたし、相次ぐ出兵で財政的には相当に苦しい状況であったと考えられ、それこそ某漫画の筋書き通りであったと思えるのです。
藤武稲荷神社
藤武稲荷神社
現在の城跡から発掘された遺構から考えると、大手口の門がまだ完成していなかったらしいこと、二の丸の建物はまだ完成していなかったらしいこと、本丸の建物は一応完成していたらしいことなどが推測されています。つまり勝頼は曲輪や土塁、堀などの普請を急がせていて、本丸御殿は完成したのでとりあえず入城したものの、多数の兵を駐屯させる建物などはまだ完成していなかったのだと思われます。ううむ、確かにこれでは籠城するのは無理でしょうね。武田征伐の際に勝頼が新府城に籠城することなく城に火を放ち退去しているのも、こういう理由からだったのですね。
しかし、この新府城はかなり大規模な城ではあるのですが、それにしても完成しないままで入城して、すぐに退去せざるを得なかったとは悲運の城でした。せっかく蔀の構など新機軸が導入された城だったのに・・・。
天正10年(1582年)、信濃国木曽福島城主・木曾義昌が同年2月1日に織田氏に寝返った事を知った勝頼は、翌2日には謀反を鎮圧するため木曾福島へ出兵していますが、鳥井峠の戦いでは雪と寒気に苦しめられ、さらに織田・徳川連合軍に阻まれて撤退しています。木曾義昌は新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返ったと考えられていて、やはり新府城築城による財政破綻が原因となっています。
織田軍はさらに信濃国へ侵攻して、深志城が開城、さらに下伊那衆全体が織田方に寝返るなど、武田軍は総崩れになります。
勝頼は諏訪へ兵を進め、塩尻峠で織田軍を迎え撃とうとしましたが、なんとここで穴山信君が徳川方に寝返ったため、勝頼は新府城に退却します。穴山信君の裏切りを知った武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのです。穴山信君の裏切りは、武田氏滅亡の決定打となったわけです。
新府城本丸跡
新府城本丸跡
武田軍で唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が城主となっていた高遠城だけでした。高遠城が落城し、盛信が敗死したのが同年3月2日のことでした。盛信、享年26。この際に副将の小山田昌行も自刃しています。
織田軍は信濃から、徳川軍は駿河からさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて撤退します。勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠で今度は小山田信茂の謀反にあい、天目山へ追い詰められ、この天目山の戦いで武田勝頼は滅亡することになります。同年3月11日のことでした。勝頼、享年37。勝頼の辞世の句は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」
武田勝頼とともに嫡男信勝、正室北条夫人なども戦死もしくは自害していて、これにより武田宗家は断絶します。信勝、享年16。北条夫人、享年20。
この際に長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、安倍勝宝、小宮山友晴、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死もしくは敗死しています。跡部勝資もこの時に敗死したとも殉死したとも言われていますが、実は諏訪攻防戦で敗死したということのようです。大熊朝秀は、元々は越後の国人で上杉謙信の配下でしたが、反乱を起こして鎮圧され武田家に逃れていました。しかし武田家とは相性が良かったようで、そのまま天目山まで同行していたわけです。大熊氏の子孫は真田家に仕えていて、家老にまで昇格しています。
その他の武田御親類衆の中で、まず信玄の弟で勝頼の叔父である武田信廉は、戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害されています。享年51。
本丸跡にあるこの窪みは井戸跡でしょうね
本丸跡にあるこの窪みは井戸跡でしょうね
また信玄の弟信繁の嫡男である武田信豊は小諸城に逃れて、再起を図ろうとしたのですが、小諸城主の下曽根信恒に叛かれ、二の丸に火を掛けられて、嫡男や生母、家臣とともに自害しています。享年34。
小山田信茂は、前述したように土壇場で勝頼を裏切り、織田信忠に投降していますが、織田信忠から勝頼を裏切ったことを咎められ、甲斐善光寺で嫡男とともに処刑されています。享年44。
また、勝頼の弟である葛山信貞も甲府の甲斐善光寺において自刃しています。
叔父の一条信龍も、3月10日に徳川勢1万に対し手勢3百で突撃して信就と共に討死にしています。享年44。なおこの一条信龍は、たいへんな伊達男だったと伝えられています。
また、やはり叔父の武田上野介信友も織田軍が甲府を占領すると捕縛され、3月7日に処刑されています。
主立った御親類衆の内、生き残ったのは、木曾義昌と穴山信君でしたが、穴山信君は、武田征伐の後、信長から所領を安堵された御礼を言上するため家康とともに上洛しています。堺を遊覧していた際に本能寺の変が起こったため、急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、信君一行は、なぜか家康一行とは別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されています。享年、42。
しかしなぜ信君が家康とは別行動をとったのかが謎です。要するに、家康を信用していなかったのでしょうね。
同年6月には京都で信長が本能寺の変により討たれ、武田遺領を巡って徳川氏と北条氏の争奪戦が甲斐、信濃で勃発します。
これを天正壬午の乱と呼んでいますが、この際には新府城が徳川方の戦略上の重要拠点となっています。
天正壬午の乱の終結により、甲斐、信濃は徳川領となりますが、天正18年(1590年)に北条氏が小田原征伐により秀吉に降伏し、徳川氏が北条氏旧領に国替になると、新府城も廃城となっています。
新府城蔀の構
新府城蔀の構
さて、この新府城ですが、台地の東西を川に挟まれていて、城の南北にもいくつかの防塁があって、なかなかに堅固な城なのでここに籠城できればそう簡単には攻め落とされる事はないでしょう。
しかし武田勝頼が城を築いたのが遅すぎて、完成する前に織田軍に攻め込まれているのは、残念でした。
勝頼の嫡男である信勝は、この城を枕に討ち死にするのが本当で、城に火を放って逃げるなど潔しとしなかったようですが、その言い分にも一理はあるでしょう。もっとも城が未完成の状態で籠城しようにもできる状態ではなかったのは事実ですが。
結局は、この城を築いたことで武田氏が財政的に破綻してしまい、家臣団に過重な負担をかける結果になったことで、御親類衆の裏切りを招いたと言えるでしょう。
要するに、当時の戦国大名の立場というのは、家臣団の支持を失ってしまえばそれで終わりということであり、武田氏が強大な武力を誇っていたうちは家臣団の離反も起こらなかったのですが、一度凋落を始めると、悪循環に陥り滅亡する結果となったのでしょう。そもそもあの長篠の戦いも、武田家中の分裂と統制の乱れから、御親類衆はほとんど戦わずに無傷で逃走しているのに対して、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊などの重臣たちは最後まで踏みとどまって戦死しています。
これらの重臣たちを失ってしまった勝頼は、家中の統制を強化しようとして、かえって国人衆にも御親類衆にも反感を持たれてしまい、最後の場面で皆に裏切られてしまったわけです。しかしこれだけの裏切り劇が発生するとは日本の歴史上でも稀な出来事ではないかと思われます。まあ、越前の朝倉義景、周防の大内義隆も裏切り劇により滅亡していますが、それでもこれほどではなかったですね。朝倉義景は朝倉景鏡の裏切りにより自害していますし、大内義隆は陶晴賢の裏切りによって滅亡していますが、家臣団全体が裏切ったとまではいきませんでしたからね。しかしこの2例も基本的にはそれまで領地を維持してきたのに、家中の支持を失って、居城を捨てて逃亡したが結局は滅亡したという似たような経緯を辿っていて興味深い事例と言えます。
蔀の構にある土塁
蔀の構にある土塁
一方、徳川家康は、天正壬午の乱により甲斐、信濃を得ることに成功し、武田氏旧臣を多数召し抱えることができたことで、その軍事力は飛躍的に増大することになります。
現在の遺構を回ってみると、本丸、二の丸ともたいへん広い曲輪だという点があります。これは織豊系城郭の特徴の一つですが、この時期の武田家の築城手法も比較的広い曲輪を少数持つようになっていたようです。やはり武田氏の勢力拡大にあわせて、政庁も大きいものになったということでしょう。
また丸馬出しを持っているのは、武田家築城手法の特徴ですがこの城も同様で、二つの丸馬出しを持っています。
ちょっと気になった点は、これだけ広い城を持っていて多数の将兵を収容できる造りになっていたと思われるのに井戸の類が一ヶ所しかなかったことです。大量の水が必要になるでしょうから、井戸がもっと必要だったと思うのですが。まあ、掘れば水は出てきそうな場所ではあります。
それと新府城の築城術の一つの特徴として、蔀の構えと呼ばれる構造があります。これは、城内を見通せないように工夫された防御施設であり、土塁や塀によって視界を遮るような造りになっています。
また城の北側は防御が手薄いために水堀となっていたようです。
水堀の内側には鉄砲出構と呼ばれる小規模な曲輪があって、城に近づく敵兵に火力を集中できるようになっているとの触れ込みでしたが・・・・、それにはちょっと土塁の高さが足りないのではと思います。これだと敵方から逆に砲火を集中されるのではないかと心配になります。ですから、ここは城壁があり、そこから鉄砲を撃っていたのだと考えないとおかしいでしょう。

蔀の構を構成する土塁 本丸の周囲には土塁が巡らせてある
蔀の構を構成する土塁 本丸の周囲には土塁が巡らせてある
蔀の構を構成する土塁 二の丸と本丸の間に植え込みがあるのですが
蔀の構を構成する土塁 二の丸と本丸の間に植え込みがあるのですが
植え込み 新府城二の丸南側
植え込み 新府城二の丸南側
新府城二の丸 新府城二の丸から蔀の構を見る
新府城二の丸 新府城二の丸から蔀の構を見る
この道路は後年に造られたものです 馬出があるのです
この道路は後年に造られたものです 馬出があるのです
本丸の南にある帯曲輪らしいが 左側が馬出です
本丸の南にある帯曲輪らしいが 左側が馬出です
植込を仕切る土塁 植込南側
植込を仕切る土塁 植込南側
植込北側 本丸西側の土塁
植込北側 本丸西側の土塁
植込北側 植込は空堀なのか曲輪なのかイマイチわからない
植込北側 植込は空堀なのか曲輪なのかイマイチわからない
本丸北側の帯曲輪 本丸はかなり広い
本丸北側の帯曲輪 本丸はかなり広い
本丸西側の土塁 本丸からの展望
本丸西側の土塁 本丸からの展望
本丸北側の土塁 この石は何でしょうか
本丸北側の土塁 この石は何でしょうか
うう・・・長篠役陣歿将士之墓とは・・・ この石は何でしょうか
うう・・・長篠役陣歿将士之墓とは・・・ 馬場信房、山県昌景の名が・・・
こちらには内藤昌豊、原昌胤の名が・・・ こちらは総大将武田勝頼が祀られています
こちらには内藤昌豊、原昌胤の名が・・・ こちらは総大将武田勝頼が祀られています
武田勝頼と長篠で戦死した将士を祀っています 新府城本丸跡を示す立て札
武田勝頼と長篠で戦死した将士を祀っています 新府城本丸跡を示す立て札
二の丸につながっている馬出 二の丸西側の土塁
二の丸につながっている馬出 二の丸西側の土塁
二の丸南側の馬出との仕切りの土塁 馬出
二の丸南側の馬出との仕切りの土塁 馬出
馬出内部 赤い鳥居
馬出内部 赤い鳥居
神社への参道は急階段 参道入口の赤く大きい鳥居
神社への参道は急階段 参道入口の赤く大きい鳥居
神社への参道 首洗い池跡・・・
神社への参道 首洗い池跡・・・
城の北側にある堀跡 東出構
城の北側にある堀跡 東出構
南大手門の案内板 大手門跡
南大手門の案内板 大手門跡
大手門の周囲は土塁に囲まれている 大手門は枡形地形になっています
大手門の周囲は土塁に囲まれている 大手門は枡形地形になっています
大手門望楼跡 この大手門は実際には完成していなかったようです
大手門望楼跡 この大手門は実際には完成していなかったようです
大手門を望む 三日月堀
大手門を望む 三日月堀
三日月堀には水があったのか 三日月堀は明確に残っています
三日月堀には水があったのか 三日月堀は明確に残っています
しかし山城でこの遺構は珍しいですね 大手門望楼跡は、かなり高い土塁です
しかし山城でこの遺構は珍しいですね 大手門望楼跡は、かなり高い土塁です
東三の丸 東三の丸と西三の丸の間の土塁
東三の丸 東三の丸と西三の丸の間の土塁
西三の丸 東三の丸と西三の丸の間の土塁
西三の丸 東三の丸と西三の丸の間の土塁
西三の丸の看板なのですが・・・ 西三の丸はかなり広い郭です
西三の丸の看板なのですが・・・ 西三の丸はかなり広い郭です
馬出しがありますね 帯郭だと思うのですが
馬出しがありますね 帯郭だと思うのですが
馬出し郭 どちらかというと武者隠しのような感じです
馬出し郭 どちらかというと武者隠しのような感じです
西出構 西出構
西出構 西出構
搦め手 水濠
搦め手 水濠
水濠 土塁
水濠 土塁
新府城跡
住所 山梨県韮崎市中田町 形式 連郭式平山城 (標高520m/比高80m)
遺構 土塁 空堀 曲輪 築城者 武田勝頼
施設 説明板 石碑 トイレ  城主 武田勝頼 徳川家康
駐車場 無料駐車場あり 築城年 天正10年(1582年)
文化財 国史跡 廃城年 天正18年(1590年)
 スライドショー
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