史跡 惣領砦跡
惣領砦の概要
惣領砦登城口
惣領砦登城口
惣領砦は、富山県氷見市惣領にある中世山城です。
この惣領砦は、氷見南部地域を支配していた国人領主であった狩野氏の出城と考えられています。
標高101.9mの丘陵状に位置していて規模は400m×140mとかなり大規模な山城ですが、主郭および副郭は小規模なもので、余り大規模な軍勢が駐屯できるとは思えませんので、監視所か詰めの城としての役割を持っていたと思われます。
狩野氏の本城は飯久保城と考えられていますが、この惣領砦と鞍骨山城がいわゆる詰めの城と考えられます。
惣領砦には狩野氏の家老である大前左近と奥野主馬が在城したと伝えられています。
城主である狩野氏に関してはイマイチ詳細は不明ですが、加賀国大聖寺城の城主であった狩野氏が一向一揆に追われて越中に逃亡し、この一帯を治める在地勢力として土着したと考えられています。
狩野氏は、鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてここを居城としており、中先代の乱では宮方として活躍しています。その後は加賀国守護富樫氏の家臣だったのですが、長享2年(1488年)に発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死して、加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行しています。狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと考えられていて、惣領砦もこれ以降に築城されたものと思われます。狩野氏は越中国では守護代神保氏の配下であったと思われますが、その動向を窺うべき史料は少ないため、詳細は不明です。永禄年間(1558年-1569年)には狩野中務丞良政の名が知られていて、良政が富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られているので、神保氏に仕えていたことは確かなようです。
惣領砦主郭
惣領砦主郭
しかし神保氏は上杉氏と何度も争い、富山城を奪われるなどして、天正年間(1573年~)にはその勢力も衰えていたので、狩野氏もいち早く上杉氏に属すようになり、1578年(天正6年)に上杉謙信が死去して上杉氏の勢力が衰えると、織田氏に属するなど、なかなか機を見るに敏なところがあります。これはおそらくは、狩野氏が守山城主神保氏張の配下であったと思われ、神保氏張が上杉氏や織田氏の間をうまく立ち回ったことで狩野氏も命脈を保つことができたと思われます。
織田信長は、越中国に佐々成政を送り込んできて、神保氏張がその与力となったことで、狩野氏も佐々成政に仕えるようになったと考えられます。
狩野氏の本城である飯久保城には、佐々成政が改修したと思われる桝形虎口の土塁が残っていたりして、とても在地の国人領主が築いたとは思われない遺構が残っていますが、この惣領砦は飯久保城と同様に堀切と切岸が目立つ縄張りとなっていて、狩野氏の築城技術の特徴が現れていますが、惣領砦には織豊系城郭の特徴の一つである桝形虎口らしき遺構が見られず、中世山城そのものの縄張りとなっていて、佐々成政が改修した形跡は見られないことから、佐々成政が越中を支配するようになった1582年頃には、この城は余り使用されなくなっていた可能性もあります。
佐々成政は、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の越中征伐により降伏していて、狩野氏もこの時に没落して飯久保城を退去しているので、惣領砦もこの時点で廃城になっていると考えられます。
佐々成政は、秀吉により越中国から肥後国に国替えになっていて、神保氏張も成政に同行していますが、狩野氏は肥後には同行していないようです。このあたりの理由は今ひとつよくわかりません。
その後、1708年(宝永5年)に狩野氏の子孫が越中前田家に仕官していることが知られています。
さて、この惣領砦を攻略するにはどうすればいいのかですが、遊歩道に沿って城へ侵入すると多数の堀切が待ちかまえていて、途中に防御用の郭もあって厄介なので遊歩道を逆に終点から遡って攻め入る方が良いでしょう。しかしこのルートは極めて急勾配の山道を登ることになるのでこれはこれでたいへんです。

惣領砦の説明文がありました 地図もありました
惣領砦の説明文がありました 地図もありました
登城口 このあたりは道が舗装されています
登城口 このあたりは道が舗装されています
登城道の最初はかなり急勾配です 延々と上り坂を歩きます
登城道の最初はかなり急勾配です 延々と上り坂を歩きます
遊歩道の看板があり、ベンチもあるので休憩します 急傾斜崩壊危険地帯だとのことです
遊歩道の看板があり、ベンチもあるので休憩します 急傾斜崩壊危険地帯だとのことです
さらに進むと墓がありました 四阿があるという看板があります
さらに進むと墓がありました 四阿があるという看板があります
道は険しく狭くなります 四阿が見えてきました
道は険しく狭くなります 四阿が見えてきました
四阿からの眺望 四阿で一服しています
四阿からの眺望 四阿で一服しています
このあたりから城域に入ります 浅いが堀切がありました
このあたりから城域に入ります 浅いが堀切がありました
このあたりは狭い尾根伝いに進みます 急坂を登ります
このあたりは狭い尾根伝いに進みます 急坂を登ります
このあたりが郭のようですね 浅いが堀切ですね
このあたりが郭のようですね 浅いが堀切ですね
左側が土塁です 堀切がありました
左側が土塁です 堀切がありました
堀切の前後は急勾配です また堀切がありました
堀切の前後は急勾配です また堀切がありました
堀切の前後は急勾配です 堀切を通過します
堀切の前後は急勾配です 堀切を通過します
堀切が走っています すごく深い堀切がありました
堀切が走っています すごく深い堀切がありました
堀切を越えると すぐに次の堀切がありますがこの間が郭です
堀切を越えると すぐに次の堀切がありますがこの間が郭です
連続的な堀切は狩野氏の築城手法の特徴です 三角点がありましたのでここが主郭です
連続的な堀切は狩野氏の築城手法の特徴です 三角点がありましたのでここが主郭です
主郭といってもたいへん狭いのです 主郭を出るとまた堀切です
主郭といってもたいへん狭いのです 主郭を出るとまた堀切です
かなり深い堀切です 小曲輪でしょう
かなり深い堀切です 小曲輪でしょう
空濠の看板があります 堀切があります
空濠の看板があります 堀切があります
かなり深い堀切です 堀切ですね
かなり深い堀切です 堀切ですね
空堀の底がかなり広い 堀切を上から覗くと
空堀の底がかなり広い 堀切を上から覗くと
このあたりも小曲輪のようです またまた空濠の看板です
このあたりも小曲輪のようです またまた空濠の看板です
看板に近づくと・・・ 曲がりくねった通路が通過を困難にします
看板に近づくと・・・ 曲がりくねった通路が通過を困難にします
堀切もかなり深いのです 堀切を通過しました
堀切もかなり深いのです 堀切を通過しました
狭い尾根を伝っていきます またまた堀切があります
狭い尾根を伝っていきます またまた堀切があります
狭い尾根を伝っていきます 遊歩道の看板がありますが・・・
狭い尾根を伝っていきます 遊歩道の看板がありますが・・・
ここで展望台へ分岐しているのです 展望台方面に向かいます
ここで展望台へ分岐しているのです 展望台方面に向かいます
ここは下りになっています 展望台が見えてきました
ここは下りになっています 展望台が見えてきました
水呑場があるのですか 展望台に着きました
水呑場があるのですか 展望台に着きました
展望台からの眺望 ここは見張り台だったのでしょうか
展望台からの眺望 ここは見張り台だったのでしょうか
ここへはかなりの上りです 分岐点に戻りました
ここへはかなりの上りです 分岐点に戻りました
狭い尾根を伝っていきます 小曲輪でしょうか
狭い尾根を伝っていきます 小曲輪でしょうか
ここからは下りです 狭い階段を降りていきます
ここからは下りです 狭い階段を降りていきます
広場がありました ここで休憩します このあたりは舗装されています
広場がありました ここで休憩します このあたりは舗装されています
遊歩道の終点です 惣領砦全景
遊歩道の終点です 惣領砦全景
惣領砦跡
住所 富山県氷見市惣領 形式 連郭式山城 (標高102m/比高90m)
遺構 郭 土塁 堀切 切岸 築城者 狩野氏
施設 四阿 説明板 案内板 城主 狩野氏、大前左近、奥野主馬
駐車場 あり 築城年 長享2年(1488年)以降
文化財 なし 廃城年 天正13年(1585年)8月以降
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