砺波市指定史跡 庄ノ城跡
庄ノ城の概要
庄ノ城説明板
庄ノ城説明板
庄ノ城(しょうのじょう)は、富山県砺波市庄川町庄にある山城です。別名「壇城」「庄城」とも言います。砺波市指定史跡となっています。
この城は庄川右岸に向かってせり出した「壇の山」と呼ばれる台地上(標高136m)にあり、規模は東西約100m、南北約90mとされていて、台地全体が城域となっています。また、出城として寺家新屋敷館がありますが、一乗寺城、松根城、井口城も支城群を形成していた時期があり、この周辺が砺波地域の中心地であった事が伺えます。
この城の詳しい築城年代は不明ですが、南北朝期、正平年間(1346年 - 1369年)頃に、越中国守護桃井直常が拠ったとされています。足利一門で南朝方の有力者であった桃井直常は、庄ノ城を築きここを拠点として、礪波郡一帯に越中国一乗寺城、加賀国松根城、越中国井口城、越中国野尻城などの支城群を構築して支配していたとされています。しかし、応安2年(1369年)には、斯波義将の配下二宮円阿によって攻められ落城しています。
また、鎌倉期から戦国期にわたり礪波郡で勢力を誇った石黒氏分家が「壇城」に拠っていた(壇石黒氏)と言われています。
しかし最初に石黒氏が当城を築いた後に桃井直常が入ってその後に再び石黒氏が入ったのか、または桃井直常が築いて後に石黒氏が入ったのかは判然としません。
いずれにしても南北朝時代、正平年間(1346年 - 1369年)頃には桃井氏が拠点としていたこと、戦国時代には天文年間(1532年 - 1554年)からは越中国木舟城城主石黒成綱の弟、石黒与三右衝門が拠点としていたと考えられています。
しかし天正4年(1576年)には上杉謙信によって攻められ落城しています。この後、廃城になったと思われます。
近年の調査では、かなり広範囲に桂穴、礎石、炭化物が見つかり幾度か火災に遭っている事が判明していて、その事から庄ノ城は何度も戦火に遭い、また再建されるということを繰り返してきたと考えられます。
なお、石黒氏は当主の成綱を始め弟与三右衝門や一族郎党30名余りが天正9年(1581年)7月、織田信長に近江国佐和山に呼び出されています。これは信長が石黒氏を亡き者にしようという魂胆でしたが、成綱は途中で信長の魂胆に気づいて逃走を図ったものの、長浜で信長の命を受けた丹羽長秀の手勢に襲われ、一族郎党皆殺しに遭っています。
城の後方にある三条山山頂には、詰城である千代ヶ様城跡があり、庄ノ城は平常時の居館として使用されていたと見られています。山麓に平時の居館を置き、山頂の城を「詰城」として緊急時にはここに籠もるという典型的な例と言えます。このような考え方の城は各地にあり、武田氏や今川氏、朝倉氏といった強大な勢力を持つ戦国大名もこのような居館と詰城をセットにした本拠地を持っています。まあ、定番メニューと言ったところですが。

砺波市指定史跡の標識 庄ノ城東側
砺波市指定史跡の標識 庄ノ城東側
庄ノ城跡
住所 富山県砺波市庄川町庄 形式 山城 (標高190m/比高90m)
遺構 郭  築城者 桃井直常
施設 説明板 城主 桃井直常 石黒氏 神保氏
駐車場 駐車スペースは多少ある 築城年 天平年間(1346年 - 1369年)以前
文化財 砺波市指定史跡 廃城年 天正4年(1576年)以降
史跡 庄ノ城跡マップ
電子国土ポータルへのリンクです