諏訪市指定史跡 高島城
高島城の概要
高島城復興天守
高島城復興天守
高島城は長野県諏訪市高島にある平城です。かつては城が諏訪湖に面していて「諏訪の浮城」と呼ばれていました。
現在では諏訪市指定史跡となっています。
江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われたために、現在では水城の面影は失われていますが、日本三大湖城の一つに数えられています。現在は天守を持っていますが、これはRC造りの復興天守で外観も本来のものとは細部が異なります。
高島城は、日根野高吉によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建設されて近世城郭としての体裁が整えられています。しかし諏訪湖のすぐそばで軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられています。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったといわれています。
この城は1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)の7年間に渡って建設されていますが、規模の割には短期間で築城したといえます。ただし、工程にはかなり無理があったようで過酷な労役で住民には恨まれたようです。
この諏訪の地は、従来から諏訪氏の領地でしたが、武田信玄が1548年(天文17年)に塩尻峠の戦いで小笠原長時を破ったその翌年、それまで根拠としていた上原城から、市街地の北方にある茶臼山に新たに茶臼山城(高島古城)を築いて居城としました。
武田氏が滅亡した後、諏訪頼忠は、1584年(天正12年)に金子城(諏訪市中洲)を築いて、新しい拠点としています。
しかし1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山城に入城します。
高島城角櫓
高島城角櫓
日根野高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)の7年間をかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築いています。その際には村人に漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させています。
日根野高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で城普請を経験していたこともあり、高島城はいわゆる織豊系城郭として築城し、天守、石垣、門を築いています。
関ヶ原の戦いでは日根野氏は徳川方に味方していますが、本戦直前の6月26日に高吉が急死してしまいました。享年62。
跡は子の吉明が継いでいます。1601年(慶長6年)には日根野吉明は下野国壬生藩に転封となっています。実はこの転封は左遷でした。東軍に味方したはずなのにどうしてかと思うでしょうが、実は祖父の日根野弘就が西軍に属して取り潰されていることと、まだ若年であったことも関係していたようです。
そして入れ替わりに諏訪頼忠の長男で今では譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封しています。つまり諏訪氏が再び諏訪の領主となり、そのまま明治維新まで続くこととなったわけです。
江戸時代は高島城が諏訪藩の政庁であり藩主の居所ともなっています。
寛永3年(1626年)には徳川家康の六男である松平忠輝を預っています。その際には南の丸を増設し、ここを監禁場所としています。1683年(天和3年)7月3日、松平忠輝は高島城南の丸にて死去しています。享年92歳。
高島城川渡門(三の丸御殿裏門)
高島城川渡門(三の丸御殿裏門)
吉良上野介の養子、吉良義周も赤穂浪士の討ち入りの際に負傷し、1703年(元禄16年)2月4日に改易の上、この高島城南の丸に幽閉されています。吉良吉周は、1706年(宝永3年)1月20日に死去しています。享年21。
1871年(明治4年)廃藩置県により高島藩は高島県となり、城は県庁舎として利用されています。
1875年(明治8年)には天守以下の建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)には高島公園として一般に開放されるようになり、1900年(明治33年)には諏訪護國神社が建てられています。
現在では二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園は小規模ながら今では美しい庭園として整備されて市民の憩いの場となっています。
本来の天守は明治初頭に撮影された写真から、独立式望楼型3重5階と判明しています。初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられています。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺でした。
瓦葺きでないのは、諏訪の地が寒冷地なので瓦が割れてしまうからでしょう。
現在の復興天守は基本的には元の天守の構造に従って建設されていますが、窓の大きさは本来のものとは異なります。また屋根は銅板となっているので、これも本来の姿とは異なります。
高島城冠木門
高島城冠木門
水濠は、北側と東側の内濠が現存していて、本丸の石垣も現存しています。
この高島藩では、260年の治世の間、一度も百姓一揆が起こっていないのです。つまりそれなりに善政が布かれていたといえますが、実は二之丸騒動と呼ばれる御家騒動が発生しています。
高島藩では唯一の御家騒動ですが、その背景にあるのが財政難と言えましょう。
つまりこの高島藩は2万7千石の小藩ですし、収入もたかがしれています。3代藩主・諏訪忠晴の時代には既に財政難に陥っていました。2万7千石の小藩には、高島城は大規模な城でその維持費も大きく、譜代大名である諏訪家は江戸に滞在している期間が長くあまり帰国することもなかったために江戸滞在の費用がかかる上に国元の家老が悪事を働くには絶好の条件といえます。
諏訪家には家老職の家が2家あり、二之丸屋敷に住む二之丸家は初代藩主諏訪頼水の弟頼雄の家系の家です。
もう一つの家老職である三之丸屋敷に住む三之丸家は古くからの諏訪家支族である千野家の系統です。千野家は、元々からの諏訪家の家老職にある家柄でこれまでの功績も多大なものがありました。高島藩はこの2家の家老家が並立し藩政を預かっていました。2家ともに家中では1,200石の最高知行で上下の差はなく、先任家老が筆頭になるという体制でした。しかし正直言って2万7千石の小藩で1,200石の家老家が2家もあるのでは財政難になるのも当然でしょう。
高島城天守と石垣と水濠
高島城天守と石垣と水濠
1757年(宝暦7年)には千野貞亮(兵庫)を中心とする三之丸派は、「繰廻」と称し、家中の知行、物成からの借上と郡中及び筑摩郡の郡中3千石から借用金を得ています。借用金は郡中から石高に応じて借用しますが、返済の見込みがないままの借用であったから、言わば増税ともいえます。本来は臨時的なものであったはずのものが、賦課の基準を細かく修正しながらさらに数年間は継続しています。しかしこれはいかにも財政難とはいえ拙い政策ですが、それだけ困窮していたと言えるでしょう。
1763年(宝暦13年)暮れからは借上が中止されています。高島藩は小藩であり、家中の多くの石高は、数十石単位の知行取がほとんど、数石単位の給米家臣も多かったため家中は貧窮を極め、その救済のために貸付まで始められていてます。
ようやく千野兵庫は1764年(明暦元年)に行き詰る藩政の改革のため、新役所を置き、積極的に新政策に着手しようとしました。
1756年(宝暦6年)以来中止していた畑直し(畑を田に直す)を再開し、新役所の下で、新切(新たに開墾した田畑)、新汐(用水路)開削等を進めています。その開削を許可する際、なんと賄賂が横行していました。
これにより新切、新汐開削と畑直しは進んだのですが、今度は既存の水利権者との紛争が頻発しています。要するに新たに田畑を開墾し用水路を設置することで灌漑用水が不足するので川下の村から既得水利権の侵害であるという訴えが起こるわけです。
高島城東側の水濠と石垣
高島城東側の水濠と石垣
また商品経済の進展とともに、藩財政も出費が増大してさらに窮迫してきます。それに伴い、新規の運上(上納金)が始まり、宝暦、明和、安永と営業税的性格の運上が増えてきます。いろいろな事業を始めさせて、それによる上納金を納めさせるという政策をとっているわけです。
さらに問題なのは新役所の政策の実施にあたり、吉野屋忠兵衛ら城下町商人や、北大塩村清十ら村方の有力者の力を借りる必要があったことでしょう。清十は郡中に借用金が申し付けられると、その割当に奔走しています。借用金は、清十を通じ役人に賄賂を贈らなければ、返済が困難であったということです。清十は、その賄賂の上前をはねて、手元金、貸金、地代、家屋敷、家財、什宝合わせて2千両を蓄えたといわれています。また村町の訴訟等を、新役所の内談で決着させたため、賄賂がますます横行しています。ううむ、悪家老と悪徳商人の登場では、まるで時代劇ではありませんか。
これらの新役所を中心にした千野兵庫の施策に対する農民の批判が高まっていたので、二之丸家の諏訪大助は、1770年(明和7年)12月26日、家中無尽禁止の廻状を出しています。
さらに翌27日、村方の困窮事情書上げの廻状を出させています。翌8年正月、村々から「難渋箇条の書上」が提出されています。
それには、家中無尽が禁止されて有難いと述べ、難渋している事は、
 一、蕎麦・油荏の上納を増やす事。
 一、畑方を4分1金納にする事。
 一、毎年御借用する事。
 一、川浚い金を毎年掛ける事。
 一、下諏訪宿の伝馬札を吉野屋忠兵衛の請負にしている事。 一、魚類の売買を城下の上町、中町だけに制限する事。
 一、新汐開削と水田増加で下流が水不足になっている事。
 一、近年御役人に音物(いんもつ)を使って出入りしている者や音物を取り次ぐ者の仲介で、金銭の負担が大きくなり、御役人の不正が百姓難渋のもとである事。
等々と詳細に記しています。村方では、それは波多野左膳、井手八左衛門、上田宇右衛門が元凶とみていました。
高島城天守から望む諏訪市の町並み
高島城天守から望む諏訪市の町並み
千野兵庫が新設した新役所は、藩内の領民に金銭負担を増やすだけで、それが役人の腐敗を生んだといえます。またそのために困窮する領民に的確な対策も打てずにいました。
二之丸派は1771年(明和8年)6月19日、城下と山浦で藩の役人と結託して、賄賂の斡旋と周旋等で私益を謀ったもの39人を逮捕し入牢させています。入牢者は年内には出牢していますが、在所から追放され新田場居住となっています。北大塩村清十は重罪で、闕所(財産没収)となり、翌9年1月牢中で首を吊ってい自殺しています。清十の資産は、2月には藩により競売に掛けられています。1771年(明和8年)12月19日、千野兵庫は「お勝手係りの致し方が宜しくなく、その詮議も不十分」として、藩主忠厚の自筆で厳重注意されています。また新役所関係者20人も処分されています。兵庫派と目されていた波多野左膳、井手八左衛門、上田宇右衛門らの処分は、特に重く、役向きが粗雑として知行及び家屋敷が没収され逼塞を申し渡されています。ただ子息に10人扶持が与えられています。
両角十郎右衛門も知行20石と家屋敷を没収され逼塞、千野与右衛門は御役取上げ逼塞、加藤善右衛門は家屋敷を没収され逼塞を申し渡された。他13人が「お咎め」を受けています。
以上が明和の一件といわれ、二之丸騒動の発端となります。
これらの一件により二之丸派が実権を握ることになり、翌年5月24日、6代藩主諏訪忠厚(忠林の4男)は、「繰廻と称して郡中から多額の借用金を徴収し、新役所の施策も政治の腐敗を生み、却って家中を貧窮させ、郡中の難儀となり、幕府への公訴にまで及びそうになったが、諏訪頼保(大助)は事態を事前に回避し、郡中に静謐をもたらした」と賞しています。その功により大助の父・頼英(図書)を主席家老とし、大助は三沢村に150石を宛がわれた。その上、家督相続の節にはその家禄と合わせて1,350石とすると申し渡されています。諏訪大助は病気の父に変わり、その名代として専権を振るい、以後8年間政権を握っています。
高島公園は庭園となっています
高島公園は庭園となっています
大助の政治改革は素早く、1771年(明和8年)4月、魚類の売買は城下の上町、中町だけでなく、古来どおり清水町でも販売が出来るようにした。同年9月には、畑方4分の1の金納も止め、馬喰運上、女馬運上も廃止されています。当歳(とうね)、2歳には雄馬もあったが、雄馬は通常去勢され雌馬として数えられた。商人運上も従来に戻して、村役人改めにした。
1773年(安永2年)2月、伝馬役の雇人足を禁止し、雇馬については下諏訪町と隣の友之町から雇い入れ、届出制としています。
宿場の宿負担の人馬では不足の場合、助郷村へ命令して割り当て、宿場が運ぶべき範囲の分まで、百姓に負担させることがあって争論になる例が多かった。しかも弱い立場の百姓の主張が認められず、彼らの泣き寝入りに終わることが多かったので、大助はその改善を図っています。
大助は、同年4月に阿原検地の方法を改めています。以前、明和2年と3年に千野兵庫が実施した、阿原に等級付けをして年頭にそれぞれ津高(税率)を定めるという検地仕法は不評だったためです。
要するに、税率を毎年の年頭に定めるとなると、賄賂が横行することになり、ましてや湿地帯で生産性の乏しい阿原であれば、その負担は耐えがたいものであったということでしょう。
大助は、まず上田、中田、下田の等級区分を廃止し、総面積と津高4津3分のみを記録し、実際の貢租高は検見によって決められるとしました。
高島城角櫓
高島城角櫓
1775年(安永4年)、大助は難儀の事を書き上げるよう、お触れを出しています。この時期までは、大助は民衆の声を聞く姿勢を示していました。しかし、1777年(安永6年)になると、中馬稼ぎに1匹150文を、高島藩の運上の徴収役を担う御貸方代官所へ上納するよう沙汰を出しています。
つまり、このころから諏訪大助の改革も行き詰まり、逆に政治の腐敗が始まったということでしょう。賄賂次第で罪が許されるとか、村の検地には音物が必要で、それに必要な莫大な経費も草高(総実収高)の減少で充分見合うとか、大助にへつらう者が登用されるとか、いわゆる悪代官化してきたということでしょう。
1776年(安永5年)、先に闕所となった清十の子与惣右衛門ら3人が闕所金の返還を郡奉行の諏訪貢に願い出、それが叶えば、大助、貢、文右衛門に150両を渡すという裏面工作がありました。すると大助は、貢に与惣右衛門ら3人に闕所金全額の返還を指示しています。その後御貸方代官所からの返戻金から、167両1分を貢が受け取っています。しかしこれはとんでもないことです。要するに罪を得た清十の資産が売却されて国庫に納められていたものを清十の子に返還してその上前を跳ねたということですから。さらに1779年(安永8年)には、諏訪貢は自宅に町役人を呼び、城下の酒屋から15両借用したいと申し出ています。その前に今井村から造酒経営の願いが出ていて、城下の酒屋8軒が反対を申し出ていました。その際、既に10両を借用していたのですが、重ねての借用の申し入れです。布屋伊三郎は、内意があるから先の3両は差し上げる代わりに残金7両の返金を願い出たのですが、貢はその申し出を不埒として恫喝しています。町役人が取り持ち、布屋伊三郎は15両を言うがまま差し出しています。貢は証文も書かず、利息も支払わなかったといわれています。しかしこれではもはややくざですね。
天守内は資料館となっています
天守内は資料館となっています
この頃は6代藩主忠厚が国元に帰らず藩政を顧みないことをよいことに、諏訪大助は驕慢になり奢侈に走り、賄賂を取って検地をして貢租を減じたり、小六新田の見立奉行になって私利を図ったり、入牢者を賄賂で放免したり、政治は乱脈を極めていました。その間、藩主への報告は「御政道順路」とか「御郡中静謐で、税もよく納まり御勝手方差し支えなく」等と言上され、忠厚はそれを信用していました。
千野兵庫は、ついに諏訪大助の行状に堪えられなくなり、1779年(安永8年)3月に志賀七右衛門と出府し、大助の暴政を藩主忠厚に告発しています。
これにより、同年6月5日、二之丸家諏訪大助は失脚し、三之丸家千野兵庫が再び実権を握っています。大助は藩主忠厚から「御叱り」を受けています。「御叱り」はいわば刑の申し渡しです。内容は「自己の取り計りを専らにし、依怙贔屓(えこひいき)の沙汰をし、遊興に耽り乱酒賄賂等の風説もあり甚だよろしからざる趣、不届至極、家老職を免じ閉居を命ずる」となっています。
賄賂の件は「風説」というだけで、この時は閉居だけの軽い刑でした。同時に、上田弥右衛門、小沢忠左衛門、鵜飼伝右衛門、中島織右衛門、小平権太夫、諏訪貢、今井彦左衛門らが御役御免となり、計19人が御咎めをうけています。以上が暫定処分で、翌9年6月、本格処分が決まっています。
大助の父、諏訪図書は息子の不正も知らず、不調法であるが、逼塞中であれば咎は別段ないとされています。大助は藩主に伺いを立てず検地を専らにし、清十の闕所金の始末や内証の取次ぎを受けている事、風儀が乱れている事等で、引き続き閉居を申し渡されています。ここで賄賂の話がないのはどうしてでしょうか。
高島城天守から水濠を望む
高島城天守から水濠を望む
その外、諏訪貢が知行、居屋敷召し上げ、御城入りと他所出差し控え、小平権大夫が知行300石召し上げ隠居、諏訪甚五左衛門が知行召し上げて給米を下す、二之丸家の家来白川十兵衛奉公召し放ち、御城内他所出構(つまり追放です)、処分は60人にも及んでいます。
同年6月19日には、安永検地の賄賂に対する村方処分があり、牢舎3人を含む50人が御咎めを受けています。村々にも「御叱り」が出されています。村方に対する処分は、大熊村の3人が牢舎に入れられ、一番重い「御叱り」でした。しかし賄賂を罪状としておらず、勝手に「芝請(しばうけ;芝地のまま検地のための竿請けをする)」したことが理由になっています。矢ケ崎村では、名主縫左衛門が戸〆(とじめ)、年寄孫衛門と久内が慎(つつしみ)、地引(じびき)助右衛門と清右衛門が急度叱(きつとしかり)であった。全村合わせて50人が「御叱り」を受けている。「戸〆」とは、家の中に閉じ込め戸に釘を打つことです。「急度叱」は「厳重注意」、「慎」は家の中での謹慎です。事の重大さに比して、賄賂に対する「御叱り」は、比較的軽いものといえます。
興味深いのが塚原村の地引勝右衛門・今右衛門・清左衛門が「急度叱」の処分で、特に但し書が付き、「偽の書付け取拵え、其の他巧(たくみ)なる致し方に付き」と申渡されていた事です。
高島藩は、版籍奉還まで一度も百姓一揆がないという稀有な存在でしたが、検地が賄賂によって不正に行われ、村高、物成、出入の減額が明らかなのに、藩は村方の願いとして受け入れていました。だから百姓一揆が起こらなかったと言えるのですが、これでは財政難になるのは当然です。村方の贈賄に関して、名主以下「戸〆」などの軽い「御叱り」で済まし、以後村方はその結果がそのまま受忍され、その恩恵にあずかっています。
水濠と石垣と角櫓
水濠と石垣と角櫓
検地に際しての不正の事例は、大助の父・諏訪図書にもありました。図書の家臣田中儀左衛門は、矢ケ崎と塚原の両村から検地願いの内意を、主君図書に取次いでいますが7月に金子を差し出すことを条件に、その検地願いが通っています。しかしすぐに金子が届かず9月にようやく両村から40両が支払われています。これだけでも重大な贈収賄事件ですが、儀左衛門はさらに遅延利息として2両2分を要求し、自分には4両を別途要求しています。儀左衛門は同様の事を大熊村や南大塩村でも行っていて、その他にも不正が多く「御大法を背き、莫大な賄賂を受け取り主人の禍を弁えない致し方不忠の筋、重々不届きに付、新田場・御城下他所出御構い」を申し付けられています。まあ、追放処分ということです。それにしても二之丸派の腐敗ぶりが目を覆うものがあります。同じく諏訪図書の家臣河西粂右衛門は、塚原村の検地の際に、村方がその内意通りになれば二之丸の屋敷内の稲荷社に50両の奉納金を差出すと申し出て、河西は礼金として3両受け取っています。これに関しては河西粂右衛門の資料が残されていて、その検地の際に足軽・手明の詳細な収賄ぶりが記録されています。手明彦右衛門、南大塩1両2分、塚原村より3両2分、北大塩の記録は判読できず、足軽善右衛門は、塚原村より4両2分、小坂村より1両2分、同じく足軽十右衛門は、塚原村より4両2分。この3人に重き戸〆(とじめ)の「御叱り」が出されています。足軽幸八と又七が矢ケ崎村より1両1分を受け取り、「御叱り」を仰せ付かっています。この贈収賄事件では全体で足軽60人が「御叱り」を受けています。
この事件の結末は、「諏訪大助に伝えず、賄賂を奉納金と号し、主家に禍をもたらす不忠且つ不届至極」として、河西粂右衛門に奉公召放(めしはなち)と戸〆(とじめ)の「御叱り」が申し渡されています。
高島城の石碑
高島城の石碑
要するに困窮する藩の財政の根本にかかわる犯罪が摘発されながら、諏訪図書、大助ら重役に対しては賄賂に関わらずとされて、その家臣やさらに下級の者が「主人の禍を弁えない不忠の輩」として処罰されているわけです。はっきり言ってトカゲのしっぽ切りという感じですが、この話はこれで終わったわけではありません。
1779年(安永8年)6月22日、千野兵庫が再び家老筆頭となり藩政を任されています。千野兵庫は藩の風儀を正し、一転して謹倹第一、文武奨励で賄賂等の不正が介入する余地を無くしています。ただ余りにも守旧的だったため、坂本養川の開拓計画も受け入れられず、長く頓挫しています。兵庫は林平内左衛門を江戸へ遣わし、藩邸の総理として奢侈を取り締まらせています。
大助は勢力を回復しようとして、同族で姻戚関係にある諏訪貢、渡辺助左衛門、上田宗右衛門、同宇治馬、近藤宇右衛門、同主馬、小喜多治左ヱ門らとはかり、江戸藩主の周囲を自派で固めています。これに対して三之丸派も姻戚関係を中心に自派の結束を図っています。その中核は千野兵庫、千野十郎兵衛、安間弥五左衛門、山中志津摩、吉田式部左衛門の5人です。
家中が真っ二つに割れて、他の諸氏もいずれかの派閥に加わらざるを得なくなっています。
藩主忠厚は病弱で藩政に関心がなく、その夫人は備後国福山10万石阿部正福の娘で子がなく、夫人の侍女とめ子が明和5年4月4日に産んだ庶長子軍次郎を夫人が愛育していました。ところが同8年11月晦日、家女きそ子が庶次子鶴蔵を生んでいます。忠厚は鶴蔵を寵愛し、阿部正福が軍次郎の嫡子届出を勧めても聞き入れることがありませんでした。
大助派は忠厚の歓心を買うため、軍次郎を不孝不行跡と誣告して、鶴蔵を世継にと願い出る一方、軍次郎派の夫人阿部氏の離縁計画と、軍次郎の毒殺、呪詛調伏の陰謀が企てられました。しかしこれは・・・なんとも・・・。
高島城本丸の堀と石垣についての説明板
高島城本丸の堀と石垣についての説明板
兵庫は江戸の様子を知り、意を決し1781年(天明元年)正月、志賀七右衛門と再度出府しました。次いで吉田式部左衛門・前田和左衛門らも出府しています。兵庫は2月3日に江戸に到着したが、なんと忠厚は病と称し会おうとしません。つまり忠厚自身というよりも忠厚の周囲を固めた近臣たちが「何事も御前様の御意」と言い立てるだけで埒があきません。そうこうしているうちに兵庫を守ろうとする者、君側の佞臣を切って直訴しようとする者が続々と出府してきました。江戸藩邸は騒然となりましたが藩主の周辺は二之丸派で固められ、3ヵ月も経過するがお目通りが許されません。
逆に多数の出府を咎められ、4月17日差し控えを命じられ22日江戸を発ち、甲州路で26日諏訪に到着しました。
兵庫は忠厚に憎まれること甚だしく、3ケ月待ってもお目通りを許されず、逆に多人数と徒党を組んで出府したと罪に問われ帰国を命じられています。国表に帰国すると追うようにして5月、家老職を罷免され隠居申し付けの直書が届き、家督は7歳の貞慎に下された。直書は「自己の存意で諸事改正をはかり、伺いも無く多数出府し、林平内左衛門と謀をめぐらし、帰国命令を受けても出立を遅らせ」、「不忠の至り、家老職取り上げ隠居、押込み」という。そして図書と大助が江戸出府を命じられると、5月6日、藩侯の前で大助は今までの罪を許され江戸詰めとして再勤を命じられ、図書は国家老として藩政をみることとなり、二之丸家は1年10ケ月ぶりに再び優位となったわけです。
二之丸派は上田宇治馬が軍次郎の御付きとなり、近藤主馬が藩主の近習となって君側を包囲し、国元では大熊善兵衛を年寄に任じ、兵庫周辺を見張らせています。兵庫に味方する者多数も禁錮、謹慎となり、江戸では阿部夫人が離縁され、藩政は総て大助派に専断されています。そして遂に大助派は千野兵庫の抹殺を図り、忠厚に願い出て兵庫切腹の直書を得て諏訪に届けさせた。これは御用部屋で開封されたが、あまりのことで用人達も兵庫に渡しかねています。
高島城川渡門(三の丸御殿裏門)を外側から
高島城川渡門(三の丸御殿裏門)を外側から
この頃大助派の実権は忠厚の近侍・近藤主馬が握り、主馬は遂に忠厚に「鶴蔵を次の藩主にする」の誓詞を書かせています。大助自身も鶴蔵支持の誓詞を提出しています。
 この様子を知った兵庫は閉門隠居の身でありながら、再度の出府を計画、国表の一類に決意の書をしたため残し、天明元年8月1日、手長社の八朔の宵祭りで浮かれ警戒が緩んだ隙に、侍僕数人を連れただけで屋敷を抜け出して、三之丸川から漁舟で湖上に出て、高浜(下諏訪湖岸)にあがり、和田峠を越え、間道を選んで追っ手を逃れて、8月6日明け方に江戸に到着しています。
8月5日、兵庫の出府が知られ、中山道と甲州道の2手に討手が向った。兵庫は、忠厚の妹婿である三河西尾6万石城主松平乗寛の鍛冶橋上屋敷に駆け込んで、乗寛に実情を訴えています。乗寛は当時29歳の若さで奏者番の重職にあり、兵庫の訴えを聞き届け、丁重に匿っています。そして福山藩主阿部正倫や忠厚の従兄弟で伊予吉田3万石城主伊達村貞ら、諏訪氏親族を集めて相談した上でその総意ということで再三忠厚を訪ねるが忠厚は耳を貸さず、遂には近侍に遮られ忠厚にも会えなくなってしまいます。高島藩では流言が飛び交い、藩士の出府が増え、江戸でもこの風聞が知れ渡り、そうこうして3ヶ月が経過して、遂に乗寛も呆れ果てて、9月28日には高島藩留守居役へ「向後御世話之義はお断りに及び候」と義絶の書状を渡しています。
展示されていた鉄砲
展示されていた鉄砲
この間諏訪では、9月20日に諏訪氏の菩提寺・温泉寺(諏訪市湯の脇)に藩士35人が集まり決起し、血判して出府し、藩主に諫言しょうとする決死の者が続出します。その出府して来た藩士達で江戸の藩邸は騒然となりました。ここに至っては幕府の公裁を願い出るしかないという藩存亡の危機に陥りました。
乗寛は兵庫にも「一切手を引くから、藩邸から出てもらいたい」と伝えさせた。ここに至り兵庫は高島藩留守居役渋江理兵衛と藤森要人を呼んでもらい、「この上は公儀に訴えるしかない。お前達には忠義の心がないのか。もっと取り計らい様もあるだろう。」と迫った。2人はやっと立ち上がり、近藤主馬・上田宇治馬らを取り押さえ逮捕しています。
この日は9月晦日であった。兵庫は乗寛邸を辞して、芝の東禅寺宗法院へ移った。
兵庫はここでようやく藩主に対面し総ての顛末を語り説諭した。ここで事の重大さをやっと悟った忠厚は目が覚め、兵庫に諭されて乗寛に陳謝したが、その怒りは収まらない。阿部、伊達両家や諏訪分家に頼んで取りなしてもらいっています。
乗寛は大助一味の処罰、千野兵庫の復権、忠厚の隠居と軍次郎・忠粛(ただたか)の襲封という条件を提示し、忠厚はそれを承知して解決を引き受けてもらうことになりました。
1781年(安永10年)10月、大助は解職され罪人として処分されることになり、こうして乗寛の尽力で幕府の介入一歩手前で事件は解決されたのです。
高島城角櫓と城壁
高島城角櫓と城壁
同年10月26日、忠厚から兵庫の忠勤を賞する直書が与えられて家老職に復しています。嫡子貞慎も慎み御免となり30人扶持が下されています。なお貞慎は幼少のため、兵庫の嫡女に婿養子を迎え貞慎の後見をするよう仰せ付けられています。兵庫は翌年まで江戸に留まり事後処理にあたっています。
12月11日には忠厚が36歳で隠居し、忠粛(軍次郎)が藩主となっています。なお諏訪忠厚は、1812年(文化9年)6月、江戸で逝去、享年67歳。
二之丸派の罪人の審理は1783年(天明3年)5月から白洲での尋問が始まり、兵庫が主審となっています。
同年7月3日、判決申し渡し、即日刑が施行された。安永の一件の際には軽い罰しか与えなかったため、その後問題を大きくしたことに懲りて、兵庫は今度は厳しく処断しています。
諏訪図書は永牢、諏訪大助は切腹、渡辺助左エ門・近藤主馬・上田宇次馬・同父上田宇右エ門の4名は討首、小喜多治太夫・小平権太夫・加藤善左エ門・白川庄蔵・大助子時太郎・同銀次郎・渡辺助左エ門子順之進・右次馬子助之進の9名は永牢とされています。さらに、親類預け座敷込、知行取上、隠居減石、軽い者には遠慮、戸〆、また「急度叱り置く」等々「お叱書」にのせられるだけでも75筆に及び、その中には「急度叱り置く、小六新田村惣百姓」等もあり、百姓や町人も処罰されています。
兵庫は家老職に復したとはいえ、既に家督は貞慎になっていました。1783年(天明3年)4月、越後高田藩士伊那主水の2男左近が貞慎の姉の婿養子となり、10月25日には義弟貞慎の後見役となっています。
兵庫は既に隠居の身のため、天明2年4月、二女に婿養子を迎え、別家を立てよと申し渡されています。そこで同5年8月に両角政珍の二男貞臣を婿養子としています。それが本丸の東・御櫓脇千野家で、知行は三之丸家と同じ1 ,200石でした。
つまり再び家老職は二家になったわけですが高島藩ではこれに懲りたか二度と御家騒動は発生していません。
大助らの処刑は、上諏訪市教念寺(諏訪市小和田)の西隣、牢舎前のお仕置場で行われています。大助の首は藩主の実検後、罪人のため檀那寺の頼岳寺にではなく、地蔵寺(諏訪市岡村;旧中洲福島村)に葬られ、墓石の小さな自然石には「了性」とのみ刻まれています。
所在地 その他
住所 長野県諏訪市高島1丁目20-1
電話 0266-53-1173
開館時間 9:00~17:30
入館料 大人300円(200円) 小人150円(100円)  ()は20名以上の団体
休館日 年末年始(12/26~12/31)・11月第2木曜日
駐車場 城の北西側に無料駐車場あり
高島城
住所 長野県諏訪市高島 形式 連郭式平城 復興天守:独立式望楼型3重5階
遺構 石垣、堀、門 築城者 日根野高吉
再建造物 復興天守、櫓、門、塀  城主 日根野氏、諏訪氏
駐車場 有料駐車場あり 築城年 文禄元年(1592年)
文化財 諏訪市指定史跡 廃城年 明治8年(1875年)
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