国史跡 鳥越城跡
鳥越城跡の概要
鳥越城枡形門
鳥越城枡形門
鳥越城は、石川県白山市三坂町にある標高312mの城山山頂に築かれた中世の山城跡です。大日川対岸の山上にある附の二曲城とともに国史跡に指定されています。
この鳥越城は、大日川と手取両川の合流点に位置する鳥越山の丘陵先端部に築かれていて、その城域は東西約400m、南北約1200mに及ぶ巨大な山城で連郭式の縄張りとなっています。
縄張りは、山頂にある本丸を中心とした5ヶ所の主要な郭と3ヶ所の腰曲輪から構成されていて、郭は本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸があり、空堀や土塁がこれらの郭を囲んで尾根筋を巧みに利用して配置されていて、さらにそれを腰曲輪が囲んでいます。 5つの郭のうち、三の丸はなぜかラフになっていますが、それ以外の郭はきれいに整備されています。
遺構としては、土塁、空堀、曲輪が現存していますが、櫓門、門、石垣、柵列が再建されています。
この鳥越城は、1573年頃に加賀国白山麓の一向一揆の軍事拠点として、鈴木出羽守によって築城されています。
鈴木出羽守は、白山麓山内惣庄の旗本で雑賀鈴木氏の一族と思われますが詳細は不明です。
1573年の4月には武田信玄が没し、8月には織田信長が朝倉義景、浅井長政を滅ぼしていて、緩衝地帯が消滅して加賀一向一揆の勢力圏が織田氏の領地に隣接するようになり、加賀一向一揆衆に危機感が高まっている時期ですので、門徒集団である山
鳥越城中の丸門
鳥越城中の丸門
内衆の抵抗の拠点としてこの城が築かれたということでしょう。
その後、1570年~1580年にかけて、織田軍の来襲に備えて増改築が行われ、附城の二曲城・瀬戸砦・尾添砦などが整備されるなど白山麓の要塞化が進められています。
1574年9月には織田信長が伊勢長島一向一揆を平定し、越前・加賀一向一揆が蜂起して越前を支配しています。しかし翌年8月には織田軍の越前侵攻により、越前一向一揆が壊滅してしまい、総大将の下間頼照が敗死し、加賀一向一揆も打撃を受けています。翌年1576年には越前一向一揆が再蜂起していますが、これらはほとんど烏合の衆で前田利家らに滅ぼされています。
これにより越前は、織田氏家臣の柴田勝家が領有するようになり、加賀一向一揆も追い詰められた格好となっています。
1577年9月には越後の上杉謙信が能登国の七尾城を攻略し、能登畠山氏を滅ぼし、さらに加賀一向一揆と結んで加賀国に進出し、湊川(手取川)で織田軍と衝突しています。柴田勝家らは上杉軍に敗れて敗走して、加賀国への侵攻は挫折しています。
しかし1578年3月には上杉謙信が没し、跡目争いである御館の乱が起こって上杉氏の勢力は大幅に弱体化してしまうことになります。1580年閏3月には石山本願寺が織田信長に降伏、開城し、顕如は石山本願寺を退去して、紀伊国の鷺森御坊へ入っています。これにより本願寺派の総本山が壊滅してしまうことになります。ついで11月には加賀一
鳥越城本丸門
鳥越城本丸門
向一揆の最大拠点である尾山御坊(金沢城)が織田軍の佐久間盛政に攻められて陥落しています。これにより鳥越城が加賀一向一揆の唯一の拠点となりました。しかし鳥越城及び二曲城も織田方の柴田勝家軍によって落城してしまい、山内衆の主領鈴木一族は謀殺されてしまいます。これ以降、鳥越城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれていますが、1581年には白山麓門徒により鳥越城と二曲城を奪回しています。しかし鳥越城が織田軍の佐久間盛政によって落城して、鎮圧されています
翌年1582年には再び一揆勢が蜂起しましたが、織田軍によりたちまち鎮圧されています。この際の織田軍の弾圧は苛烈を極め、門徒衆三百余人が磔に処せられています。さらにこの周辺の7ヶ村を根絶やしにしています。そのため7ヶ村は、それから3年間、荒地と化したといわれています。それにしても織田軍は酷いことをするものです。
これにより加賀一向一揆は終焉を迎えてしまいます。
鳥越城は、昭和52年(1977年)から3ヵ年をかけての緊急調査によって多大な成果があり、昭和60年(1985年)には国史跡に指定されています。
その後、平成2年(1990年)より環境整備のための発掘調査が実施され、平成13年(2001年)に整備復元が完成しています。
鳥越城本丸跡
鳥越城本丸跡
本丸・二の丸で発見された遺構は、一揆勢と織田軍改修の2時期のものがあり、虎口に伴なう石垣はすべて織田軍が築いたものであることがわかっています。また本丸内で発見された建物跡のうち、礎石建物は織田軍、掘立柱建物は一揆勢が建てた可能性が高いと考えられています。
鳥越城は、大日川と手取川に挟まれた鳥越山山頂に築かれていて、車で山頂の鳥越城址まで登ることができます。
山頂への林道の途中には出丸跡がありここに鳥越城の石碑が建てられています。鳥越城本丸からの眺めは極めて良く、手取川と大日川、また街道筋も手に取るように見ることができます。
また城の南側には大日川の対岸に築かれた支城の二曲城も手に取るように見ることができます。
鳥越城の縄張は、頂上部の本丸を中心に南北に曲輪が配置され、南側に二の丸・三の丸が配置され、本丸北側には後二の丸が配置され、さらにその北側に後三の丸が配置されています。
本丸と後二の丸の間には空堀があり、本丸・後二の丸と後三の丸の間にも空堀があります。
また二の丸と三の丸の間にも空堀があります。また、本丸・二の丸・後三の丸には外側に腰曲輪が配置されています。
本本丸虎口は、三方が石垣で築かれていて桝形虎口となっています。この時期の築城術から考えればどうやら織田方によって構築されたものでしょう。現在は櫓門と城門が復元されています。
鳥越城石垣
鳥越城石垣
また、本丸櫓門脇には一段高く土塁があり、この上に望楼台が築かれていました。
後三の丸は、二段に分かれていて鳥越城の曲輪の中では一番広いものです。後三の丸の周囲には空堀が掘られています。本丸には、 礎石建物跡、掘立柱建物跡、井戸跡、便所跡、溝跡などが発掘されています。
二の丸・中の丸には中の丸門があり門の両脇は土塁が築かれています。門の外側は急な坂道でここから攻めるのはかなり難しそうです。
さて、我が軍がこの城を攻めるときにはどうすれば良いかですが、まず、城の西側は険しくてとても登れそうもないし、二の丸。中の丸の中の丸門を破るのも被害が大きくなりそうです。となれば三の丸のある南側から攻め上るのが無難でしょうか。
現在、本丸への通路となっている林道から攻め入るのはおそらく激しい抵抗が予想されるので、避けた方が良いでしょう。だいたい当時はこんな広い通路にはなっていないでしょうけど。ただし力攻めで落とすことはできるのではないかと思います。
後三の丸からの攻撃も空堀があり曲輪への法面も急勾配で難しいでしょう。
こうしてみるとなかなかに堅固な山城ですが、力攻めで落とすことはできる城と言えます。ですから織田軍に奪われた後で一向一揆衆が城を取り戻すことができたのも、必ずしも難攻不落とまでは言えない城であるということでしょう。

鳥越城跡案内図 鳥越城あやめが池と空堀
鳥越城跡案内図 鳥越城あやめが池と空堀
鳥越城後三の丸跡 鳥越城後三の丸空堀
鳥越城後三の丸跡 鳥越城後三の丸空堀
鳥越城後二の丸空堀 鳥越城本丸西側礎石建物跡
鳥越城後二の丸空堀 鳥越城本丸西側礎石建物跡
鳥越城後二の丸空堀を跨ぐ土橋 鳥越城本丸と後二の丸の間の空堀
鳥越城後二の丸空堀を跨ぐ土橋 鳥越城本丸と後二の丸の間の空堀
鳥越城後二の丸掘立柱建物跡 鳥越城中の丸柵列
鳥越城後二の丸掘立柱建物跡 鳥越城中の丸柵列
鳥越城中の丸石垣 鳥越城枡形門
鳥越城中の丸石垣 鳥越城枡形門
鳥越城本丸井戸跡 鳥越城本丸望楼台跡
鳥越城本丸井戸跡 鳥越城本丸望楼台跡
鳥越城二の丸隅櫓跡 鳥越城本丸全景と二の丸土塁
鳥越城二の丸隅櫓跡 鳥越城本丸全景と二の丸土塁
鳥越城跡
住所 石川県白山市三坂町 形式 連郭式山城 (標高312m/比高130m)
遺構 土塁 空堀 曲輪 土橋 建物跡 井戸跡 築城者 鈴木出羽守(一向一揆勢力)
再建造物 櫓門 門 石垣 柵列 城主 山内衆 吉原次郎兵衛 佐久間盛政
施設 説明板 石碑 トイレ 休憩所 無料駐車場 築城年 天正初年(1573年)頃
文化財 国史跡 廃城年 天正10年(1582年)
鳥越一向一揆歴史館
住所 石川県白山市出合町甲26
電話・FAX TEL:076-254-8020 FAX:076-254-2787
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(ただし、祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替え整理期間
入館料 一般 300円(団体は250円) 中学生以下無料
※団体とは、代表者または、責任者を有する15人以上の集まりです
駐車場 無料駐車場あり(50台)
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