国重要文化財・国史跡 宇和島城
宇和島城の概要
宇和島城天守
宇和島城天守
宇和島城は、愛媛県宇和島市にある現存天守を持つ梯郭式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。また日本100名城(83番目)に選定されています。
宇和島城は、中世期に存在した板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。
標高74メートルの丘陵とその一帯に山頂にある本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式平山城となっています。また当時は東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接していたので「海城(水城)」ともみることができます。
現存する天守などの建築は伊達氏によるものですが、縄張は築城の名手といわれた藤堂高虎が創建したものと見られます。
五角形平面の縄張りは四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されています。
城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれていますが、現在は堀も海も埋め立てられていますが、道路にその形跡が残っています。
明治以降は、大半の建物が撤去されていますが、天守、大手門などが残され、太平洋戦争では空襲により大手門を焼失して現在は、天守(国重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存しています。
また藤兵衛丸には宇和島市立城山郷土館があり、建物は山里倉庫(武器庫)を移築したものです。またこれに隣接して穂積陳重八束兄弟生家長屋門がやはり移築されています。三の丸には桑折氏武家長屋門が移築されています。
この宇和島は古くは板島といい、天慶4年(941年)に橘遠保が宇和地方の豪族となり、この地に砦を造ったといわれています。
宇和島城上り立ち門
宇和島城上り立ち門
現在の城山は、当時は島で周りを海に囲まれていた要害の地でした。
嘉禎2年(1236年)には太政大臣西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、この地に砦を置いています。当時は丸串城と呼ばれていました。 戦国時代になり、天文15年(1546年)には西園寺氏家臣である家藤監物が城主となっています。そして大友氏、長宗我部氏等の侵攻を受けるもこれに耐えています。 天正3年(1575年)には、西園寺宣久の居城となっています。 天正12年(1584年)には西園寺氏は、長宗我部元親の猛攻を受けて降伏していますが、天正13年(1585年)には今度は豊臣秀吉の四国討伐により、長宗我部氏は降伏し、伊予国は小早川隆景の所領となっています。この際に当城も隆景家臣の持田右京が城代となっています。
天正15年(1587年)隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となっています。
この際に西園寺氏当主・西園寺公広が戸田勝隆に戸田邸に招かれた際に謀殺されていて、西園寺氏は滅亡の憂き目をみています。戸田家断絶の後、文禄4年(1595年)には藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城します。
慶長元年(1596年)に高虎は、城の大改修に着手しています。 慶長6年(1601年)現在の姿の城が完成。宇和島城と改称されています。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に伊予今治20万石に加増移封となっていましたが、この年、城の完成を見て今治に移っています。この際に藤堂高虎により、複合式望楼型複合式望楼型3重3階の天守が上げられています。
慶長13年(1608年)には藤堂高虎が伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され伊勢津藩主となり、代わって富田信高が伊勢国より伊予宇和島12万石に加増転封となり入城しています。
宇和島城藤兵衛丸石垣
宇和島城藤兵衛丸石垣
しかし慶長18年(1613年)には信高が改易となっています。これにより宇和郡は徳川幕府直轄となり、藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代としています。信高が改易となったのは義弟坂崎直盛の家臣を殺害した宇喜多左門(直盛の甥)を隠蔽したことで直盛との間に争いが生じて、徳川家康と秀忠の裁定により改易され、磐城平藩鳥居家に預けられたとなっていますが、但しこれは表向きの理由で、改易の真の原因は大久保長安事件に連座したという説が本当のところでしょう。実は、大久保長安事件では長安と姻戚関係にある大名をいろいろと理由をつけて改易しています。ではなぜ改易の理由を連座としなかったのかですが、もともと長安の死後に長安の遺族を処刑したのもいいがかりに近い話でしたのでそれに連座したとしてしまうと、もしいいがかりが露見してしまうと改易した理由自体がなくなってしまうからではないかと思います。まあ、疚しいところがあったからですね。
慶長19年(1614年)には伊達政宗の長男である伊達秀宗が伊予宇和島10万石で入封しています。元和元年(1615年)には秀宗が宇和島城に入城しています。
ところが元和6年(1620年)に伊達家家老山家清兵衛が対立していた桜田玄蕃に襲撃されて一族皆殺しにあうという事件が発生しています。実はこれは秀宗がやらせたことだったのですが、秀宗はこの事件を幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父から勘当されてしまっています。山家清兵衛はもともと政宗家臣であり、政宗側の人間でした。そのため事あるごと様々なことに口を挟んだため秀宗は疎ましく感じていたとされ、この事件の引き金となったのでしょう。さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対し宇和島藩の返上を申し入れるという事態に発展してしまいます。これを和霊騒動と呼んでいます。秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩井伊氏に仲介を依頼したりと運動しています。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げています。
寛文2年(1662年)には2代藩主・宗利が老朽化した城の改修に着手しています。寛文11年(1671年)には城は改修竣工しています。この際に天守が建て替えられて、現在の独立式層塔型の新天守となっています。
現在の天守は、独立式層塔型三層三階で本瓦葺き、白壁の総塗りごめ造りとなっています。正面最上層の屋根に唐破風、二層に大型の千鳥破風、その下に二つの千鳥破風を並べ、最下層にこれらの総てを受けた玄関に大型の唐破風があります。妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、また屋根瓦にも「九曜」が用いられています。また、上り立ち門(市指定)や二の丸・藤兵衛丸・長門丸・代右衛門丸などの石垣遺構も現存しています。
明治4年(1871年)、明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となります。明治33年(1900年)頃から櫓・城門などが解体されています。
昭和9年(1934年)天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
昭和12年(1937年)12月21日には国史跡に指定されています。管理団体は宇和島市とされています。
昭和20年(1945年)太平洋戦争の際に空襲により大手門を焼失しています。昭和24年(1949年)には伊達家が天守と城山の大半を宇和島市に寄贈して、城は市の管理下に置かれています。昭和25年(1950年)文化財保護法の施行により天守が改めて国重要文化財に指定されています。
昭和35年から昭和37年(1960年 - 1962年)にかけて天守を解体修理しています。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(83番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
宇和島城
住所 愛媛県宇和島市丸之内1番地
各施設の
営業時間
定休日
施設名など
時間
料金
休日
宇和島城(城山)
4月〜9月
6:00-18:30
無料 無休
10月〜3月
6:00-17:00
天守
Tel 0895-22-2832
9:00-16:00
区分
大人
小中学生
通常
200円
100円
65歳以上・身障
100円
50円
クーポン
160円
80円
団体(20人以上)
160円
80円
天守ライトアップ
日没-22:00
-
城山郷土館(旧山里倉庫)
Tel 0895-22-3904
9:00-16:00
無料 月曜(祝日の場合は火曜)
年末年始(12/29〜1/3)
城山下駐車場 普通車
24時間
100円/時間 無休
大型バス 600円/時間
宇和島城跡
住所 愛媛県宇和島市 形式 梯郭式平山城 現存天守:独立式層塔型三層三階
遺構 現存天守 門 石垣 築城者 橘遠保 藤堂高虎 伊達宗利
移築建造物 倉庫 長屋門  城主 橘遠保 西園寺氏 小早川隆景 戸田勝隆 藤堂高虎 伊達氏
駐車場 城山下駐車場(有料) 築城年 天慶4年(941年)
文化財 国重要文化財・国史跡・市指定史跡  廃城年 明治4年(1871年)
国重要文化財・国史跡 宇和島城マップ
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