国史跡 和田山城(和田山・末寺山古墳群)
和田山城の概要
和田山城の説明板
和田山城の説明板
和田山城は、石川県能美市和田町にある国史跡「和田山・末寺山古墳群」の中にある平山城です。
和田山城の標高は36mとさほど高くはありませんが、和田山には多数の古墳群があり、見所は充分です。
現在、この古墳群は史跡公園として整備されており、古墳の他に弥生末期の竪穴建物跡や高床式倉庫跡に囲まれた憩いの広場やテニスコートがあり、市民の憩いの場となっています。
また能美市立歴史民俗資料館が設置されていて、ここでは多数の出土品が展示されています。
この和田山・末寺山古墳群とすぐ近くにある秋常山古墳群など、手取川左岸に広がる能美平野には能美古墳群と称される60数基の古墳が点在しています。
和田山・末寺山古墳群はこの能美古墳群の中でも最大規模の遺構を持っていて、昭和50年には国指定史跡に指定されています。当古墳群は昭和26年以来5次におよぶ発掘調査が行われていて、3世紀後半から6世紀の間に造られた、前方後円墳や円墳など40数基が確認されています。
この古墳群からは古墳時代における古墳造りや埋葬施設の変遷をみることが出来ます。中でも5世紀に造られた和田山5号墳は全長約56メートルの前方後円墳で、2つの埋葬施設を持っています。その埋葬施設からは神獣鏡、甲冑、刀などの武器・農工具類や鈴釧など大量の副葬品が出土しています。特に武器・武具が多いことから、この古墳に埋葬された人は、強大な武力によって能美地域を支配した首長であったと推測されます。
和田山城本丸にある9号墳が櫓台となっています
和田山城本丸にある9号墳が櫓台となっています
また、和田山1・2・9号墳からも沢山の副葬品が出土しています。これらの副葬品は隣接した能美市歴史民俗資料館で公開されています。ちょっとおもしろいのが、6号墳で円墳の周囲に空堀があり、円墳への土橋があることで、まるで城のような造りとなっています。
さて、時代は降って戦国時代となると、加賀国は一向一揆が力を持つようになり、永正3年(1506年)には、和田坊超勝寺によってこの和田山城が築かれています。実は、本丸にある櫓台は現在では9号墳と呼ばれている円墳を加工したもので、変形してはいるものの、現在でも古墳であったことが容易に推測できる状態で存在しています。
櫓台のすぐそばには方形周溝墓と呼ばれる形式の14号墓があり、古墳の中に本丸があるようなものです。
また二の丸に隣接する櫓台は、8号墳を加工したものであり、古墳を利用して築かれた城ということが言えます。
享禄4年(1531年)には、加賀一向一揆の主導権争いから大小一揆が起き、本願寺が推す大一揆超勝寺が勝利し、小一揆賀州三ヶ寺が粛正されて加賀は本願寺領国となっています。
天正3年(1575年)に越前一向一揆を制圧した織田信長は、加賀国にも侵入して江沼・能美郡をも支配下に組み込み、北の庄城の柴田勝家に配しています。柴田勝家は、この和田山城に家臣の安井左近を入れて改修させたと見られ、現在の遺構はこの時のものであると考えられます。天正8年(1580年)には佐久間盛政によって加賀一向一揆の拠点である加賀尾山御坊(金沢城)が陥落すると、一揆側は白山麓の船岡・鳥越城など能美丘陵に築かれた諸城に籠り、最後の抵抗を試みています。
和田山・末寺山史跡公園の説明板
和田山・末寺山史跡公園の説明板
この際に和田山城には安井左近が城主となって一揆側と戦っています。天正10年(1582年)には鳥越城が陥落し、一向一揆が壊滅すると この城の役目も一応は終わったといえ、おそらくはさほど時を経ずして廃城になっていると思われます。
現在の和田山城を見ると、本丸の北側と南側には土塁があり、北側の二の丸の北側にも大きな土塁があって、ここには櫓があったものと思われ、けっこう厳重な防御施設が設けられています。 本丸は櫓台の南北でさらに土塁で仕切られています。
また空堀もたいへん深く幅の広いもので、虎口、犬走などの遺構もしっかり残っていて、第一級の遺構を残しています。
これらの土塁は実は古墳を利用したもので、たいへん罰当たりな事をしているわけですが、このような実例は他でも数多く見られます。また本丸と二の丸との通路は枡形地形となっていて織豊系城郭の性格を持っているので、やはり織田系の城造りがなされていると見ることができます。
さて、我が軍がこの城を攻めるにはどうするかですが、この城は標高が低く小規模な城なので、大軍で攻めれば簡単に落とせそうな城です。二の丸方面の空堀は深く広いのでここから攻めるのはやめておいた方が良いのですが、城の南東側は空堀がなく、腰曲輪がいくつか並んでいるだけで、これらも捨曲輪でしょうから、攻めるなら南東側の本丸の西側裏手からでしょう。
なぜか本丸の西側が手薄なのですが、どうもこの城は東側からの攻撃に備えることに重点を置いているようで、なぜか空堀も東側だけにあります。つまり織田軍が加賀に侵攻して能美郡を占領した後、城の東側にある金沢御坊や鳥越城からの攻撃に備えて城を改修したから、このような造りになっていると考えられます。ですから現在の遺構はやはり織田軍によって造られたものという説を裏付ける事実と言えましょう。

復元番所(左)と復元厠 空堀
説明板 空堀
空堀の向こうにある櫓台は実は8号墳 空堀は当時はもっと深かったのだろう
空堀の向こうにある櫓台は実は8号墳 空堀は当時はもっと深かったのだろう
空堀はかなりの深さです 空堀と土橋
空堀はかなりの深さです 空堀と土橋
二の丸の櫓台 二の丸はさほど広くはない
二の丸の櫓台 二の丸はさほど広くはない
虎口 桝形地形
虎口 桝形地形
櫓台から空堀を見下ろす 櫓台(8号墳)の頂上
櫓台から空堀を見下ろす 櫓台(8号墳)の頂上
虎口付近 本丸下の空堀
虎口付近 本丸下の空堀
本丸はかなり広い 本丸の周囲には土塁があった
本丸はかなり広い 本丸の周囲には土塁があった
本丸北側の土塁 本丸の南側に櫓台(9号墳)
本丸北側の土塁 本丸の南側に櫓台(9号墳)
9号墳を櫓台にするとは・・・ 本丸土居
9号墳を櫓台にするとは・・・ 本丸土居
本丸が櫓台と土塁により仕切られている 本丸南側の周囲にも土塁が続いている
本丸が櫓台と土塁により仕切られている 本丸南側の周囲にも土塁が続いている
これは実は14号墳なのです 方形周溝墓という形式なのです
これは実は14号墳なのです 方形周溝墓という形式なのです
本丸櫓台 本丸櫓台の頂上
本丸櫓台 本丸櫓台の頂上
櫓台の上から本丸を見下ろす 本丸を仕切る土塁
櫓台の上から本丸を見下ろす 本丸を仕切る土塁
14号墳 本丸南側の腰曲輪
14号墳 本丸南側の腰曲輪
腰曲輪をつなぐ通路 9号墳と14号墳
腰曲輪をつなぐ通路 9号墳と14号墳
腰曲輪はほとんど捨て曲輪でしょう 本丸と腰曲輪をつなぐ階段
腰曲輪はほとんど捨て曲輪でしょう 本丸と腰曲輪をつなぐ階段
1号墳 2号墳
1号墳 2号墳
高床式倉庫跡 3号墳
高床式倉庫跡 3号墳
23号墳 4号墳
23号墳 4号墳
22号墳 6号墳
22号墳 6号墳
6号墳にある土橋 7号墳
6号墳にある土橋 7号墳
能美市立歴史民族資料館
住所 〒923-1121
石川県能美市寺井町を20
電話 0761-58-6103
営業時間 午前9時から午後5時
休館日 月曜日(祝祭日の場合は翌日),年末年始
入館料 無料
和田山城
所在地 石川県能美市和田町 形式 連郭式平山城 (標高36m/比高27m)
遺構 曲輪、土塁、空堀、櫓台、犬走、虎口、古墳 築城者 和田坊超勝寺
施設 説明板、トイレ 城主 和田坊超勝寺、安井家清
駐車場 無料駐車場あり 築城年 1506年(永正3年)
文化財 国史跡 廃城年 1582年(天正10年)以降
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史跡 和田山城マップ
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