史跡 安川城跡
安川城の概要
安川城本丸
安川城本丸
安川城は、富山県砺波市安川字父倉にある中世山城です。
安川城は、別名「鬼ヶ城」あるいは「浅野谷城(あさんたんじょう)」ともいい、砺波市内では増山城跡に次ぐ規模を有する中世山城です。
塩谷集落の南の丘陵に築かれ、尾根筋に曲輪が配され、堀切や竪堀を備えた山城です。
城の遺構としては、堀切、竪堀、土塁、古池跡、切岸と揃っています。特徴的なのは尾根道を通路として計画的に郭を配置していて、絶えず横矢が掛かるようにしてあることで、防備はかなり固いと評価できます。
主郭手前の堀切と古池跡はこの城随一の遺構ですが、実はここからすぐに主郭に入るのではなく、右へ迂回して段郭側から主郭に入るのが大手なのですが、そこまでの整備はまだ進んでいないのが残念です。
この城の別名「鬼ヶ城」の鬼にあたるのは、黒田太左衛門尉のことで、般若野荘という中世に栄えた荘園の荘官(役人)を務めた人物です。
室町時代、般若野荘を治めていた京の公家・徳大寺実淳(さねあつ)が文明6年(1474)視察のために越中に下向し、安川の薬勝寺に滞在し、太左衛門を荘官に任じます。
これは、14世紀後半、般若野荘は領家方(徳大寺家)と地頭方によって下地中分(土地の折半)が行われまているのですが、これが原因だと思われます。つまり領主側が荘園の自力での経営が困難になってきて、土地を折半することで収拾を図ろうとしたのでしょう。この事実はつまりは荘園の不振や混乱があり、領主がある意味自力経営を放棄したとみなすこともできます。
本丸手前の堀切と古池
本丸手前の堀切と古池
実は当時はこのような土地の権利を領主と地頭で折半するという現象は西日本を中心に多く行われていて、荘園公領制が崩壊し始めていたことを物語っているといえましょう。
そしてこの過程で太左衛門には徳大寺に対して何らかの不満が生じ、荘園領主に反抗したと思われます。これもまあ、よくあったことのようですね。しかし、のちに太左衛門は横暴を振るい、悪党を従えて城に立てこもりました。
黒田氏一族は城で滅亡したとも伝わります。実際の城を見た限りでは、守りはそこそこ堅固な備えがあるのですが、あまり多人数が籠城することはできないと思われますので本格的な大軍に攻められたらたちまち落城となるでしょう。
さて、ここでいう悪党というのは別に悪人という意味ではなく、強いとか精悍とかいう意味であり、荘園を実力で横領する集団ということになります。
徳大寺実淳の孫である徳大寺実通は、天文3年(1534)と同14年(1545)に越中へ下向していますが、天文14年の下向の折に、現地で従者ともども殺害されてしまいました。その実通らを葬ったと見られるのが親王塚であり、薬勝寺の南の公卿塚がその従者の墓といわれています。この殺害犯が誰かは明確ではないのですが、たぶん神保氏が犯人かと。
さて黒田氏はどうなったのかですが、長尾為景の越中侵攻により敗死したと言われていますが、長尾為景が越中に侵攻したのはその父能景が般若野の戦いで戦死した永正3年(1506年)9月以降のことですし、神保慶宗が長尾為景に滅ぼされたのは永正17年(1521年)12月のことですから、ちょっと年代が離れているのではないかと。
安川城は戦国期には増山城の支城として使用されたと考えられ、神保氏の支配だったとされるので、実は神保氏によって滅ぼされていたりして。神保氏は長尾能景も滅ぼしていますし、当時はかなり隆盛を誇っていたのです。

ここから登城します。 登城口にはこのような標識が
ここから登城します。 登城口にはこのような標識が
急な坂道を登っていきます 登城道の両側に土塁が
急な坂道を登っていきます 登城道の両側に土塁が
狭い登城道が続きます 土塁に挟まれた登城道
狭い登城道が続きます 土塁に挟まれた登城道
登城道は曲がりくねっています 登城道が続きます
登城道は曲がりくねっています 登城道が続きます
登城道は何度もカーブしながら急こう配で続きます 登城道はかなりの勾配があります
登城道は何度もカーブしながら急こう配で続きます 登城道はかなりの勾配があります
典輪がありました 結構広い郭です
典輪がありました 結構広い郭です
さらに先を急ぎます 土塁が登城道を守っています
さらに先を急ぎます 土塁が登城道を守っています
右側には郭があり、ここで狙い撃ちされるか 竪堀がありました
右側には郭があり、ここで狙い撃ちされるかも 竪堀がありました
竪堀がなくてもこんなところ上がってくるのは大変です さらに登っていきます
竪堀がなくてもこんなところ上がってくるのは大変です さらに登っていきます
土塁が残っています また郭がありました
土塁が残っています また郭がありました
この郭も結構広いのです 尾根伝いの登城道は土橋状になっています
この郭も結構広いのです 尾根伝いの登城道は土橋状になっています
主郭の手前に堀切がありました ここは主郭への最後の防御施設のようです
主郭の手前に堀切がありました ここは主郭への最後の防御施設のようです
堀切が残っています 堀切と古池跡が残っています
堀切が残っています 堀切と古池跡が残っています
古池跡が残っています 主郭下の切岸が切り立っています
古池跡が残っています 主郭下の切岸が切り立っています
主郭にはこのような柵がありました 主郭はかなり広い削平地です
主郭にはこのような柵がありました 主郭はかなり広い削平地です
段郭は進入困難でした 主郭にはどのような建築物があったのか
段郭は進入困難でした 主郭にはどのような建築物があったのか
主郭から一段低い郭は馬小屋だったとの言い伝えが 主郭から虎口方面を見下ろすと
主郭から一段低い郭は馬小屋だったとの言い伝えが 主郭から虎口方面を見下ろすと
安川城跡
住所 富山県砺波市安川字父倉 形式 山城 (標高192m/比高70m)
遺構 郭 土塁 堀切 竪堀 虎口 古池跡  築城者 黒田太左衛門尉
施設 案内板 城主 黒田太左衛門尉
駐車場 なし 築城年 不明
文化財 なし 廃城年 不明
 スライドショー
スライドショーの使い方

 3つのボタンで画像を移動できます。
 
 最初・・・最初の画面に戻ります。

 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。

 次へ・・・次の画像に移動します。
 
 拡大・・・拡大画像を表示します。
               
 
史跡 安川城跡 マップ