国史跡 江馬氏館跡
江馬氏館跡の概要
江馬氏城館跡 復元会所
江馬氏城館跡 復元会所 
江馬氏館跡は、神岡町周辺にある江馬氏の城跡群です。
居館である下館と本城高原諏訪城を含む6カ所の山城群が国史跡に指定されています。
江馬氏は、飛騨国吉城郡を本拠とした中世豪族で、1372年(応安5年)、山科家領の濫妨停止の使節として「山科家文書」に登場していて、以後しばしば文献に登場します。
江馬氏下館は、江馬氏の居館として神岡町殿にあり、その背後の東側山稜に本城である高原諏訪城が築かれていました。
支城群としては北部には神岡町土に土城、西部には神岡町寺林には寺林城、神岡町西には政元城があり、南東部には神岡町麻生野に洞城、神岡町石神に石神城が置かれていて、いずれも街道筋を守るように築かれています。
江馬氏の居館である下館は、昭和49年に土地改良工事に伴い神岡町教育委員会による発掘調査が実施されて、この際に建物跡、土塁跡、堀跡、庭園遺構が確認されています。
本城である高原諏訪城は、下館背後の山稜上に築かれ、南端の東、南、西を川と急峻な斜面に囲まれた一峰を加工し、土塁、腰曲輪、堀切、竪堀が現存しています。この山を城山と呼び主体部と考えられているが、北方の稜線上にも平場や大堀切などの遺構が残っていて、かなり大規模な山城であったことが伺えます。
江馬氏城館跡 復元主門
江馬氏城館跡 復元主門 
土城は、神岡町土の牛首城山にあり、高原川と跡津川の合流点の岩山に築かれています。頂部に2段の平場があります。
高原郷の主要道は現在では国道41号線に当たる越中東街道ですが、もう1本東に山中唐尾峠を経て越中と信州松本平を結ぶ鎌倉街道が重要な交通路でした。高原郷から鎌倉街道へは、まず土より分岐して大多和峠を経て有峰に到る道があります。ここは以前は有峰林道への通路でしたがかなりの難所で現在は通行止めとなっています。土城はその分岐点に置かれています。
この土城は越中国と飛騨国の交通の要衝に置かれていたことになり、大多和峠、有峰を経て江馬氏の属城であった越中国中地山城との連絡にあてられていました。
寺林城、政元城も越中東街道沿いにあります。寺林城は玄蕃山と呼ばれる半独立峰頂部にあり、2段の平場が残っています。
政元城には円形の平場と腰曲輪がみられる。越中東街道はこの地において神原峠を越える本道と、数河峠をこえる脇道とに分かれるが、政元城はその分岐点に置かれていて、街道の要衝に築かれていたことになります。
高原郷と鎌倉街道を結ぶ道には大多和峠を越える他には南方の上宝に出る道があります。この道は下館の通過しますが、この古道に沿って築かれたのが洞城、石神城となります。
両城とも山頂を利用して2段程の平場を設けた簡単な構造ですが、お互いが展望できるように築かれていて、どちらかというと監視所の役割があったと思われます。
江馬氏城館跡 西側土塀(復元)
江馬氏城館跡 西側土塀(復元)
江馬氏の出自は、『飛州志』所収の系図によれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、その土地の名をとって江馬小四郎と名乗った」のが祖であると記されている。
しかし実は2代執権である北条義時が江馬小四郎と名乗っているので、飛州志の所伝ははなはだ疑わしいものです。
他にもいくつかの説があるようですが、決め手がなく、飛騨の戦国大名江馬氏の出自については未だにはっきりしません。
歴史上にその存在がはっきりするのは応安五年(1372年)に江馬但馬四郎が、飛騨岡本上・下保など山科家領の確保を幕府から命じられている頃からです。文明三年(1471)にも江馬左馬助が同様の命令を受けています。
江馬氏が飛騨高原郷を本拠にするようになったのはいつ頃なのかですが、万里集九の漢文文集『梅花無尽蔵』のなかで、延徳元年(1489年)五月六日に、万里集九が高原城下に来て江馬氏から酒食のもてなしをうけているという記事があります。つまりこの頃にはすでに江馬氏が高原諏訪城を本拠にして、かなりの勢力を持っていたと考えられます。
江馬氏歴代のなかで具体的に判明してくるのは江馬時経からです。
江馬氏城館跡 西堀(薬研堀) 
江馬氏城館跡 西堀(薬研堀) 
江馬時経は、享禄から天文年間(1528~55)の人であり、時経の娘は、飛騨守護京極氏の被官から次第に頭角を表した三木(姉小路)良頼の妻となり、三木氏との間に友好関係が結ばれています。しかし、娘の夭逝によって三木氏と事を構えるようになり、ついには江馬氏と三木氏は宿敵の関係となってしまいます。
三木氏と江馬氏とは当初は婚姻関係により同盟を結んでいたと思われます。
天文八年(1539年)三月に三木直頼は高原へ出張しています。これは、直頼の嫡子良頼の室となった時経の娘が病臥中であったためでしょう。残念ながら時経の娘は病死してしまいますが、直頼は時経の胸中を憚って、萩原城下にきた能衆に興行を許さなかったと言われています。
つまり三木直頼は、江馬氏に対して親和を図り、その関係に疑惑を持たせるような行動を慎んだのだと考えられます。そのような三木氏に対して江馬氏は三木氏の東濃出兵に際して加勢を送るなど同盟関係を保っています。
ところが、天文十三年(1544年)三月にいたって、理由は不明ですが、三木氏と江馬氏が敵対するようになったようです。
三木新九郎・同四郎次郎が三仏寺近くの鍋山城へ入り、直頼も出陣しようとしています。これが江馬時経に対しての出陣であったと思われるのです。いったい何があったのか・・・。
飛騨の守護は長く京極氏がつとめていましたが、三木直頼は飛騨における自己勢力の拡大に専念していて、事実上京極氏から飛騨の実権を奪い取っています。そして、天文十五年五月、江馬時経が死去しています。
江馬氏城館跡 庭園(復元)
江馬氏城館跡 庭園(復元)
三木氏にとっては強敵であった江馬時経の死は、三木氏にとっては好都合であり、直頼は益田・大野両郡ばかりでなく、北は吉城郡、南は恵那郡にまで勢力を拡大したのでした。
一方、江馬氏は時経死後は、嫡子の時盛が家督を継いでいます。この際には、三木氏と江馬氏は和解していたようです。
しかし天文二十三年六月には今度は三木直頼が死去して、その跡は良頼が継いでいます。
このころ、飛騨の隣国美濃には斎藤道三・義龍父子、尾張には織田信長、駿河に今川義元、甲斐に武田信玄、越後に長尾景虎(上杉謙信)、越前には朝倉義景が割拠してそれぞれ威勢を振るっていました。
なかでも甲斐の武田信玄は、信濃に兵を出しその過半を攻略していました。その武田氏に、木曾谷の木曾氏、東濃岩村の遠山氏らが誼を通じてその勢力下に属するようになっていました。信濃と隣接する飛騨も武田氏と長尾氏の抗争に次第に巻き込まれるようになっていきます。
天文二十四年(1555=十月に改元されて弘治元年)七月、武田信玄は信濃に出兵し、越後の長尾景虎も信濃の村上・高梨氏らの要請により善光寺へ出陣しています。これが、世に言う川中島合戦の第一回の対陣でした。このとき、越前の朝倉氏は朝倉宗滴を大将として加賀に攻め入り加賀一向一揆衆と戦っています。これは、長尾景虎の依頼を受けたもので、当時、長尾氏と朝倉氏との間には攻守同盟が結ばれていたのです。この際に長尾景虎から朝倉氏へ送られた使僧は飛騨を通って越前へ向っています。それを警固したのが実は三木良頼でした。つまり良頼は朝倉・長尾同盟に与していたことになります。
江馬氏城館跡 庭園と土塀(復元)
江馬氏城館跡 庭園と土塀(復元)
一方、江馬時盛は武田信玄と結び、上杉謙信と結ぶ南飛騨の三木氏に対抗するようになり、弘治二年(1556年)南進を図って姉小路氏を破っています。さらに永禄四年(1561年)にも武田氏に通じて兵を挙げたが、このときは結局は講和となり良頼方の勝利に終わっています。以後、しばらく飛騨一国は平穏な日々が続いた。
しかし、時代の潮流は激しさを増し、信玄は永禄五年(1562年)西上野に出陣して上杉方の諸城を攻め、翌年には北条氏、武田氏の連合軍が上杉方の武蔵松山城を攻めています。一方、上杉謙信は武蔵松山城救援のために出陣していますが、時すでに遅く武蔵松山城は落城して北条氏の手に落ちていました。
一方、上杉謙信は越中を河田豊前守に守らせ、永禄六年(1563年)、吉城郡山中塩屋城に拠る三木氏の部将塩屋筑前守を降して、飛騨半国を確保しています。こうして、越中の神保氏と一向一揆とは上杉氏のために圧迫を受けるようになっていて、その影響が飛騨にも及ぶようになったわけです。
一方、武田信玄は永禄六年(1563年)、飯富(山県)三郎兵衛昌景に命じ、飛騨高原郷へ攻め込ませた。このとき、江馬時盛は武田氏に属し、実は上杉方に心を寄せていた子の輝盛もこの際は止むなく父に従っています。
江馬時盛は武田氏への証人として、僧籍にあった三男を差し出し、信玄はこの出家を右馬允と名乗らせ旗本に置いています。
江馬氏城館跡 会所(復元)
江馬氏城館跡 会所(復元)
こうして江馬時盛・輝盛父子は武田氏に属するようになり、武田氏は越中への道を確保することができたことになります。
ついで武田氏は上杉氏に通じている三木氏一族を制圧するため、改めて大軍を飛騨に差し向けています。一軍は山県昌景を大将に、もう一軍は木曾氏の兵をもって進攻させています。江馬氏も武田軍と合流して、三木氏を攻撃しています。
これに対して、三木氏は抗戦の姿勢を示し、武田の大軍を迎え撃ちましたが、多勢に無勢で鳥越城は陥落し千光寺も炎上する事態となり、三仏寺領を江馬氏に引き渡して武田氏に降伏しています。
こうして、越中への通路が自由となったため、永禄八年(1565年)、武田軍は江馬氏を先陣として越中に攻め入り、松倉城主椎名氏を降しています。その結果、江馬氏は越中国新川郡中地山城を信玄から預けられることになり、その勢力は越中にまで及ぶようになっています。ところが江馬時盛は、嫡子輝盛と不和でした。その原因は時盛が甲斐武田氏に接近して家の安泰を保とうとするのに対し、輝盛は越後上杉氏と接近してその勢力拡張を図ろうとしたことにありました。そのため、時盛は家督を輝盛ではなく三男の信盛に継がせようとしました。信盛は武田氏に人質として送られていて、信玄の旗本となって数々の戦場で功をあらわしていたのですが、信盛は兄輝盛をはばかって家督を受けずにそのまま武田氏に仕えています。そこで時盛は分家麻生野直盛の子慶盛に家督を譲ることを考えていました。慶盛は甲斐に使者として赴き信玄にも謁した人物で、親武田派でした。
江馬氏城館跡 北堀
江馬氏城館跡 北堀
元亀三年(1572年)、武田信玄は上洛の軍を起こしたがその途中で病を発し、翌天正元年、ついに帰らぬ人となっています。
信玄病死の報に接した輝盛は、慶盛擁立を図ろうとする父時盛の殺害を決意し、天正元年七月、とうとう父時盛を暗殺し江馬氏の家督を襲っています。さらに輝盛は弟の信盛を追放し、慶盛も攻め滅ぼして江馬氏を掌握しています。そして、天正四年(1576年)飛騨へ進出してきた上杉氏に三木氏ともども降伏したのです。しかしこれはどうだったのでしょうか。三木氏は以前から親上杉勢力ですからわかるのですが、江馬氏が上杉氏に降るということは、今後は宿敵三木氏を凌ぐことは難しいことになるのではないでしょうか。武田氏はその家督を勝頼が継いでいますが、天正三年(1575年)、織田・徳川連合軍に長篠の戦いで敗れ、武田氏の勢力は大きく失墜した。さらに天正六年(1578年)三月、上杉謙信が急病で死去して、御館の乱が起こり内戦状態になったことで、上杉氏の勢力も大きく後退しました。武田氏、上杉氏とも弱体化するという状況の激変に対して、江馬氏の宿敵三木氏はいち早く織田信長に誼を通じて、所領の安泰を図ろうとしています。
武田・上杉氏の勢力が後退したことから、織田信長の天下統一事業が大きく前進しました。天正十年(1582年)三月、信長は甲斐に侵攻して武田氏を滅ぼしています。同時に織田軍は越中にも侵攻し、富山城を落とし、魚津城を包囲しています。ところが織田信長は同年六月にあの本能寺の変により横死しています。
江馬氏城館跡 常御殿跡
江馬氏城館跡 常御殿跡
信長の死によって織田氏の勢力が崩れたのを好機とした江馬輝盛は、同年十月、織田氏に接近していた三木自綱との決戦を企図して三千騎の軍を率いて南下しました。対する三木自綱は牛丸親正・小島時光らと同盟軍を組織し、その兵力二千余をもって江馬勢を迎え撃っています。三木自綱は少ない兵力ながらも籠城を愚策として退け、江馬勢を大阪峠の出口荒城川沿岸に誘って、勝敗を一気に決しようとしたのです。これを世に「八日町の戦い」と呼んでいます。
江馬輝盛軍は小島城下に迫り、八日町において合戦が開始されました。緒戦は兵力に優る江馬勢の志気が大いに上がって、三木軍を広瀬方面に圧しています。ところが、そのとき三木勢の伏兵が起って輝盛の本陣に斬り込み、虚を突かれた輝盛が驚いているところを、三木勢の発した銃弾が命中し、江馬輝盛はあっけなく討死しました。総大将を失った江馬勢は総崩れとなり、多くの家臣が討死した。いまも、「十三墓峠」の名が残り江馬氏と三木氏の合戦を偲ばせています。
この合戦は「飛騨の関ヶ原の戦」とも呼ばれていて、『飛州志』『斐太後風土記』『大成院文書』などにも概要が記述されています。それらに拠れば、三木自綱は鉄砲を使用していたのが分かります。つまり織田氏と結んでいた三木氏と武田・上杉氏と結んでいた江馬氏の戦法の差が勝敗を分けたことを示していて興味深いものがあります。いいかえれば、三木軍は鉄砲という新兵器を保有していて、一方江馬氏は旧戦法によって戦ったことになり、その結果は新兵器を用いた三木氏の勝利に終わったことになります。
江馬氏城館跡 西堀(箱堀)
江馬氏城館跡 西堀(箱堀)
兵力・地勢に優っていた江馬氏が敗れたのは、結局、新時代への対応が遅れたためともいえましょう。
もっとも上杉氏や武田氏が鉄砲を使っていなかったということではありません。彼らもかなりの鉄砲を保有していたのですが、江馬氏はあまりに山深い高原郷に割拠していて新戦法に対する認識がまだ薄かったのは否めないのでしょう。
この決戦の後、小島時光は高原郷へ攻め入り、江馬氏の本城である高原諏訪城を落として、江馬氏は滅亡してしまったのです。江馬輝盛が滅ぼされたことで、三木氏改め姉小路氏の飛騨一国平定が成ったのです。しかし、その三年後の天正十三年、姉小路氏もまた豊臣氏の攻撃を受けて滅亡してしまい、ここに至って飛騨の戦国時代は終焉を告げたのでした。
しかしこれには後日談があり、江馬輝盛が「八日町の合戦」で討死したとき、輝盛の子時政は越中に逃れ、さらに越前大野の金森長近を頼って落ち延びています。以後、金森氏に属して天正十三年、羽柴秀吉と対立する富山城主佐々成政を討伐する戦いが起されたとき、時政は金森軍に参加し、飛騨に侵攻して佐々成政と結ぶ姉小路自綱攻めに功があったのです。ところが、戦後の論功行賞で旧領に復帰がかなわなかったことでその不公平さに不満を抱いた時政は、反乱を起こして金森軍と戦いましたが、その結果江馬時政は敗死してこれによって江馬氏は完全に滅亡したのです。以後の飛騨国は、金森長近が治めるようになり、徳川幕府の支配下でも引き続き金森氏が高山藩主として飛騨国を治めましたが、金森氏は元禄5年(1692年)7月、出羽国上山に転封になり、以後の飛騨国は天領となっています。
江馬氏城館跡 会所内部・西座敷 江馬氏城館跡 会所内部・主人の居間
江馬氏城館跡 会所内部・西座敷 江馬氏城館跡 会所内部・主人の居間
江馬氏城館跡 会所内部・南主座敷 江馬氏城館跡 会所内部・次の間
江馬氏城館跡 会所内部・南主座敷 江馬氏城館跡 会所内部・次の間
江馬氏城館跡 会所内部・縁側 江馬氏城館跡 会所内部・控えの間
江馬氏城館跡 会所内部・縁側 江馬氏城館跡 会所内部・控えの間
江馬氏城館跡 庭園・南側 江馬氏城館跡 北堀
江馬氏城館跡 庭園・南側 江馬氏城館跡 北堀
江馬氏下館会所
住所 岐阜県飛騨市神岡町殿
TEL 0578-82-2255 FAX:0578-82-0951
休館日 12月1日~3月31日(期間中は無休)
開館時間 午前9時~午後5時 (入館は午後4:30まで)
入館料 <個人> 大人200円 小人100円 <団体>(20名以上)大人160円 小人80円
駐車場 無料ですがスペースが小さいので満車の場合は宙ドームへ
江馬氏館跡
住所 岐阜県飛騨市神岡町殿その他6ヶ所 形式 平城(江馬氏下館) 山城(高原諏訪城その他)
遺構 建物跡、土塁跡、堀跡、庭園遺構 築城者 江馬氏
再建造物 会所、庭園、門、堀、塀 城主 江馬氏
施設 説明板 トイレ 無料駐車場あり 築城年 不明
文化財 国史跡 廃城年 天正10年(1582年)
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