史跡 高山城跡
高山城の概要
高山城説明板
高山城説明板
高山城は、富山県富山市婦中町高山にある中世山城です。
戦国期に神保氏家臣寺嶋氏により築城され、寺嶋氏が城主としてこの一帯を治めていました。
この高山城は、富崎城(滝山城)の出城として築かれたと考えられています。
標高199mの山頂付近に主郭があり、険しい地形に築かれていて、攻めるに難しい山城です。
実際に登城してみると、あまりにも急峻な地形であり、これではとてもまともには攻めることは難しいと思われます。
筆者がこれまで登城した山城の中では最も急峻な地形であると断言します。正直言って山城初心者は、ここは避けた方が良いのではと思ってしまいます。
この城の特徴として、主郭を初めとする各郭がいずれも平坦地が狭く、細長いことと、北側と南側の郭群が独立していて一城別郭となっていることでしょう。この堀切も極めて深いもので通過が困難なものです。
このような構造の城は、相互に連携が取りにくいので城の防御としては本来は好ましくないのですが、意外とこの手の一城別郭の城というのは多いものです。なぜこのような城が築かれるのかというと、一つには複数の対等に近い勢力が協力し合う意味で隣接して城を築いたりするからです。ですからその複数の勢力は一応は協力し合う形で同盟関係にあるわけですが、最悪の場合は袂を分かつこともあり得るわけで油断がならないのです。
ただし、この高山城の場合はどういう経緯で城が築かれたのかはよくわかりません。まだ近世的な築城技術を取り入れて築城されたという感じではないので、単に地形的な制約からこのような構造になったのかも知れません。
麓には町ケ平などの地名が残っていてこの一帯に土豪が長く居住したと考えられます。城主であったと思われる神保氏重臣の寺嶋牛助の墓が高山集落に残っています。
寺嶋氏は、小島氏と並ぶ神保氏譜代の重臣ですが、上杉謙信が天正4年(1576年)に越中を制圧した際に寺嶋牛助を含めほとんどの有力国人は謙信の幕下に属しています。しかし、天正6年(1578年)に謙信が急死すると寺嶋氏らは織田方に寝返っています。
天正9年(1581年)、佐々成政が越中に入国すると、寺嶋氏は再び反旗を翻していますが、佐々成政に富崎城(滝山城)を落とされてしまいます。その後、どうやら佐々成政に許されその配下に入り、末森合戦では佐々方として奮戦しています。
越中国が前田の支配下となった後は、前田氏家臣となっています。

高山城縄張り図 高山城周辺図
高山城縄張り図 高山城周辺図
高山城縄張り図 町ヶ平
登城口 町ヶ平
的場には立て札がありました 的場
的場には立て札がありました 的場
敷地にも立て札が このあたりから急峻な地形になります
敷地にも立て札が このあたりから急峻な地形になります
さらに山中に分け入っていきます 狭く急な登城道を登っていきます
さらに山中に分け入っていきます 狭く急な登城道を登っていきます
極めて急な地形です あまりに急な登城道です
極めて急な地形です あまりに急な登城道です
この奥に曲輪があります 本当にここを登るのですか
この奥に曲輪があります 本当にここを登るのですか
この周囲は腰曲輪になっています 案内板が倒れていました
この周囲は腰曲輪になっています 案内板が倒れていました
腰曲輪 この上が主郭です
腰曲輪 この上が主郭です
ここが主郭です 説明板が倒れていました
ここが主郭です 説明板が倒れていました
主郭の南側に鐘突堂があります 主郭の北側にも櫓台(土塁)があります
主郭の南側に鐘突堂があります 主郭の北側にも櫓台(土塁)があります
鐘突堂 主郭の南側には深い堀切があります
鐘突堂 主郭の南側には深い堀切があります
主郭の北側にも深い堀切があり、曲輪が続いています 主郭の北側の櫓台
主郭の北側にも深い堀切があり、曲輪が続いています 主郭の北側の櫓台
主郭は20m×43mの広さです 主郭の西側の腰曲輪
主郭は20m×43mの広さです 主郭の西側の腰曲輪
高山城跡
住所 富山県富山市婦中町高山 形式 連郭式山城 (標高199m/比高120m)
遺構 郭 土塁 堀切  築城者 寺嶋氏
施設 説明板 城主 寺嶋氏
駐車場 特になし 築城年 戦国期
文化財 なし 廃城年 不明
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