史跡 願海寺城跡
願海寺城の概要
願海寺城 石碑
願海寺城 石碑
願海寺城は、かつて富山県富山市願海寺にあった平城ですが、現在は城跡は水田となっていてその形跡はありません。主郭及び二の丸を水堀と湿地帯が囲む城であったと考えられています。
天正9(1581)年に、織田信長勢に攻められて落城しました。
これまで城の所在は不明だったのですが、平成14年の発掘調査により井戸跡、木簡、将棋の駒、箸、櫛、曲物、多量の陶磁器や漆器類と共に二重の水堀を備えた居館跡が見つかり、これが願海寺城だと推定されてようやくその正確な所在が判明したことになります。
城下町内を北陸道が貫通していて、道は防衛の為に曲がりくねった造りとなっていて、これが「願海寺の七曲り」として現代にも伝わっています。
平成20~24年度の下水道工事に伴う調査では、郭を囲む堀を確認しました。堀の配置から、南側の「実城」(本丸)は東西約80m、南北約120m、北側の「二之廻輪」(二の丸)は東西約80m、南北約50mの規模と推定できました。郭内では井戸や礎石建物などが確認されています。また銅・鉄製品の鋳造とともに金の加工を行っていたことが判明しています。
出士品は、中世士師器・珠洲焼・越前焼・瀬戸美濃焼などの陶磁器、漆器椀などの木製品、塼(焼レンガ)、火を受けた石などがあります。
いつ築城されたのかその年代は今ひとつわかっていませんが、上杉謙信に攻め落とされたのが天文19年(1550年)だったので、それ以前から城があったと思われます。越中国の国人領主寺崎氏の居城であり、寺崎氏が築城したと推定されていますが、詳細は不明です。
願海寺城 推定範囲
願海寺城 推定範囲
寺崎氏はもともとは畠山氏の家臣ですが、天文19年(1550年)に上杉謙信によって願海寺城が落とされ、当主の寺崎行重が敗死しています。その跡を継いだ子の盛永は、どうやら謙信に降伏してその配下となったようで、その後は謙信や一向一揆、越中国富山城主神保長職らとの間で巧みに立ち回って、その地位を保ったと思われます。
天文21年(1552年)には、この頃謙信に属していた寺崎盛永が天神林の戦いで越中国井田城主飯田(斎藤)利忠と戦っています。この戦いは利忠の弟である利常、利憲が盛永に討たれ、利忠は同族である斎藤信利が拠る越中国城生城へと逃れていて、盛永の勝利に終わっています。盛永は余勢を駆って城生城を攻めたが、こちらは城攻めに失敗して撤退したようです。
天正2年(1574年)には能登国を治めていた畠山氏当主、畠山義慶が死去し、これに乗じて越中一向一揆勢力は寺崎盛永を総大将に能登国へ攻め込み畠山方と二宮で戦うも敗れています。つまりこの頃には寺崎氏は一向一揆に組していたと思われます。
天正6年(1578年)に謙信が死去すると盛永は織田信長方に付いたのですが、信長は越中の国人たちが上杉氏と織田氏の間で去就定かでないことを察知していて、上杉方へ内通している可能性のあるものを悉く葬り去ろうと考えていたようです。
天正9年(1581年)3月に越中国の平定を進めていた佐々成政、神保長住らが御馬揃の為に京へ赴いている隙に、上杉家臣で越中国松倉城主河田長親が兵を率いて越中国小出城を攻めています。成政はすぐに引き返して上杉軍を撃退し、事なきを得るのだが、この時寺崎盛永や越中国木舟城主石黒成綱ら能登、越中の国侍が上杉方へ帰参する動きがあるとの情報が流れ、信長によって次々と誅殺されることになったのです。石黒成綱は安土に呼び寄せられて、途中で信長の魂胆に気づいて逃亡を図ったものの、途中で殺害され滅亡の憂き目を見たし、願海寺城は信長の側近で能登国七尾城代であった菅屋長頼に攻められ、小野大学助、大貝采女等家臣に内通者が出るなどして落城してしまいます。盛永と子の喜六郎は織田軍に捕らえられ、七尾城から近江国佐和山城へと護送され、尋問の末親子共に切腹させられたといわれています。
願海寺城はこのときの落城をもって廃城となったと思われます。
しかし石黒氏といいこの寺崎氏といい、信長ともあろうものが騙し討ちのようなやり方ははっきり言って見損ないましたね。
こんな事だから直後に自分が騙し討ちに遭うのです。

加茂神社入口 加茂神社が願海寺城の主郭跡です
加茂神社入口 加茂神社が願海寺城の主郭跡です
雇用促進住宅付近が郭跡です 加茂神社の赤い鳥居
雇用促進住宅付近が郭跡です 加茂神社の赤い鳥居
加茂神社 願海寺城跡からの出土品
加茂神社 願海寺城跡からの出土品
願海寺城跡からの出土品 願海寺城跡からの出土品
願海寺城跡からの出土品 願海寺城跡からの出土品
薬研堀 薬研堀
薬研堀(北堀) 井戸)
槽型木製品 いろいろな出土品
槽型木製品 いろいろな出土品
願海寺城関係史
年号 歴史事項 備考
※能登畠山臣下寺崎平左衛門行重の子民部左衛門盛永
天文6-8頃 寺崎氏射水郡開発村に移住
天文11(1542〉 盛永、放生津城を救援 神保方
天文19(1550) 寺崎泰山入道・金森斎宮が願海寺野で上杉方と戦う 神保方
天文21(1552) 盛永、井田城主飯田利忠と天神林で戦う 神保方
元亀元(1570) 盛永、神保氏春らの将として、石黒左近らとともに魚津城の上杉方を攻める 神保方
元亀3(1572) 盛永、一揆勢との戦いでの敗戦を鰺坂長実へ伝える 上杉方
天正2(1574) 盛永、能登二宮まで侵攻(畠山氏内紛に乗じて) 上杉方
天正3頃 14代了性、願海寺を小出から開発村に移転し建立
天正4(1576) 謙信、高岡関野で遊佐信濃守、小島、鞍智、寺崎氏と戦い、これを破って能登へ向う
天正5(1577) 上杉方将士名簿に「寺崎民部左衛門尉」の名が記載 上杉方
盛永弟掃部政国(上杉方足軽大将)が能登黒島で討死
天正6(1578) 3月上杉謙信死去 織田方
11月寺崎入道へ守山城に退去した能登長連龍の援助を信長が朱印状で指示
天正7頃 盛永、願海寺を焼討
天正9(1581) 2月佐々成政越中分封 上杉方
5月城下が炎上、「二之廻輪」へ盛永家臣の小野大学助・大貝采女が織田方の菅屋長頼(七尾城代)を引入れ、「実城」攻撃
盛永の子、喜六郎が小野大学助を斬り、負傷
願海寺城落城 (廃城)
盛永、能登七尾城代菅屋長頼の元で切腹
喜六郎、能登へ召寄される
天正10(1582) 6月盛永・喜六郎と盛永の姉の子石崎平馬、近江佐和山の丹羽長秀宅で問責
7月信長の命令で佐和山にて盛永・喜六郎切腹
切腹の様子は信長公記で「武勇無比観者感嘆」と記されていて、立派な振る舞いだったらしい。
家老草野大学など5人の家臣が切腹。家老蔵地孫之進は病死

願海寺城跡
住所 富山県富山市願海寺 形式 平城
遺構 なし(地下から多数の遺構が発見されている) 築城者 寺崎氏
施設 説明板 石碑 城主 寺崎行重 寺崎盛永
駐車場 特になし 築城年 天文19年(1550年)以前
文化財 なし 廃城年 天正9年(1581年)
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