加越能鉄道加越線(1972年9月16日廃止)
加越能鉄道加越線の概要
加越線の起点となった石動駅の現在の様子
加越線の起点となった石動駅の現在の様子
加越能鉄道加越線は、富山県小矢部市の石動駅と庄川町(現・砺波市)の庄川町駅とを結んでいた鉄道路線です。
1972年(昭和47年)9月16日に全線廃止されています。
砺波地域には、富山県で最も早く中越鉄道(城端線)が1897年(明治30年)5月4日に黒田仮停車場 - 福野間17.2kmが開業していますが、小矢部市南部の津沢町や井波町、青島村(庄川町)などは北陸線とも中越鉄道(城端線)とも無縁で鉄道建設から取り残されていました。
そこで北陸線に接続したい津沢町と、中越鉄道に接続したい青島町が中心となって1912年(大正1年)11月15日に砺波鉄道が設立され、北陸線石動駅から中越鉄道福野駅を経由して青島に至る鉄道を建設する計画が立てられたわけです。
しかし青島派と津沢派との対立が起こり、1915年(大正4年)7月21日にはとりあえず工事が先行していた福野駅 - 青島町駅(後の庄川町駅)間6.7kmを開業して運行を開始したものの、営業不振で砺波鉄道は苦境に陥っています。
要するに北陸線石動駅まで接続していないことが営業不振の原因と考えられます。
1919年(大正8年)9月17日には、砺波鉄道と金沢と福野を結ぶ目的で設立された金福鉄道との合併が実現し、加越鉄道に改称しています。これにより1922年(大正11年)7月22日には石動駅 - 福野駅間12.8kmが開業し、全線が開通しました。
この後、庄川水力電気が庄川に小牧ダムを建設することになり、青島町駅から小牧まで4.7kmの専用鉄道小牧線の建設を開始
加越線と城端線が接続する福野駅の現在の様子
加越線と城端線が接続する福野駅の現在の様子
しました。1926年(大正15年)1月15日には開業し、全線が電化され電気機関車による牽引が行われています。
さらにダム工事に必要な骨材の運搬にトロッコ軌道を改良・延長して柳瀬-青島ヤード間7.8kmの専用鉄道を敷設しています。
小牧ダムは、1930年には完成して柳瀬-青島ヤード間の専用鉄道は廃線になっていますが、小牧線はダム建設により不可能になった木材運搬の代替手段として引き続き利用しています。
この小牧ダム建設では、庄川水力電気と飛州木材らの木材業者との対立が激化しています。
加越鉄道の立場としてはダム建設で工事用の資材を大量に運搬できるのは大いに結構だったのですが、実は加越鉄道を立ち上げた経営陣は岐阜県の木材業者であり、飛州木材側の人間もいたわけです。そのため小牧線の分岐機を撤去するなど実力行使で工事を妨害する事態になっています。この対立は庄川水力電気と加越鉄道との和解があったものの、その後も木材業者側は木材を庄川に流して発電を妨害するなど深刻な状態が続いていました。
1930年(昭和5年)5月には加越鉄道は、庄川水力電気・昭和電力の傘下になっています。
小牧線は、一般旅客営業も開始していますが、1939年(昭和14年)10月には路線が廃止されています。
加越鉄道は、ダム建設が終了して貨物輸送が減少した後は、観光客誘致や富山紡績の貨物輸送を始めています。
この頃から加越線では蒸気機関車から気動車への転換を始めています。
加越線の終点である庄川町駅跡
加越線の終点である庄川町駅跡
1931年(昭和6年)2月10日にはガソリン動力併用認可を受け、ガソリンカー3両を導入しています。
さらに1932年(昭和7年)7月12日には重油動力併用認可を受け、ディーゼルカーを1937年までに3両導入しています。
この時期にディーゼルカーを導入しているとはなかなかです。この頃はまだまだ蒸気機関車の時代でした。
1938年(昭和13年)には電力会社が日本発送電に統合されることになり、庄川水力電気・昭和電力の持ち株は富山電気鉄道に譲渡されて、1940年(昭和15年)12月28日に加越鉄道は富山電気鉄道の傘下となっています。
さらに1943年1月1日には富山電気鉄道などの富山県内の鉄道会社が統合され、富山地方鉄道が設立されています。
加越線も富山地方鉄道加越線となっています。
戦後になり、1950年10月1日には加越能鉄道が設立され、加越線は加越能鉄道に譲渡されています。
加越能鉄道加越線となって当初は経営も順調でしたが、1956年から赤字に転落しています。
これは乗客数の減少というより、1955年(昭和35年)1月12日と1957年(昭和32年)1月26日の2度にわたって庄川町機関区の失火により車両を焼失していることが主な原因と思われます。
富山地方鉄道は、加越能鉄道の苦境に対して優良路線である高岡軌道線を1959年(昭和34年)4月1日に譲渡するなどして支援しています。加越能鉄道も必死に合理化を進めていますが、どうにも赤字体質が改善されず、1969年度の累積赤字は3億6000万円に達し、ついに廃線を決意しています。加越能鉄道は1970年(昭和45年)5月に富山県や周辺自治体に対して、加越線廃止を提案しています。これに対して反対運動が起こり、新会社設立も検討されましたが、結局はバス代行という案に落ち着いています。
1972年(昭和47年)9月16日、加越線はついに全線廃止となっています。加越線の廃線跡は富山県に買い上げられて、現在はほぼ全線がサイクリングロードとなっています。そのため廃線跡を辿るのは簡単ですし、沿線の途中にはかなりの遺構が残されています。富山県内の廃止路線の中では最も遺構がよく残されている路線と考えて良いでしょう。
なお、北陸の私鉄路線はほとんどが電化されていますが、加越線は最後まで非電化でした。当初は電化する計画もあったのですが、新線建設計画が挫折するなどして最後まで電化される機会を得ることができなかったのです。
この加越線は車両庫の失火から車両を焼失したのがケチのつけはじめだったことから、不運な路線という見方もできますが、実際のところ現在のレベルからすれば、廃止時点でも決して乗客数が大幅に減少していたわけでもなく、少々見切りが早かったのかもしれません。なお昭和45年での収支係数は118でした。
これくらいで廃線とは当時の加越能鉄道は堪え性がなかったのかな・・・。今のように第3セクターという概念がなかったので行政側からの支援が期待できない状況だったということでしょうか。

加越能鉄道加越線 路線データ
路線距離  石動-庄川町間 19.5km
軌間  1,067mm
駅数  14駅(起終点含む)
複線区間  全線単線
電化区間  全線非電化
閉塞方式  特殊自動閉塞式
開業年月日  1915年(大正4年)7月21日
廃止年月日  1972年(昭和47年)9月16日
使用車両  独コッペル製Cタンク機 1・2号機
 独アーノルドユンク製Cタンク機 3号機
 独コッペル製Cタンク機 4・5号機
 DL101・112 651号
 キハ1・2・3
 キハ11(キハ7751) 
 キハ12・13(キハ11052・11053)
 キハ15001 キハ125・126
 キハ187 キハ173 キハ162
加越能鉄道加越線 駅一覧
駅名 駅間
キロ
営業
キロ
接続路線 駅員
配置
交換
設備
所在地
石動駅 - 0.0 JR北陸本線 小矢部市
南石動駅 1.6 1.6    
四日町駅 1.0 2.6    
薮波駅 2.0 4.6  
津沢駅 2.7 7.3  
本江駅 1.6 8.9     南砺市
(旧・福野町)
野尻駅 1.0 9.9    
柴田屋駅 1.0 10.9  
福野駅 1.9 12.8 JR城端線
焼野駅 1.7 14.5    
高瀬神社駅 1.2 15.7   南砺市
(旧・井波町)
井波駅 1.9 17.6  
東山見駅 1.0 18.6     砺波市
(旧・庄川町)
庄川町駅 0.9 19.5  

加越能鉄道加越線 廃線跡レポート
加越線の起点である石動駅加越線ホーム跡
加越線の起点である石動駅加越線ホーム跡
加越能鉄道加越線の起点は、石動駅です。この石動駅から庄川町へ向かってサイクリングロードがあり、これが加越線の廃線跡となっていますので自転車で全線踏破するのが一番でしょう。
現在の石動駅は、言うまでもありませんが北陸本線の駅となっています。「いするぎ」は紛れもなく難読駅と言えましょう。
駅の南側にはかつて加越線のホームがありました。現在はホーム跡は駐車場となっていて、かつては道路を跨ぐ踏切があったのでしょうが、道路の向こう側にはサイクリングロードがあり、ここから自転車の旅が始まります。
自転車道はすぐに左にカーブしますが、右側にはおもちゃの図書館メルヘンと手をつなぐとなみ野があります。
川を渡り、さらに道路を跨ぎます。このあたりは小矢部市の市街地です。
さらに自転車道は南に進みますが4車線道路をまたぐと次第に田園地帯へと入っていきます。
この田園地帯の中に加越木工の工場があり、そのそばに空き地があるあたりが南石動駅跡です。
特に遺構はありませんが、線路跡のそばの空き地だけが片面ホームの駅があったという痕跡だとわかります。
しかしこのあたりは人家もまばらですが、当時はどうだったのでしょうか。
そして最初の遺構といえる渋江川橋梁にさしかかります。小矢部川支流の渋江川に架かる橋梁は、鉄道路線時代の橋台と橋脚を転用していますが、橋桁は新しいものです。
渋江川橋梁は貴重な遺構の一つです
渋江川橋梁は貴重な遺構の一つです
ここには橋が3つありますが、橋桁はいずれも塗装して間もないきれいな状態でした。
さらに道路を踏切が斜めに横切っていたであろう地点を通ると四日町駅跡に到着します。
ここは道路と線路が並行していて道路のすぐそばに駅があったことがわかります。
駅跡付近は公園のように整備されていますが、要するに自転車道の休憩地点となっているのですね。
データを見るとこの駅は当初は列車交換が可能な駅だったということですが、う~ん、駅の敷地から考えると微妙な広さですね。片面ホームというのでは広いし相対式ホームを持つには狭いかなと思うので。島式ホームだったのかな。
というわけで古い写真で確認すると、元々は列車交換が可能な島式ホーム1面2線だったものが、片側の線路を撤去して、単式1面1線になったものであると推測されます。
駅舎の跡地は、現在では公民館となっていて、そばにあった石碑が現在では石動駅方向に移動していて、駅の位置がたいへんわかりにくくなっています。これって反則ですね。とにかくさらに廃線跡を南に進みます。
近くには小矢部川がありますので、これが破堤したらここまで水浸しになりそうです。
やがて藪波駅跡に到着します。ここは明らかに駅だったことがわかる状態です。
構内も広く、列車交換設備があったことはまず間違いないでしょう。ここも四日市駅と同様に自転車道の休憩地点になっていて整備されています。藪波駅の旧駅舎は移設されて公民館になっているとのことでしたが、既に撤去されていました。(泣)
四日町駅跡は自転車道の休憩所になっています
四日町駅跡は自転車道の休憩所になっています
しかも売地の看板があったのですが・・・。
要するに建物が老朽化して取り壊すことになったのでしょう。残念ながら2009年6月時点では、藪波旧駅舎は既に取り壊されて現存していないということになります。これでまた一つ重要な遺構が失われたことになります。
気を取り直してさらに南に進みます。北陸自動車道の下をくぐり、国道359号線と合流するとなんと線路跡が消失しています。どうしてかというとここから小矢部川を渡る小矢部川橋梁は廃止直後の1973年7月に撤去されているので、自転車道も別線を走るしかないわけです。とにかく小矢部川を渡り対岸に渡ると、津沢小学校前から自転車道があり、ここが廃線跡ですので、ここを通ります。
津沢駅跡もすぐ先にあります。公園になっていてイマイチわかりにくいのですが。
さらにとなみ野高校の近くを通り、東海北陸自動車道の下をくぐり、国道471号線に並行して走ります。
このあたりの電柱は、普通の電柱とは違うのでどうも線路そばにあったものを転用しているのではないかと思うのですが・・・、実際はどうなのでしょうか。
そして本江駅跡は今はバス停となっています。ここは待合所もあるバス停です。そして自転車道は国道と離れて南下します。野尻駅跡は、県道143号と自転車道が交差した先にありますが、この駅については、ほとんどの文献でも触れられていません。駅自体は昭和44年に開業していて廃止寸前に開業したことになります。廃止が取り沙汰されている時期に開業したというのはどうしてでしょうか。そのことについてもいろいろ調べてみましたがどうにも判然としません。
城端線と道路を渡る跨線橋は加越線最大の遺構です
城端線と道路を渡る跨線橋は加越線最大の遺構です
このあたりは福野町の領域ですが、今は南砺市となっています。次第に福野市街へと自転車道は入っていきます。
ところが幅の広い道路に自転車道が吸収されてしまいます。このあたりに柴田屋駅があったのですが、今は駅がどこにあったのかわからない状態となっています。この道路はごく最近拡幅されたようです。
しかし線路はちょうどこの道路の歩道の部分にあったのだと見当はつきますので、そのまま道路を走ります。やがて道路がとぎれて再び自転車道が現れます。そして次第に左にカーブしながら築堤を登り始めるのです。
福野駅へ入線する加越線は、城端線をまたいで駅の東側に出るのです。それでこの部分には道路をまたぐ跨線橋が2つと城端線をまたぐ跨線橋が1つあり、加越線では最大の遺構といって良いでしょう。なんと2009年6月現在、橋脚を工事中でした。ううむ、自転車道となったこの跨線橋を維持しようと補修工事をしているのです。遺構の保存は最優先でお願いしたいところです。
そして福野駅の東側に入るのですが、自転車道はここでとぎれています。現在は福野駅の東側には川田工業の工場があり、福野駅の加越線ホーム跡は、今では川田工業の敷地となっています。
駅の東側にある自転車道から再び井波方面に向かいます。JA福野営農センターが線路跡に造られたらしく、自転車道が迂回していますが、すぐに本線に戻ります。焼野駅跡は踏切があったであろう道路との交差地点の手前にあります。
ここにはコンビニもありますので一休みすると良いでしょう。さらに東南に向かって自転車道は続きます。
旧井波駅舎は登録有形文化財となっています
旧井波駅舎は登録有形文化財となっています
高瀬神社駅は高瀬神社の鳥居がある地点にありました。ここは駅構内がかなり広いようで列車交換設備があったと考えて良いでしょう。この駅跡には倉庫がありますが、実はこの倉庫は現役時代に貨物の積み卸しに使っていたものです。つまり立派な遺構ということです。見たところでは保存状態も悪くありません。
さらに自転車道は井波に向かいます。井波の市街に入ると東洋紡の工場があり、そこで左にカーブして国道471号線をまたぐと井波駅跡に到着します。何とこの井波駅舎は現存していて現在は井波物産展示館となっていてタクシーの待合所となっていてバス停もあります。旧井波駅舎は登録有形文化財に指定されています。
この旧・井波駅舎も極めて重要な遺構といえます。
駅前にはパン屋もありますので、ここで一休みしても良いでしょう。このあたりは一般道と自転車道が並行して走っています。さらに井波市街地を走ります。そして再び自転車道のみとなり、国道156号線と交差する直前に東山見駅に到着します。ここは道路幅が広くなっていて片面ホームがあったことを示しています。
国道156号線をまたぐ際にはまっすぐではなく迂回して道路を横切るので注意してください。ここは交通量が多い幹線ですので自動車にはねられないように注意してください。
国道をまたぐと道の駅と神社がありますが、自転車道は庄川町へ向かって走っています。
東山見駅跡
東山見駅跡
庄川町駅は加越線の終点駅ですが、実はここにはこれといった遺構が残っていません。駅跡は当初はバスターミナルに転用されていたのですが、今では駅の敷地が住宅地となっていて痕跡が残っていないのです。
ただし、駅があったのだという雰囲気は残っています。駅前にはJAとなみ野とコープとなみ野があります。
終点駅で機関区があった駅なので構内はかなり広かったと思われますが、前述したようにこの車両庫が二回も火災を起こしていて気動車を3両も焼失しているのです。廃止になったのもこれがケチのつけ始めであったと思われる節もありますので、かえすがえすも残念なことです。
当時も今も鉄道にとって車両は極めて高価で貴重な資産なので、これを失うことは特に中小私鉄にとっては死活問題に直結するのです。
この駅跡からさらにその先にも線路があったのではと思われる道路が続いていますが、これは小牧ダムへの専用線があった痕跡でしょう。
しかしこの廃線跡を追うのは極めて困難です。
廃線になったのは昭和14年のことですので、加越線が廃止されたのは昭和47年ですから、その33年前のことです。
一部は自転車道になりトンネルがあるのでそこをチャレンジしてみるのはおもしろいでしょう。
これで加越線の旅は終わりますが、この加越線のようにほとんど全線が自転車道に転用されていると廃線跡を辿るのは比較的容易ですが、このようなケースでは自動車で廃線跡を追うのは逆に面倒です。
と言っても不可能ではありません。駅跡のある地点は必ず道路がつながっていると考えて良いからです。
しかし射水線のように自転車道、一般道、バス専用道などが混在している路線跡はなかなか跡を追うのは難しくなります。特に射水線の場合、富山市周辺の線路跡が工事や改良などでわかりにくくなってしまいました。新湊方面は自転車道になっているのでまだいいのですが。
また笹津線のようにほとんど全線が一般道になっていると自動車で路線跡を辿るのは容易ですが、遺構はほとんど残っていないことになります。笹津線跡は路線跡ははっきりしているのですが、駅の位置が判然としません。
富山県内の廃止された3路線のうち、加越線は最もよく遺構が残っているといって良い路線ですので富山県内で廃線跡を辿りたい向きはまず加越線から始めるのがお勧めでしょう。
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加越能鉄道加越線 路線マップ
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